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道場の自販機とケツポケット【Ver.2】

昭和生まれのおっさんは、ケツポケットに小銭と札を裸で入れて持ち歩くんだと思ってた。
じいちゃんがそうだったし、師匠もそうだったから。と言っても、じいちゃんと師匠の他に、ケツのポケットに金を持ち歩く人を見たことはなかったけど。

4代目の道場長が亡くなる前、ユウタが中学生のときだった冬、中1か中2のときだった。
道場の前に、まだ、赤い自販機があって、お茶もスポドリも、コーラもコーヒーも、一律100円で売ってた。稽古が終わると、おっちゃんたちが、よくジュースをおごってくれた。
小銭入れから100円玉を出して、ユウタに渡す。河田のおっちゃんなんかは、好きなの買いな、といつも言い、数百回は聞いたものだから、未だにユウタは、その声を思い出すことができた。
ただ、師匠がユウタに飲み物をおごってくれたことは、あの一回だけだった。だから、その日のことが、よほど印象に残ったんだろう。ユウタは、師匠によく似てる。

ベタベタとして、重たい雪が降っていた。うっすらと、自販機の上にだけ、雪が積もって、赤い筐体がほんのり白く、向かいの街灯を受けて光ってた。古い街灯だった。
「100円」の文字が赤く光る。ボタンの上に書かれた「あたたかい」という文字が目に入り、ユウタは、ポケットに手を突っ込んで震えた。
一年中、半袖半ズボンだったユウタも、中学生になって、さすがに寒くなったのか、冬場、薄手のパーカーを羽織るようになった。緑のカーゴパンツに、ミリタリーチックなカーキ色のパーカー。目深く被った黒いワークキャップで、顔に降りかかる雪を避けるように俯いた。白い息を宙に散らして、足下で消える雪を、ぼんやり眺めて時間をつぶす。
ガラス戸越しに、師匠が靴を履きながらその様子を見ていた。ユウタは、師匠が来たなあ、と背中で感じていた。
出入り口から出てきた師匠を、ちょっとユウタが横目で見ると、師匠は、右のケツポケットから500円玉を出す。硬貨を投入口に入れると、師匠は迷わず缶コーヒーのボタンを押した。ガタン、と音を立てて、商品が取り出し口に落ちる。レバーを引いて、400円のお釣りを取る。
「ん」
師匠はそう言って、取り出し口から出した缶コーヒーをユウタに手渡した。

ユウタは、隣のココアが飲みたかった。コーヒーを飲みたがるのは、なんか「中学生」っていう感じで、嫌だった。だけど、うちの師匠は、自分がコーヒーを好きなものだったから、たぶんコーヒーにしたんじゃないか。自分が好きなものは、誰かれ構わず、みんな好きだと思ってた人だから。
出てきたコーヒーを取り出したとき、手の中で缶を少し回転させた。ユウタは、受け取ったとき、一言だけ言った。
「ありがとうございます」
ユウタの声は小さくて、師匠の耳には聞こえなかった。人と話すのが苦手だったユウタの声は、出すたび、通らない。
師匠は、そういうことをあんまり気にしなかった。あいさつとか、お礼とか、謝ったりとか、自分も苦手な人だったから。師匠の方も師匠の方で、ユウタと二人っきりになったのが気まずかったんじゃないかと思う。胸ポケットからタバコを出して、ライターで火をつけた。あの頃の師匠は、まだヘビースモーカーで、何かと待ち時間にはよく吸った。
このコーヒーが飲み終わってしまうと、気まずくなると、ユウタも思ったんだろう。やけにゆっくりと飲む。
稽古終わりの時間で、あたりは暗く、やっぱり寒く、でも、師匠にもらったコーヒー缶だけが、飲み終わるまでの間、いつまでも温かかった。

自販機は、4代目が亡くなるのと一緒に無くなった。4代目が道場の持ち主だったので、いっしょに自販機の契約も切ることになったのだった。
雪の日、道場前の雪かきを手伝っているときに、たまたま四角い自販機の跡が目に入って、ふと、師匠にもらった缶コーヒーを思い出した。

ユウタが高校生に上がったとき、まだ小学校1年生だったナオキが、小学生の部に入門した。小学校3年生くらいまでは、本当に可愛い子だった。小学校4年生くらいから、ちょっと生意気になった。中学生になってからは、ユウタに似て、全然喋らないやつになった。
ナオキは、小学生のとき、稽古が始まる30分前に来て、一人で鬼ごっこをした。ナオキが小学生の部だった6年間は、あいつ一人しか小学生の弟子がいなかった。
小学生が一人で大人に囲まれて習うのはかわいそうだからと言って、高校生のユウタも小学生の部の稽古に呼ばれた。高校の授業を終えて、学ランを引っ掛けたまま、その足で道場に来た。下校時間すぐに行くと早過ぎるから、チャリでそこら辺を走り回って時間を潰した。ユウタは、チャリで走るのが好きだった。
ユウタは、一人で遊んでいたナオキと、鬼ごっこをしてやった。道場は30畳で、都心の町道場としては大きいが、鬼ごっこをするには狭かった。正面には神棚があって、神棚のある壁は、一面鏡だったから、走り回ると危ない、とおっちゃんたちからよく叱られた。

ベタついた雪の積もった自販機の横に、ナオキが立っている。稽古終わり、薄暗く、寒かった。
ユウタは、金具が錆びついたショルダーバックから財布を出して、焦茶けた革製の財布から200円を出した。自販機の投入口に硬貨を入れる。ボタンを押そうと人差し指を出した手を上げた。ナオキの目線は、その手に向いて、その人差し指は、缶コーヒーのボタンに当たった。押し切らずにほんの数秒止まった。隣にココアがあり、指は、微かにココアのある方へとずれかけた。
昔の自分を思い出す。
缶コーヒーのボタンを奥まで押し込む。
170mlの缶が取り出し口に落ちる音がして、取り出し口に出てきたコーヒーは、ブラックで、ユウタは、缶を取り出すと、ナオキに渡した。お釣りが自動で落ちてくる。
「ありがとうございます」
ナオキの小さな声が聞こえたような気がしたが、あまり気にせず、釣り銭の取り出し口から10円玉を取り出して、7枚あることを確かめた。ユウタが振り返ると、ナオキが、やけにゆっくりと、コーヒーを飲んでいる。
しばらく目が合ってしまった。どちらも何も、話さない。
ナオキは、ちょっと気まずそうに、また、ゆっくりと缶を傾ける。それを見て、ユウタは、少し笑った。
「なんで笑うんですか?」
ナオキが目で聞いてくる。ユウタは少し困った。
「別に」
聞こえたのか、聞こえなかったのか、そう呟いたユウタの表情を見て、ナオキもまた、少しだけ笑顔になった気がした。
そして、ユウタは、確認したお釣りを右のケツポケットにしまった。

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