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【小説】嬲(なぶ)る 27 家族が豹変するとき

六 身内に差し込むヤバい影
 衿子の亭主が、藤枝クリーニングから手を引いた経緯は知らないんだよな。特段、噂にもなっていなかったからな。
 元々いてもいなくても関係ないというか、存在感がなくなっていたんだよな。

 資金繰りが怪しくなってからは、衿子は経理も自分でやることが多くなっていた。亭主に文句を言われることが嫌だったんだと思うぜ。
 都合のわるいことは何でもナイショにする癖があるからな。

 最終的に、亭主がやったのは営業くらいじゃないのかな。それも嫌味や皮肉を言う得意先は避け、気の合うところにしか行かなくなっていたんだから、陰が薄くなるのは必然だ。
 
 亭主が嫌がる得意先は衿子の担当になり、資金繰りから従業員の采配まで、衿子が担った。
 工場の作業手配だけは親父がやっていたが、様々な愚痴は衿子にもたらされていた。
 
 そりゃそうだよな。給料アップの要求から、他の従業員の陰口まで、衿子に言えば何でも思い通りになってしまうんだもんな。
 もちろん、皆の願いを叶えていけるはずはない。
 結局、衿子自身の首を絞め、お手上げ状態に追い込まれていくってわけさ。

       ***
 袖子は、衿子をなじった。
「約束したじゃない。だからお金、出したのよ!」
 衿子は顔色ひとつ変えず、ハンドルを握っていた。狭い車内に、袖子の怒りが充満した。

「毎日帰るっていうから、300万円ずつ2回、出したんじゃない。それも忘れたと言うの‼」
 衿子は相変わらず前方を見据えたまま、ハンドルを握っていた。
「そんなことあったかしら。覚えてないけど」

 正月の3日、袖子は「二度ともどらない」と言って、実家をあとにした。以来約5年間、一度も連絡をしていなかった。
 父親からはいくどか留守電が残されていたが、いつも「元気か、連絡くらいしてくれ」というもの。いずれも、袖子は無視した。

 「何とかならないか、支払いができない」
声がいつもより年老いていた。やけに哀れさを感じた。
「いくらいるの」
「300万円」
 袖子が用意できることを伝えると、父親は電話を切った。まもなく衿子から電話があった。
 袖子は、衿子が指定した口座に、すぐさま振り込んだ。定期預金を解約したものだった。
 
 2カ月後、同様の用件で父親から電話があった。袖子は、衿子に電話をさせるように言った。そのとき衿子に、条件を付した。
「毎日必ず、家に帰ること。約束できるなら、すぐ振り込むわ」
 袖子は父親から、衿子が毎晩深夜に帰宅していること。2~3日帰らないこともあるのを聞いていたのだ。

 その日から、半年も過ぎていない。衿子は本当に忘れてしまったとは思えない。
 振込口座は藤枝クリーニング名義だった。だから自分とは関係とでも言うのだろうか。
 単に、とぼけようとしているだけなのだろうか。

 袖子は、3つ目だと思った。いつの間に、とぼけることを覚えたのだろうか。
 今、衿子の周囲にいる人間がいかに危険な価値観を持っているかを強く認識した。
      ***

 衿子の周りに好ましからぬ人間たちがいることは間違いないだろうな。しらを切れば事実を曲げられる。こんな価値観がまかり通る世界の住人たちってことだもんな。
 世の中、なめちゃいけない。袖子と衿子は姉妹だし、契約書などないだろう。だからといって、知らん顔を決め込むことはできない。
 金銭消費貸借は、要物契約だ。金銭の授受があれば、それで契約は成立する。

 金銭授受の証明は、簡単さ。銀行口座に残っている。まさか理由もなくプレゼントされたとは言えないだろう。
 前に貸した金を返してもらったことにする。これも無理だな。現金で600万円も銀行口座を介さず授受する奴なんか滅多にいない。犯罪がらみなら別だが。
 
 おまけに袖子に、600万円もの大金が必要となる事態が起こるとも思えない。
 袖子ってケチだから、生活は質素。毎月の給与もキチンキチンと定期預金にしているんだよな。大金を借りなければならないとは想像しにくいもんな。
 
 すぐバレるような嘘がまかり通ると思い込んでいる人間ってヤバすぎるよ、まったく。


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