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【小説】嫐(うわなり) 全編

割引あり

《あらすじ》
今から30年余り前、猫も杓子もバブルに浮かれていた。世の喧騒は他人事のように、麦子は人生を一歩も進められずにいた。貴彦を思い切れずにいたからだ。
「話したいことがいっぱいあるんだ」と言い残して姿を消した、貴彦。以来10年以上、音信不通のままになっていた。
貴彦が使っていた方言「なやき」を手掛かりに、旅に出た麦子。そこで出合ったイネという女性の一生。夫に売られ、娼婦として生きた時間も組み込まれていた。
大正昭和の激動期を生き抜き、人生を全うしたイネ。京都、満州、九州炭鉱町の遊郭を訪ね、イネの一生を追いかける麦子。たどり着いたのは、貴彦の消息だった。
   

     
   第一章
一 終電の前に                                 
 恋愛が消えた。
 カッコ悪い、ダサい、何らのメリットもない非生産的行為だから。

 秋も深まった11月下旬、新宿駅。発車を知らせるメロディーがあたかも空襲警報のように、麦子たちを急き立てた。万一乗り遅れたとしても、終電に乗ることはできた。かといって終電に乗り遅れないように走るのと、万一乗り遅れても、終電があるという気持ちで走ることには差がある。
 だから麦子たちは、終電の一つ前の電車をめざしてオフィスをあとにするのが暗黙のルールになっていた。

 いつも通り、先頭車両はわりに空いていた。どの駅も改札に通じる通路は、真ん中付近にある。先頭や最後尾にあることはめったにない。乗客は降車駅の出口を頭に入れ、一番近い車両に乗るせいだろう。
 麦子たちは、この夜も無事に2人分の席を見つけ、座ることができた。コロナ禍の昨今、車内で声を発することは禁忌とされていたが、夜の遅い電車ではかなり寛容になっている。

 麦子は、隣席に座る若い同僚の話を聞くたびに、時代が変わったことに驚嘆する。取り返しのつかない過去を後悔することも少なくない。
 気づかないうちに作ってしまった傷にできた、瘡蓋。その下には、すでに新しい皮膚ができている。
 剥がす痛みと同時に、未来を覗く快感。若い同僚との時間は、痛みと快感の両方をもたらしてくれた。

「ネットっていろんな事件があったりするから、会うのは怖くなかった?」
「ちょっとは怖かったけど、皆、そうだから」

 麦子は、昨夜のテレビを思い出した。結婚に至る出会いの場ランキングの1位はマッチングアプリ、つまりネットだと言っていた。

「いろんなアプリがあって、まじめに結婚を考えている人ばかり集まるものもあるんです」
「けど、嘘を吐いていても、わからないんでしょう?」
「そのへんは実際に会ってから、つきあっていくうちにそれとなく調べました。年収とか、借金がないかとか、家族構成とか。親の面倒を見なくちゃいけなくなりそうかどうかとか」

若い同僚は、予めチェックリストのようなものを作り、自分のペースで結婚を進めたのだと言った。麦子にはない経験だった。

「浮気とかされたらとどうするの?」
「そうならないような人を選んだつもりです。父親の浮気で両親が離婚したので、そのあたりはとくに入念にチェックしたんです」

 若い同僚の夫は、都市銀行に勤めている。三流大学卒なので出世には関係ない。容姿もとくにいいわけではない。浮気しそうにないこと以外には取柄もなく、財産もないのだという。当分は2人で働いて、自宅を持つことを最優先にしている。

「新婚1年目だと、まだ恋人感覚なんでしょうね」
「恋とかって、考えたこともない」
 
 若い同僚のように生活設計を立て、わき道にそれることなく歩む人生であったらよかったのかもしれない。そうしていれば、娘か孫のような年齢の上司に仕えることもなかった。若い同僚は、麦子の上司なのだ。
 上司ではあっても、麦子に対して敬語を使う。その心遣いが逆に、麦子をみじめなにさせなくもなかった。取り返しのつかない人生を送ってしまった。この事実を突きつけられる瞬間でもあったからだ。

 スマホをスクロールしながら、若い上司は言った。
「私くらいの年のころって、男の友達とかいっぱいいて、恋愛とかもしたんでしょうね」
「ないこともないわね」
「そういうの、やったことないから、少し憧れます」
 麦子は、うっすら笑みを浮かべただけで言葉は発しなかった。

 恋はたしかに素晴らしい。
 代償の支払いさえせずにすむなら、手放しで恋愛への推薦状を書きまくるだろう。

二 人生の無駄遣い
 人気アイドル歌手が引退した。
「私が愛するのは、この人です」
 コンサートの場で公言し、ほどなく「この人」と結婚した。人気絶頂のさなか、仕事を捨て、家庭に入った。その後も一切、公の場に姿を現すことはなかった。
 その潔さに、当時の社会は喝采を浴びせた。引退後も、現役時代以上に熱いまなざしを捧げた。同世代の麦子は大いに感銘を受け、恋愛至上教への入信を後押しされたものだった。

 今風にいえばイケメン俳優だった夫はその後も俳優を続け、やがて渋さを帯びた大御所俳優の一人に数えられていく。
 先日、対談番組に出演することを知った麦子は、めったに見なくなっていたテレビをつけた。こうした番組では、妻である元人気アイドル歌手の近況は必ず質問される。そして「世紀の大恋愛でした」と付け加えられる。

「今の人には、ダサいと感じるようですよ」
 すべてを捨てて愛する男性の胸に飛び込む。今の若者には、現実味のない愚鈍な人間のすることのように映るのだと苦笑した。

 神話かお伽話、いずれにせよ現実には起こりえない昔ばなしになってしまった。突きつけられた時代の変化に、麦子は戸惑いを禁じ得なかった。
 人生の無駄遣いをしてきたという事実が目の前に置かれる。それでも、これからも人生は続いていく。毎年、毎年、社会のお荷物になっていく度合は増していくだろう。
 恋はしたけど、ときめきも知っているけど、どれもこれも成就したわけではない。結局、結婚することは一度もなかった。貯金もなければ、仕事だって中途半端だ。

 かつて恋愛に身を焦がした友人たちは、うまく折り合いをつけて家庭を持っている。恋に見切りをつけて結婚した友人もいれば、それなりに恋を成就させた友人もいる。
 いずれにしても今は、夫への恋愛感情など微塵もない、ようだ。

 友人たちは、口をそろえて言う。「家の中で会うのはいいけど、外に出たときは一緒にいたくない」。 「家の中でもなるべく接触しないように、可能な限り離れた距離にいるようにしている」と、平然と言ってのける。
 
 コロナの家庭内感染がニュースになったとき、「家庭内感染って、仲のいい家族のことでしょ。うちは仲のわるい家族だから、問題ない」と、笑っていいものか悩ましいジョークを飛ばした。

 だからといって、今でも恋愛を諦めたわけではない。友人たちはこぞって、韓流ドラマのファンだ。日本のドラマからとっくに消えてしまった恋があるのだと言う。

「韓国の若者って、誰でも恋をしたがっているんだって。ギンギンギラギラ。スターさんたちもきっと同じで、恋を求めているから、魅力的なんじゃないかしら」
「日本の俳優も見た目では負けてないんだけど、魅力ってなると、やっぱり韓流俳優なのよね」
「日本の俳優はマスコミとかに追いかけまわされるから、恋なんかできないんじゃないかしら。恋をすると、人気なくなっちゃうしね」
「そもそも今の若い子って、恋とかしないのよ。得することってないもの」

 恋愛に折り合いをつけて人生を送っている友人たちと会うのは、気が重い。それでも三回誘われれば、一度くらいは会う。
 専業主婦かパートで働く友人たちと違い、麦子はフルタイムで働いている。仕事が終わると、一刻も早く自室に戻って体を横たえたい一心だ。韓流ドラマの俳優がどうなろうと知ったことではなかった。

 当時、流行っていたイタメシレストラン。
 あのときも今夜と同じように、友人たちとの会話は耳に入っていなかった。興味がないというのもさることながら、隣席の女性たちの話に聞き耳を立てていたせいもである。
    
 若い女性4~5名のグループ。夫に売られて娼婦になった女性の話題で盛り上がっていたのだ。

「知らずに結婚して、売られたらどうなるんだろう」
「親の言う通りの相手と結婚したほうがいいなやき」
「彼は絶対、そんなことしない! って信じている……けど」

 麦子が聞き耳を立てたのは、夫に売られた女性の身の上話ではなかった。その妻のことを話す若い女性の語尾が、「なやき」だったからである。

 かれこれ25~26年前、よく耳にしていた、「なやき」。あの甘酸っぱい響きが、麦子の耳によみがえった。


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