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”居場所”を求めていただけだった

今日、とある用事があって東京の方に行っていました。
そこで感じたのが「私は常に居場所を探しているんだ」という感覚です。



最初は下北沢に行って謎解きをしていました。1チーム4人で参加するものだったのですが、私は1人で参加したのでどんな人と同じテーブルを囲んで謎を解くのか、期待もありながら不安を感じてもいました。

しかし、いざ謎解きが始まると、皆んなで必死にくらいつくように謎を解いていて、頭を休める余裕がありませんでした。不安なんて言ってられない。その空間と時間の中では協力しなければ攻略できない。あれこれ意見を言い合いながら進めていきました。



その後、渋谷のほうに行って、ギャラリーで開催されていた展示会を見に行きました。最初のうちは様々な展示がされていて「面白いものばかりだなあ…」と見て周っていたのですが、少し移動するとギャラリーに来ていたお客さんがたくさんいて、少しだけ気分が悪くなったように感じてしまいました。この「気分の悪さ」というのは、体調が優れていないということではなく、人混みのあるところにいるのがつらいために生じるものだと私は思っています。たくさん人がいると、どう動けばいいのか分からなくなる。あと、周りの人はギャラリーの説明をする方と話しているけれど、私は展示をじっくり見たり文章を読んだりしていたので、そういった方から距離を置かれているように感じてしまったんです。(話しかけないでオーラを出していたとすればごめんなさい…)

ただ、ある展示を見ていたときに、展示物を作成した方が私に話しかけてくれて、すごく楽しい時間を過ごせたのを覚えています。その展示は、演劇や音楽を主として活動されている方の展示だったのですが、演劇ではなく自分と向き合って、それを言葉にしたらどうなるのか、ということについて研究されたもののまとめのようなものでした(説明が下手ですみません…)
「演劇では感情を思い浮かべながらセリフを読むことができるのに、実際自分の考えていることを文章にしてみると、ずっと掘り下げてしまって終わりがないようなんです」といった話をしていました。

そのような話を聞いていたとき、私自身も物語を書くことがあるから、内容にとても共感したんです。実際自分が語っているような文章(いわゆる自分史?)にすると、どこまでも書けてしまうだろうし、その時の感情でも書くものが変わってくるから、一度何かしらの形を置いて言葉にしてみる。私にとっては、その形が「小説」だったわけですが、お話を聞かせてくれた方にとっては「音楽」や「演劇」そして「物語」というものだったのだと思います。



謎解きをしたり、ギャラリーに行ったりしたわけですが、1日の体験を振り返って思うのは「私は居場所をどこかに求めているんだなあ」ということです。

ギャラリーに行ったとき、たくさん人がいる環境では、言葉で表しがたい感覚に襲われていたわけですが、これをちゃんと言語化してみると「どこにも居場所がない」という感覚だったのではないかと思います。

一人でいるのはいいけれど、やはり集団でいる人たちを見ると、そこに憧れのようなものを少なからず感じます。そして、その集団のどこにも属せない感覚に陥ったとき、「私はなんでここにいるんだろう」という終わりのない問いを考え始めてしまうのだろうなあ…と思いました。



逆に、謎解きに行ったときは、チームは違えど「どこかで自分にもできることがあるんじゃないか」と目的を見出しながら行動していて、かつ「みんなで進める」という行為そのものが、居場所を求める気持ちを落ち着かせていたのではないかと思いました。
チームで進めるという形式があるゆえ、「私はそこにいる」という認識ができるし、実際に課題を解決する上で「仲間との協力」が必要になるから、そこでも「私」という存在の意味を見出すことができそうです。



なんだか複雑な話になってきましたが、まとめると

  • 人がたくさんいる場所に苦手意識を持っていたのは、どこにも属せずに疎外感を感じているためではないか

  • 何かを乗り越えようとして、誰かと協力するとき「私」という存在の意味を見出せるのではないか

  • 会話をすることによって、お互いに存在を認識できるのではないか

ということです。

これもこれでまとめになっていないような気がしますが、実際に私が今日感じたことをまとめてみると、こうなると思います。

向き合うことも時には大切ですね。

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