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インナーチャイルド

見えない支配からの覚醒~序章~

母親が他界するまで母親の支配を受けていたとは感じなかった。 母親を信頼し、疑う事をしなかった。
 
  とにかく私は愚鈍な娘だった。幼稚園、小学校、中学・高校とよく乗り越えてきたと思うほどである。 特に、中学・高校は見た目をなじられた記憶以外はほぼ記憶がない。
本当に思い出せないのだ。
そして、幼少時から私とわたしは少し乖離していた。  それに気づくのは約半世紀後のことになる。

  わたしの母親は利発で、一を聞いたら十を知るという人だった。その母親からすれば一つ一つ言わなくては行動しない、考えない私は期待はずれだったのだ。学業も平均より下、見た目も肥満児。お稽古させても芽が出ない。仕事柄、周りの人に褒められるような子どもが良かったようだが、学業もお稽古も何一つ自慢できない子どもだったから、せめて躾だけでもと思ったのだろう、厳しいところがあった。

 なんで叱られたか覚えていないが、よく叩かれた。
なりゆきは忘れたが、夜寝る前に叱られ、土間で反省するように座らされているうちに眠くなり、身体を丸くして寝ていたら「こんなとこで寝るな。寝るならちゃんと布団で寝なさい!」と叱られたこともあったっけ。
また5年生の時、クラスの有志で行くハイキングに参加させられた。当日、集合時間を間違えた事で学校の下駄箱で弟や数人の友だちの前で蹴られた。

親戚家族が家に泊まりに来た時、私は夕食の準備に煽られていた。その事を親戚の人に手伝ってくれたらいいのに、と言った途端、頬を思いっきり皆の前でつねられた。10歳くらいになってたので、辱めという傷が心に刻まれた。

  とにかく、母親は私の愚かさを責めていたが、潜在意識のどこかで自分が辱めを受けた、と感じたのだろう。 母親は成績がいい事、周りの人に褒められる私を望んでいた。 今思えば、誰と比較していたんだろうか...

  ある時の暮れにの朝、実家の隣に家を建てた私のもとに母親から電話があった。出てみると、朝食の準備していたら倒れたから、来て欲しいという内容。  急いで行ってみると、パジャマのまま座っていた。 昨日から尿の色がコーヒー色だと話す。 受診を勧めるも様子見するという。本人ご看護師という職種柄私もそれ以上は進言しなかった。

午後になると受診するから病院へ連れて行って欲しいと話す。受診の結果は夕方になるとのこと。

その日の夜、内科の電話で即入院になった。
バタバタと入院の用意や手配をし、そこから2ヶ月ほど入院生活となった。 退院後、感染に注意しながらも自分が開いたお稽古の教室を再開。ある時、一緒にお稽古に行っている私は、あんなに声を出して大丈夫なんかな?と思っていたら、案の定その日の夜再発し入院。2回目は原因不明で、無菌室に入っていた。 この時も私は子どもや家の事、仕事をしながら懸命に看護した。  母親は自分の思うように行かないとこの時も私にぶつぶつと怒ることがあった。

ある夏の日、事態が急変した。医師に呼ばれて一旦落ち着いたから私と弟は家に戻って身体を休めていた。夏の昼下がり、ウトウトと昼寝をしていると、急に曇りだし夕立のような雨が降り始めた。 私はふと、あ、母親は危ないのかも...と思っていた矢先電話がなり、病院へ直行した。病室に着いた時、母親は息を引き取ったあとだった。

  弟と役割分担しながら葬儀の手配をした。お通夜のあと、親戚の人達と夕食を食べに行く時、天変地異のような雷と豪雨がお店に着くまで続いた。

私は母親は初めて自分が死んだということを知ったんだな、と思っていた。翌日、お葬式は晴天で、滞りなく終わった。

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