人権作文「貧困、その距離感」

中学2年生となった少年と、久しぶりに少しだけ話をした。彼が言った。
「人権作文、あれ本当に意味ない」
自分の置かれた立場をひとまず置いて、概ね、彼の言葉に同意しようと思う。「人権」について何かを語るには、教える側も、教わる側も、あまりに多くのことを知らないのだと思う。「人権」という社会問題に、身近なことだけをもって何かを書くことの危うさは、常にある。定められた締め切りのために、字数制限をこえた、形だけ量産される「人権作文」に、傷つく当事者も、きっと、いるだろう。
それでも、課題として書くしかないとなったとき、試されているのは、「人権作文」を書くことに意味があるかではない。たとえ無意味であるかもしれないとしても、今、ここで、自分が何を応えようとしただろうか、と考える。
彼が、読んでくれているかどうかは分からない。ただ、自分たちの「やらされる」課題に対して、素直に、率直に、その意味を問うてくれた彼の言葉には、やはり、素直で、率直な言葉で応えることが、誠実な態度なのではないかと、ぼくは思う。
これから書くものが、君の言う「意味」に応えうるものかどうかは、君のこれからの人生が、教えてくれる、ことだろう。

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
(『世界人権宣言』第一条より)

初めて読んだとき、不思議だなあ、と思った。本当に、すべての人間が「生まれながらにして」自由で、尊厳と権利とについて平等であるなら、どうして、それが「宣言」されなくてはならないのだろう? 理性と良心とを「授けてくれる」のは、いったい誰なのだろう? もし本当に、「良心」が授けられているのであれば、どうして互いに同胞の精神をもって行動「しなければならない」ことを、確認せねばならなかったのだろう?
この宣言は、いくつかのことを、ぼくたちに教えてくれている。つまり、この世には差別があり、ぼくたちは、授けられなければ、「理性」も「良心」も持っていなかったということ。すべての人が、自由で、尊厳と権利をもつことは、すべての人の努力に依るのだということ。
皮肉なことに、宣言があること自体が、「すべての人間」が「生まれながらにして」持っている「人権」というものが、「生まれながらに」はないことを、よく物語っている。そして、その恩恵にあずかっているぼくたちほど、「人権」というものがなくなった状況を、想像できない。

2020年2月22日、大阪府八尾市のアパートで、57歳の母親と、24歳の長男の親子2人が遺体で発見された。死後1ヶ月以上経過した母の死因は、薬物による自殺とみられた。長男の方は、死後10日ほどで、死因は栄養失調による低体温症、要するに餓死であった。部屋のガスと水道は止められ、ほぼ空っぽの冷蔵庫、所持金は小銭が数十円しかなく、誰にも助けを求めることなく、二人は亡くなった。
1ヶ月以上も前に亡くなった母。10日ほど前に亡くなった長男。長男は、母の遺体とともに、1ヶ月近くを過ごしたことになる。
自死を選んだ母親の遺体を前に、息子は、何を思って日々を過ごしたのだろう。食事を摂ることもなく、24歳という若さの彼は、母の後を追った。

日本という国のイメージと、こうした貧困による餓死や自殺は、結びつかないかもしれないが、2000年以降、こうした「事件」は、幾度となく起きている。2006年の北九州市で起きた56歳男性の餓死事件。翌年、2007年、同じく北九州市で52歳男性が餓死遺体で発見された。2012年、札幌市で、40代の姉妹が餓死・孤立死し、同年、埼玉県で60代夫婦と30代の親子3人が餓死しているのが発見される。その他、2012年だけでも、立川市や足立区などで7件の孤立死が発生したという。
コロナ禍から1年、2020年の年間自殺者数は、2万1081人。最も多い自殺の原因は、病気やけがなどの苦痛による「健康問題」だったが、次いで多かったのが、「経済・生活問題」。つまり、仕事を失い、お金もなくなってしまった人たちである。加えて、小中高生といった子どもの自殺は、過去最多の499人となった。
コロナ禍以前の2019年ですら、国民生活基礎調査では、国民の半数以上が生活が「大変苦しい」「やや苦しい」と回答した。母子家庭になるとさらに増え、80%以上が「大変苦しい」「やや苦しい」と答えている。
多くの人にとって、この国で生きることが、「やや苦しい」以上の苦しい出来事となっているのだと思うと、悲しい。一方で、ぼく自身は、自分の今生きている生活に苦しいとまでは、思わない生活を続けている。
新聞で、ニュースで、連日流される生活苦。貧困。この、「苦しい」人たちと、ぼくとの距離は、一体どのくらいの距離感なのだろうか?

ぼくに空手を教えてくれた師匠は、タクシー運転手をしている。なりたくてなったわけではない。若い頃は、建築会社で設計士をしていた。
師匠の働いていた建築会社は、ある日突然、倒産した。社員たちは、会社の実態を知らず、2ヶ月分の給料も払われることなく、社員皆、その日から無職となった。不景気の中、様々な事情で、同じ設計士の仕事には就くことはできず、かなりの時間が経ってから、ようやくタクシー運転手となった。
ぼくが22歳になり、ちょうど仕事を探していたときに、飲みながらそんな話をしてくれた。結婚し、子どももいた師匠が、タクシー運転手の仕事に就くまでの間、どんな生活をしていたのかは、話してくれなかった。自分も、特に聞かなかった。
今更、こちらから聞くような話でもない。これからも、師匠にこの話を続きを聞くことはないだろう。
師匠は、時々、道場の稽古用の道具を作ってくれる。この間も、巻藁という正拳突きの稽古道具をぼくにプレゼントしてくれた。ぼく用に、ピッタリと寸法のはまった巻藁を見ると、師匠が元設計士だったことを不意に思い出した。会社が倒産し、収入もなくなってしまったとき、師匠は、本当はどんな仕事をしたかったのだろうかと、ふと考える。

義務教育にあたる公立の中学校というのは、文字通り、あらゆる生活をしている人たちの集まる、最後の場所であるように思う。高校や大学の友達、職場の同僚。年をとればとるほどに、自分の周りには、似たような学力、学歴、価値観や金銭感覚を持った人しかいなくなっていく。
ただ、近くに住んでいたというだけの理由で集められる子どもたち。隣に座っているその子が、どんな家に住んでいて、親がどんな仕事をしていて、いくらくらい稼いでいて、どんな生活をしているのか、どの程度、知っているだろうか。
知る必要もないだろうし、知らないからこそ、気のおける友達でいられるものでもある。そもそも、自分と似たような生活をしているような友達同士としか、ほとんど関わることもないのかもしれない。
仮に、母子家庭やそうでなくとも、苦しい生活をしている人がいたとして、生活保護で暮らしている人がいたとして、そんなことをわざわざ友達に知られたい人は少ないだろうし、話にあがる機会もない。そうして、多くの苦しみは、本人たち以外の誰にも知られることなく、静かに、誰にも気が付かれないものとなっていく。ときには、自分たちの置かれた生活が、苦しいものなのだという事実に、本人たちすら気づくことなく、これが普通なのだと過ごす人々もいる。
やさしさが、彼らを本当の意味で救うことはないだろう。彼らが必要としているのは、思いやりではなく、家族で生きていけるだけの仕事であり、金である。そして、それらを保障できる仕組みと、その知識であると、今では思う。

「人権作文、あれ本当に意味ない」
お手本として見せられる、きれいな物語。いじめから立ち直った人たち。自分が前向きに生きられるようになった成長譚。それは、書いたその人たちにとって、大切で、すてきな物語だと思う。そうした物語を、一人でも多くの人に、現実の世界で描いてもらいたいと願う。
しかし、その裏で、はるかに多くの人たちが、当たり前だと思っていた生活をできない現実に、向き合うことができなくなったとき、本当の意味で「人権」は侵害される。現実を知り、理解し、心を痛める。そんな「理性」と「良心」とは、「授けられる」必要があり、そして、「授ける」責任が、大人にはある。

職を失い、金を失い、家を失い………、誰を頼りにすれば良いのかも分からなくなった人々に、何を伝え、どうしてあげられるだろう? 自分自身が、そうなったとき、どこへ行き、誰を、何を頼りにすればいいのだろう?
それに、答えられる大人でありたい。そんな質問を、気軽にしてもらえる人でありたいと、思うだけではまだ不足だろうか。



【参考文献】
◯中学生でも読める本
雨宮処凛(2023)『学校では教えてくれない生活保護』<河出書房>
武部康広(2020)『身の回りから人権を考える80のヒント』<解放出版社>
アジア・太平洋人権情報センター編(2018)『人権ってなんだろう?』<解放出版社>

◯大人が読む本
高井由起子編著(2022)『身近に考える人権 人権とわたしたち』<ミネルヴァ書房>
マイケル・ローゼン著、内尾太一・峯陽一訳(2021)『尊厳ーその歴史と意味』<岩波新書>
リン・ハント著、松浦義弘訳(2011)『人権を創造する』<岩波書店>

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