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”夢と知りせば 覚めざらましを”

ちりりりりり。ちりりりりり。
「はあ……もうこんな時間かあ」
恵子は布団に埋もれた体をなんとか起こして目覚まし時計を止めた。

「えっ、あと10分でバス出ちゃうじゃん。まずい」
化粧なんてしている暇はなく、とりあえずスーツに着替えて荷物を整理する。恵子は今日、取引先との大事な商談があり、前からその準備を進めていたのだ。しかし、事前の準備が終わらず、睡眠時間を削って、なんとか当日までに間に合わせた。

「あれ……あの資料どこに置いたっけなあ」
とりあえず昨日は作業を終えてすぐに寝たものの、眠りは浅く、最悪の朝を迎えるしかなかった。部屋の中も昨日作業を終えたままにしていたから、必要なものがどこにあるのか分からない。ひとまず、机の上に重ねられた本や書類の中を漁る。

あの資料はここ、プレゼンのための解説書はここで……

目の前のものを探すことに必死になっているから、書類が散乱しようと彼女には関係なかった。むしろ、彼女にとっては、今日の商談が好調に進むことが一番大切なのであった。


バスの発車時刻まで3分。
なんとか資料を見つけ出した恵子は、いつも持ち運んでいる紺色のバッグに書類を詰め、慌てて家を出る。
鍵についたキーホルダーが音を立てるようにして揺れる。
カリカリ。カリカリ。
ヒールを履く時に足が引っかかって転びそうになるのを耐えながら、彼女は家を出た。

あいにく、バス停は家を出て2分ほどで着く距離にあったので、発車時刻に間に合わせることができた。
バス停には、すでに乗客の列が形成され、彼女もその列の最後尾につく。
「今日も座れなさそうだなあ」
自分の行動が怠惰であるゆえ、バスで着席できないのだとわかっているが、結局開き直ってしまう。そうせざるを得なかった。

バスが曲がるときに聞こえる音が耳に入る。
ピピ、ピピ、ピピ、ピピ。
こちらへ向かってくるバスを確認すると、彼女はバッグの中を慌てて探し始めた。

「まずい、パソコン置いてきた」

彼女が商談のために使う資料は、すべてパソコンで作成したものである。もちろん、そのデータはパソコンの中に入っている。
バスはもうすぐそこまで来ていたが、彼女は冷静にいられなかった。
カツカツ、とヒールの音を立てながら、急いで自宅へと帰る。

自宅に入ろうと鍵を探す。
バッグの中の書類がごちゃごちゃしているために、どこに鍵を入れたのか分かりにくくなっていた。思い切ってバッグに手を入れると、キーホルダーの感触があり、鍵をどうにか引っ張り出す。
ガチャ、と鍵の開く音が聞こえる。
彼女は一目散に部屋の中へと駆け込むのだった。



「もう、どこにあるの」
その声から怒りが溢れていた。
探しても探しても見つからない。本棚、机の上、寝室。
ありとあらゆる場所を探し回ったが、どこにもパソコンは見当たらないのだ。

「はあ」
彼女は興奮を落ち着けるように、大きなため息をつく。

「やっぱり、私には無理なんだ」
何から始まったわけでもないが、口から愚痴がこぼれだす。

「最初から分かってたんだ。みんなと比べて頭も悪いし、容量も悪い。
誰かから言われなきゃいけないような人間が、張り切って仕事しようなんて思うのが間違ってたんだ」

部屋の床を見つめる以外、できることが浮かばなかった。
誰が言ったわけでもない、しかし、自分を貶めることでしか自分の心を保つことができないように思った。

「どうせ、誰も助けにこない」

体の重さをいつも以上に感じる。
さっきまでの勢いはどこへ行ったのかと思わせるような状態だった。

携帯電話が鳴る。
画面を見ると、上司の名前が表示されていた。

落ち込む気持ちをどうにか起こして、携帯電話をスワイプする。


『もしもし、恵子さん、今どこにいるの?
今日の商談相手の方が玄関で待っているんだけど』


返す言葉が何も出てこなかった。

ふと部屋の壁にかけられた時計を見てみると、かなりの時間が過ぎていた。バスを一本逃しただけならまだしも、彼女は自分の荷物が見つからないことに慌てていたため、商談のことなど忘れてしまっていたのだ。

「すみません。今日は動けそうにないです」

『そう…。まあ商談の方は私がどうにかしておくから』

「ありがとうございます」

感謝の言葉を述べると、すぐに通話を切った。
そして、寝室のベッドに飛び込む。


せっかくの1日が、自分の行動で最悪になるなんて思わなかった。
偶然、先輩が優しかったから今日のことは穏便に済むだろうけど、きっと明日会社に行ったら怒られるんだろうなあ。


ああ、これが夢だったらいいのに。








ちりりりりり。ちりりりりり。
「はあ……もうこんな時間かあ」
恵子はやっと体を起こして目覚まし時計を止めた。

「あっ、まずい! 今日も会社じゃ……ん?」
恵子はカレンダーを確認すると、その日が休みだったことに気づく。
仕事が連続していたからか、休日の存在さえも忘れてしまっていたのだ。


彼女はベッドから出て、カーテンを開ける。
朝日が少し昇ってきた頃。外の景色は輝いて見える。

遠くのほうを眺めてみれば、街の様子が見えて新鮮味を感じる。
普段なら見ることのできないような情景に心を動かされる。


パジャマを着たまま、洗面台に向かう。
三面鏡を動かして、洗顔料を取り出す。蛇口から流れてくる水の音が清々しく聞こえる。
手を水に濡らし、洗顔料をつけた。
そこで、鏡に映る自分の顔を確認した。

会社に入った頃は、笑顔が似合う綺麗な顔立ちだった。
しかし、今改めて見た顔は、たるみがすごく、目の下のクマも目立っている。しばらく寝る時間を削っていたのだと、驚きとともに気づく。

「時間が経てば、こんなに人は変わってしまうのね」
セリフを吐き捨てるように呟くと、顔に洗顔料を塗り始めた。

泡がびっしりと塗られた顔を、激しい水で流し落とす。
蛇口からシャワーのように出てくる水の音を聞きながら、ゴシゴシ泡を落とした。
タオルで濡れた部分を拭き、再度鏡に映る顔を見る。
その顔は少しだけ綺麗になったように感じた。


休日だということを忘れていた恵子は、もちろん今日の予定など浮かんでいない。とりあえず、パジャマから外出用の衣服に着替えると、スマホの写真を漁り始めた。

そうしているうちに、1つの写真が目に留まった。
それはSNSを閲覧していたとき、いつか行ってみようと思っていたカフェの紹介写真だった。

「気晴らしに出かけるか」

彼女は最低限の荷物を手提げに詰めて、家から出た。



バスに乗って、最寄りの駅に移動する。
その日は平日だったが、バスに乗ったのが日中だったため乗客はほとんど居なかった。バスの座席も選び放題である。

いつも乗車中は座ることができなかったので、今日くらい…と、外が見える窓際の席に座る。

「それでは発車します」

扉の閉まる音を横目にバスが動き出す。
最初は激しく揺れるが、加速してくると、その揺れは気にならなかった。


街の景色が顔の横を流れていく。
たった一瞬しか見えない景色だけれども、なぜか彼女には貴重なものに思えた。

いつもと変わらないはずなのに、今日だけは別物に見える。

彼女は不思議な感覚に満ちていた。



バスが駅近くの停留所に着き、私は下車して駅へと向かう。
駅に着くと改札を抜け、プラットフォームに出た。

人はほとんどいない。
家族連れや学生、お年寄りが少し見えるものの、喧騒は感じなかった。

ガタンゴトン、という音を立てて電車がこちらへやってくる。
電車の扉が開く直前、ガラスに映った自分の姿を確認する。

化粧なんてしていない。しかし、格好は綺麗で、口角がいつもより上がっているように見えた。気のせいかもしれない。



そのまま電車に乗って、カフェのある場所に近い駅に着いた。
駅からカフェまでは5分ほど歩く。
その日は雲ひとつない快晴で、気持ちも晴れやかだった。

街を歩くと、今日も出勤日なのだろうか、スーツに身を包んだ男性や女性の姿が見える。特に何かをしたわけでもないのに、スーツ姿の人物を見ると体が震えた。罪悪感、いや後ろめたさとでも言うのだろうか。できるだけ会社員らしき人を見ないようにして、カフェへと歩みを進める。


人混みを離れ、静けさのある裏路地へ入ると、カフェはそこにあった。
暗がりの中にひっそりと佇む一軒のカフェ。立て看板などはなく、店の名前が書かれた札が扉にかけてあるだけだった。


ベルのなる音とともに店の中へ入る。
扉の中は外の世界とは全く違ったように、静けさを漂わせていた。
お客さんは誰も入っておらず、カウンターの奥でコーヒーの準備をする店主さんが1人いるだけだ。

壁のほうを見てみると、絵画が飾られていたり、本がたくさん置かれていたりする。「TAKE FREE」と付箋が貼っており、自由に手に取って読むことができるようだ。

異世界の雰囲気を感じさせる店内に動揺しながらも、とりあえず目の前のカウンター席に腰を下ろした。店主らしき人がこちらを見て、
「お客さんが来るのはずいぶん久しぶりだ。ありがとうね、こんな店に1人で」
と声をかける。慌てるように私も
「いえ、前から来てみたいと思っていたものですから」
と返事をした。

「うちはコーヒーとプリンしかないんだが、どうする?」
早速注文を確認してくる。まだ心の準備ができていなかったが、あらかじめ何を頼むか決めていなかったので、その両方をお願いした。


店内は本当に音のしない空間だった。
ジャズ風の曲がほんのり聴こえてくるくらいで、店主が準備をする以外の音はほとんど聞こえない。

私は壁にあった小説を一冊手に取り、頼んだものが運ばれてくるのを待つ。

小説は現実味を帯びた作品もあるが、本の中の物語であることに変わりはない。たとえ、人が死んだとしても、実際に死ぬわけではない。しかし、どうして我々は文字を追っているだけなのに、痛みや苦しみを感じるのだろうか。別の存在に自分の心情を重ね合わせることができるのだろうか。

そうして小説について考えているうちに、店主がこちらへやって来た。
「はい、プリンとコーヒー。ゆっくりしていってね」
注文したものを静かに置くと、店主は店の奥へ入っていった。


物語の世界から一度離れて、コーヒーの香りに浸る。
ほのかにフルーツの香りがして、酸味が強いのかもしれないと身構える。
コーヒーを普段から飲むわけではないが、上司の接待をしているうちに銘柄や味の特徴について覚えてしまったのだ。

暖かいうちに、コーヒーを一口飲む。
唇を火傷しそうになる温度だったが、それがまた、コーヒーの深い味わいを感じさせるようだった。最初は酸味が強いと思っていたものの、実際に飲んでみると苦さや甘さがちょうどよく感じられて、とても美味しい。

カップを皿に置き、プリンに付けられたスプーンを手に取る。
カラメルが下に流れ、さくらんぼが可愛らしく添えられたプリン。どうやらバニラアイスが一緒に乗せられているようだ。
頼んでもいないのに。店主の優しさを感じる。

プリンの揺れる様子を見ながら、スプーンでひとすくいする。
崩れないか心配になっていたが、思っていたよりも硬めのものだった。
口に入れるとバニラの香りが漂って、なめらかに喉を通っていくのを感じる。コーヒーの苦さとも相まって、甘さがより感じられた。

ゆっくりと、ただ、その時間と空間に身を委ねる。
コーヒーとプリンに心を落ち着ける。
この店は、本当に異世界なのかもしれない。


腕時計を見ると、店に入ってから1時間ほど経っていたことに気づく。
結局他のお客さんは来ず、私1人が貸し切っているような状態が続いていたので、時間を忘れていた。

コーヒーの垢のついたカップとカラメルの広がった皿を戻し、店を出る。
「ごちそうさまでした」
そう一言告げて、店をあとにした。



来た道を戻り、電車やバスを乗り継いで、自宅に帰ってきた。
もう空は暗くなっていた。

鍵をカバンから取り出し、扉を開ける。
いつもと変わらない風景。しかし、どこか違うようにも見える。

彼女は机の上にカバンを置くと、浴室へと向かった。
今日はもう寝よう。
そう思っていたので、お風呂に入ることを頭の中で考えていたのだ。

浴槽にお湯を溜める。
その間、今日あった出来事を回想するように振り返っていた。

朝日を浴びて、目覚める。
その日の気分に合わせて、ゆっくりと過ごす。
いつか見ていた場所に行って、どこにもできないような体験をする。
コーヒーとプリンに心を落ち着かせる。

一見すると、なんでもない1日のように思えるが、彼女にとっては”非日常”的なものだった。

お風呂の沸いたメロディーが部屋に流れる。
彼女は脱いだ洋服を洗濯機に入れ、浴室へ行った。
シャワーを浴びる手も、いつもよりゆっくりしているように感じた。
普段なら仕事を終わらせるために、時間をかけずにいるお風呂の時間も、今日は長く取っていいのだと自分を認める。浴槽に足を入れ、お湯の温度を簡単に確認すると、肩まで浸かるようにして体を温める。


まるで、夢のような時間だった。


お風呂から出ると、パジャマに着替えて、そのまま寝室へ向かう。
ベッドの上で横になり、部屋を少し暗くする。
枕元には一冊の小説が置かれ、寝る直前まで読んでいようと思った。

布団をかけ、小説のページを開こうとするが、眠気に先を越され、今日は読むのをやめた。そのまま眠りに落ちる。


ああ、こんな日がずっと続けばいいのに。








ちりりりりり。ちりりりりり。
「はあ……もうこんな時間かあ」
恵子は布団に埋もれた体をなんとか起こして目覚まし時計を止めた。

「今日も休み……じゃなくて仕事じゃん!」
ベッドから飛び起きると、洗面台で洗顔をした。
最低限の化粧をして、残りは電車内でやろうと化粧道具をバッグに詰める。
パジャマからスーツに着替え、おにぎりを1つ頬張ると、そのままの勢いで家を出た。

コツコツ、コツコツ、とヒールの歩く音が鳴り響く。
バスの出発まで多少時間はあるが、荷物は家を出る前に確認したので安心していた。もちろんパソコンはカバンの中にある。

バスの停留所へ向かうと、すでに何人か並んでいる人がいたものの、いつもより人は少なかった。時間が経つと、私の後ろに数人並んでいた。


バスがやってくる。
朝の時間帯なので、学生や会社員の方がたくさん乗っていることが多いのだが、今日は偶然空いている席に座ることができた。

そのまま移動して最寄駅へと向かう。
改札でSuicaをタッチし、電車に乗って会社に向かった。


会社に着くと、書類のまとまった整理用ラックの近くに付箋が一枚置かれている。「13時になったら私のところへ来るように」という上司からの伝言だった。

内容はなんとなく察しがついていたものの、それを気にしていては仕事が捗らないので、予定があることだけ頭に入れておくことにした。


パソコンをかちゃかちゃといじり始める。
休んでいた間に、他部署からの依頼が溜まっていたので、その資料の作成をする。資料を作りながらも、外部から電話がかかってくることがあるので、電話にも注意を払いながら、仕事を進めた。


時刻は12時。
私は同僚と会社近くにあるレストランへ向かった。

やはりお昼時だからか、店の前には行列ができている。
しかも、そのほとんどがスーツを着ている。
ここら辺の会社員の発想は同じなのかと馬鹿馬鹿しくなる。


15分ほど待って、店に入ることができた私たちは、メニューを見て食べたいものを選ぶ。なんとなくお腹いっぱいに食べたい気分だったので、私はハンバーグ定食を注文した。一緒に来ていた同僚は「今は少しでいいかなあ」と遠慮気味にオムライスを注文する。

料理を待っている間、同僚と会社の話をしていた。
今どんなプロジェクトを進めているのか、社内の人間関係はどうか、など会社に関わる話を延々と続けた。

料理がやってくると、私たちは無言で食べ始める。
食べるときは料理に集中したいので、お互い話しかけないと決めていたのだ。今思うと、おかしなルールのように感じる。


そうして昼食を食べ終えた私たちは、会社へと帰る。
13時から呼び出されていることを思い出した私は、社内を移動する途中で同僚と別れた。



13時になる。
私は付箋に貼ってあった伝言をもとに、社内を移動する。
目的地に指定されたのは、会社の中にある小さな会議室だった。

会議室の中に入ると、上司が窓の近くで待っていた。
「おっ、来てくれたね」
「はい、付箋が貼ってあったので」
まあまあ座って、と椅子に座るよう促される。
私は上司の言葉のまま、いくつかある椅子の1つに腰を下ろす。


沈黙の空気が流れる。
会議室にいるのは私と上司の2人だけ。もちろん他の人が入ってくることはないし、誰かに会話を聞かれることもきっとない。

「なんで、あの日来なかったの?」
開口一番、上司が持ち出したのは、やはり一昨日のことだった。

「それは」
理由はあるけれど、なぜか言葉にすることができない。

自分の気持ちが落ち込んでいたために会社へ行けなかった、なんて言ったら言い訳にしか思われない。そんなことを伝えたところで結局叱られるに決まっている。

そう思うと、ますます言葉が出てこなくなった。

「怒らないから、あなたの気持ちを教えて」
上司は優しそうにこちらをのぞいてくる。
その思いに嘘はないように見えた。

しかし、私の言葉を待っているだけで、本当は表面上の嘘なのではないか。
たとえ信頼のできる上司であっても、裏切るのではないか。

色んなことが頭の中をめぐって、何がなんだかわからなくなる。

もう、どうしようもないのかな。

諦めようとすると、頬をつたって水滴が1つ流れてくる。
そして、その水滴は温かく感じた。


「ごめんなさい」
その一言だけを告げて、私は会議室を飛び出した。

「ちょっと、どこいくの!」
上司が私の後を追うようについてくるが、だんだん音が聞こえなくなる。

どこに行くかもわからないまま、たどり着いた先は会社の屋上だった。


私の人生はいつの間にか狂っていたんだ。
好きなことも、大切にしたいことも、何もかも忘れて、目の前の仕事だけ追っていた。
そうしているうちに、今見えている世界が夢か現かわからなくなっていたんだ。

でも、時々思う。
「これが夢だったらいいのに」「こんな日がずっと続けばいいのに」って。

そんなのありえないってわかってるよ。
でも、そう信じなきゃ、私は生きていけない。
たとえ夢じゃなくても、夢だと思わなきゃ苦しくて生きていけないの。

はあ。
もう疲れた。
何もしなくても、何かしていても、時間は進んでいくんだ。


ああ、これが夢だったらいいのに。



生きていて、苦しくなると現実逃避をしたくなる場面があると思います。
「これが夢ならいいのになあ」
そう呟くことは簡単かもしれません。

けれど、私にはその考えが一見逃げ道のようでもあり、恐怖を感じさせるものにも思えました。自分の現在を一時的に否定することで精神的な安定を求める。しかし、精神を落ち着けるために現実から逃げていると、いつしか「何が現実で何が夢か」わからなくなる。
もちろん、逃げることが悪いことだとは思いません。目の前のものから一度離れて息抜きすることも必要です。しかし、戻ることを忘れてしまったら、その方は一体どこに辿り着くのでしょうか。あるいは、そもそも辿り着くことができるのでしょうか。

タイトルの「夢と知りせば 覚めざらましを」は『古今和歌集』で取り上げられた小野小町の歌の一部を引用したものです。私自身、この歌は恋愛を描いている姿が素敵で好きなのですが、別の視点で考えると、ちょっと怖い気もします。

好きな相手を思うと、夢の中でその相手に会うことができた。もし夢だと知っていなければ、ずっと夢の中にいたのに。

”夢”というものは広いし、自由にいられる空間です。
しかし、一歩道を誤れば、人を狂わせてしまう恐ろしいものでもあると思います。

物語には筆者の想いが隠れている、と聞くことがあります。
もしそうなら、今回の物語は私の頭の中を、ある登場人物が代わりに伝えてくれていたのかもしれません。

私もまた、現実が嫌になって夢に逃れようとしているのかも。
自分の弱さやプライドのようなものに苛まれているせいで。

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