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虫を愛する者同士

とある日の朝、やや遅刻気味で1年E組の教室へ行くと、やけに騒がしい。ぼくがチャイムギリギリだったかどうかなんて、誰も気にならないくらい、みんな、ベランダに出る窓にうじゃうじゃと群がり、何かに夢中になっている。
「何かあったの?」
と、聞くと、
「でかい虫がいるんだよ」
と、クラスメイトの男子が答える。
それこそ虫のように、人の群がる窓を覗くと、窓の外側、ちょうど鍵の高さのところに巨大な蛾が止まっている。き、気持ち悪い……。
ぼくは、わざわざ見に行ったことを後悔したのだけど、そのとき、
「かわいい」
という声が、背後からぼくの耳に入った。
え、と思って振り返ったら、対屋さんだった。
茶色い蛾には、真ん中が白い目玉のような斑点模様が三つあり、羽はケバケバとしている。切り株の年輪のように波打った縞模様で、羽の外側だけ赤茶っぽい。サイズは体長5cm、羽を広げた長さが10cmちょっとといった感じだ。ちなみに、全くかわいくはない。
うちのクラスでも一、二を争う優等生、出席番号23番の対屋さんは、蛾などとは縁がなさそうで、ぼくとおんなじインドア系女子だと、勝手に心の中で思っていたから、こういうのが趣味だとは思わなかった。
以前、対屋さんが、「わたし、かっこいい系男子より、かわいい系男子の方がタイプなんだよね」と言っていてちょっと残念だったのを、ふと思い返す。つまり、ぼくの知るかぎり、対屋さんは、

好きな男子のタイプ = かわいい系男子
ベランダに止まっている蛾 = かわいい
つまり、
好きな男子のタイプ = ベランダに止まっている蛾系男子

ということになる。このことを知ったら、対屋さんに好かれた男子も、さぞ複雑な気分だろうと思って、ちょっと笑えて、心がすっきりとした。
「おー、たしかにかわいいな」
そう言って後ろから現れたのは担任の出間先生だった。先生は、Google レンズを使って蛾の正体を調べはじめた。
「これ、『ヤママユ』だな」
先生は言った。どうやら、近くの公園の森でもしょっちゅう見かける虫らしく、特に珍しい蛾ではないそうだ。生徒たちから「虫の出間」と呼ばれるだけあって、その後も、ヤママユは成虫になると口が退化して食事を摂らないだの、そのため動きが鈍くなるので、放っておいてもどこかに飛び立ったりはしないだろうだの、ヤママユに関する蘊蓄を開陳する。
ヤママユ、か……。今まで聞いてきた話をまとめるに、対屋さんの好きな人は、「ヤママユ系男子」ということに、一人、神妙な面持ちで、ぼくは蛾を眺めた。
「でも、蝶の収集家が集めるのは、実は、蝶々より蛾の方が多いんだよ。」
ぼーっとしていたぼくの耳に、再び出間先生の言葉が入りはじめる。
「蝶よりも蛾の方が模様のきれいなやつ多いからね。ほら、こいつなんか、顔もかわいいだろ?」
理解できないなあ。朝の会の予鈴が鳴る。生徒たちが、各々席に着きはじめた。


今日の日直はぼくだ。日直は、その日の出来事を学級日誌に記録することになっている。
面倒くさいので、適当に書いて教卓に提出して帰ろうかと思って、放課後、日誌を開くと、思いがけず、昨日の分の「今日の出来事」欄に目が留まってしまった。

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10月3日(火) 天気:くもり 日直:対屋光希

<今日の出来事>
うちのクラスの担任の、「出間」と書いて「いずま」と読む、この数学教師は、虫に好かれる体質の方でした。本人の話によりますと、虫に好かれるようになったのは、うちの中学校に転任してからだとのことですが、私たち生徒は、信じてはおりません。だって、どこからどう見ても、前世から虫と友達でした、というような様子で、虫たちと親しくしているのですから。

出間先生が担任を受け持つことになりました、私たち1年E組の教室では、ベランダの室外機に蜘蛛が巣を張って住みつきはじめました。授業を始めようと出間先生が教室に来ると、教室前の廊下で待機していたハエがいつも一緒に入ってきます。廊下を歩いていれば、蝶々が横を飛んで、とても仲が良さそうです。
出間先生が担任となってからというもの、すでに半年近くが経ちました。私たちE組の生徒の間では、出間先生と言えば虫、出間先生は前世から虫と一緒に共同生活をしていた、とのことで、話がまとまりました。
最近では、人生で初めての一人暮らしを始めたそうですが、独りぼっちで寂しい、と言っていたところ、二匹のゴキブリさんが現れ、同居を始めたとのことです。名前もつけたとのお話で、「ゴキいち」と「ゴキに」と呼んでいるとのことでしたので、生徒たちの噂について、本人もまた、まんざらでもないのではないか、と一同思っております。

「愛とは、憎しみの裏返しである」と、国語の元澤先生がおっしゃっておりました。であれば、出間先生の身に起きたあの事件もまた、虫との相思相愛ゆえに起きた悲劇なのでしょう。
私が、部活動の着替えのため、更衣室の鍵を職員室に取りに行きますと、私の横を抜けて、例の出間先生が中へと入っていきました。一緒に廊下を飛んできておりました蝶々と出入り口でお別れの挨拶をいたしますと、ドアの脇に待機しておりましたハエが、出間先生とともに、職員室の中へと入ってまいります。この様子について、私の方では、ああ、さすがは前世から虫と暮らしていた先生だ、と感心して見ておりました。
しかし、実はこの日は違っていたのです。いつものお友達のハエ(生徒たちは、「ハエじろー・モイモイ」と呼んでいます)だと、私が勝手に思い込んでおりました虫は、よくよく見てみたら、巨大な、何か、やばい虫でございました。トゲのように鋭く長いひざを持ち、サイズとしては、5cmくらいはあろうかと思われる巨大な六枚羽根で、近くを飛べば、ハエとは全く違った、恐ろしい羽音がいたします。
私が、そのビジュアルに恐れ慄いておりましたその時、ついに悲劇が起こったのです。突然、出間先生が「いぴゃっ!」と叫びました。各々、パソコンでお仕事をされておりました他の先生方の目線が、出間先生の方へと集まります。なんと、出間先生の後頭部に、例のやばい虫が止まっているではありませんか。
右手を押さえながら、うずくまる出間先生。そんな先生をよそに、堂々たる姿でその恐ろしい虫は、先生の後頭部に鎮座ましましておりました。
後で聞いた話によりますと、巨大な虫が後頭部に止まっていることに気がつきました、出間先生は、その虫を追い払おうと右手を頭の後ろに回したところ、虫が噛み付いたのか、刺したのか、反撃を喰らったとのお話でした。虫に刺された(?)ところは赤く腫れ上がり、保健室で氷嚢をもらって、職員室で冷やすことになってしまったようです。
出間先生、お大事にしてください。
しかし、それも親友であるはずの虫に暴力を振るったからこその報いだったのだと思います。
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「今日の出来事」は、字数を大幅にオーバーして、3ページに渡り書かれていた。
対屋光希さんだけど、まさか彼女が、こんな日誌を書いているものとは想像もしていなかった。同級生とは思えない、すごく癖のある文章……。才能の無駄遣いだなあ、と思った。
この文章を前にして、ぼくはいったい「今日の出来事」の欄に何を書けばいいんだろうか。ヤママユのことを書けばよいのか。考えること、放課後、15分間が経過しようとしていた。
そういえば、出間先生は、この文章を読んで、どんなコメントを返したのだろう? ぼくは「先生からのコメント」欄を見た。

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<先生からのコメント>
まあ、そういうこともある。
ところで、先生は、「いぴゃ!」とは叫んでいません。「痛っ!」です。
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横には、凛々しい眉毛に、キリッとした口元、右手にトンカチを持ったドヤ顔の、可愛らしいカエルのイラストが描かれている。
対屋さんと出間先生。日誌を通した二人のやりとりは、もはや、よく分からない。「そういうこと」とはいったいどういうことなのか。突っ込むべきところは、「いぴゃっ!」なんだ。このトンカチを持ったカエルは何なのか。
それにしても、「親友であるはずの虫に暴力を振るったからこその報い」って……。対屋さんの言葉は、出間先生にやけに厳しい。
先生も大変だな。慰めてあげよう。そう思って、「今日の出来事」の欄には、こう書いた。

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10月4日(水) 天気:晴れ 日直:田宮光

<今日の出来事>
対屋さんの文章を読んで、先生って大変だなって思いました。
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日誌をいつも通り、教卓の上に置いて帰ろうとしたとき、窓に張りついたヤママユが目に入った。その様子は、朝、みんなが騒いでいたときと全く変わらない。
「かわいい……、か」
ぼくは勇気を振り絞ってベランダの窓を開けた。そのことに気がついたのか、気がついてないのか、ヤママユは、やはりぴくりとも動かない。
震える指で、ヤママユの羽に触れてみる。見た目通り、その羽は毛羽立っていて、想像したよりも硬かった。もう死んでしまったのだろうかと思っていると、ヤママユと目が合った。出間先生が「かわいい」と言っていたヤママユの顔を、初めて真正面から眺める。
ただ、その表情には、すでに生気がなく、ずいぶん疲れているように見えた。なんだかかわいそうで、人差し指でそっと頭を撫でた。そして、やっぱり動かない。
ぼくは、ヤママユが驚かせないよう気をつかって、ゆっくり、窓を閉めようとした。
「あれ、光、まだいたんだ」
唐突に名前を呼ばれて、驚く。
「ヤママユ、見てたの?」
同志を得たような、嬉しさを隠しきれない弾んだ声で対屋さんが話しかけてきた。
いや、別にそういうわけじゃ、と言いかけて振り向いたときには、つかつかと対屋さんは、ぼくの横を通り過ぎ、すでにベランダに出ていた。
「先生に言わないでベランダ出たら怒られるよ」
そう言いながら、ぼくもベランダへとついて出た。
「光もヤママユの魅力にとうとう気がついたんだね」
首を傾けて、意地悪そうな目線をぼくに向ける。そういうわけじゃ、と言いかけたときには、彼女はもうヤママユの方に目を向けていた。
こんな風に喋る彼女を初めて見た。教室にいる対屋さんは、いつも真面目で、優等生で、みんなからも慕われてて、おんなじインドア系女子でも、ぼくとはやっぱり違ってた。だから、こんな風に、親しげに話しかけてくれる対屋さんに、少しどぎまぎしてしまう。
「飛んでるときが、一番かわいいよ」
対屋さんが、ヤママユの顔の前に手を出す。さっきまで、ぴくりとも動く様子のなかったヤママユが、微かに羽を動かし、彼女の人差し指に乗った。
対屋さんが、ヤママユが落ちないよう、そっと、右手を上げて、手すりの向こう側に掲げる。ヤママユが、また、少しだけ羽ばたく。細い指から、こぼれ落ちるように離れると、一瞬、空中を滑空し、羽ばたき、また滑空し、羽ばたく。左右に揺れながら飛ぶヤママユは、自分を空へと運んでくれる風を探すように、ふわりと、自分を地面へ落とそうとする空気の重さに抗うように、パタパタと、ぼくたちの学校の向こう、敷地の外の森の中へと去っていく。
くるっと向きを変えた、対屋さんのセーラー服の襟が、ふわりと一瞬舞う。浮いたスカートが遅れて元の位置に止まった。まっすぐこちらを見てくる目に目が合った。
「ね? かわいいでしょ」
このとき、少しだけ、やっぱり少しだけだけど、対屋さんがヤママユを「かわいい」という理由が、分かったような気がした。だって、対屋さんの笑顔が、とても晴々しく、嬉しそうで、すごく、かわいかったから。

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