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修羅のなみだ【中篇小説】

離婚後、末期がんを患い、母親の自死と不運がつづき、自棄になり、マッチングアプリで知り合った肥満熟女と性的関係をもとうとするが、機能しない。絶望するが、熟女と同居することに。こしかた日々を悔やみ、せめて最期くらいは平安を得たいと願っている中年男の物語。
      


1 晩夏のひまわり


 女は一糸まとわぬ恰好で片膝を立て、サチオのベッドを占領している。この女を花にたとえるなら、春の訪れを告げるタンポポではなく、夏の盛りを過ぎてもれんれんと咲く晩夏のひまわり。
 色褪せた花びらに縁取られた茶褐色の頭を揺らしつつ、次世代の因子となる種子をおしげもなく晒して見せる花ならぬ花。 

 地獄の入り口やな。

 サチオはベッドの縁に腰をおろし、赤茶色の茂みに視線を当てる。上も下も同色に染める発想に意表をつかれる。あの破天荒だった母親でさえ、思いつかなかっただろう。今頃、冥途で染めているかもしれない――鬼の目をくらますために。

「ほら、若いコに負けてへん」

 晩夏のひまわりは言うやいなや、ぶどうの房のように垂れ下がった乳房を両手で支えあげ、「しゃぶってええよ」といざなう。
 脂肪の体積物を思わせる濃厚な臭いが、うす汚れた板壁の室内に立ちこめる。つい一時間前に顔を合わせたばかりだが、照れくささは微塵も感じない。鼻腔に染みついた遺体の発する臭いがいまも、サチオに取り憑いて離れない。

 オカンはどこまでおれを苦しめるねん……。

 Tシャツにズボン姿のサチオは痩せ細った自分の腕を女のからだに回すが、腕が背中の真後ろまでとどかないので抱きしめられない。

「こっちもかまへんよ、触ってみて」

 肥満熟女は、サチオの乾いた指をつかみ取り、枯れた松葉のような赤茶けた陰毛に這わせる。湿った感触が指先を湿らせる。下肢の軟骨はかすかにも反応しない。

 ここを通ってきたんやなぁ……。 

 母親の子宮から生まれ落ちたが、四十四歳にして人生の終末が見えたいま、どこへ還っていくのかと気にかかる。焼却場で灰と骨になったあと、母親と同じ場所に捨てられるのだろうか……。それだけは、ごめんこうむりたい。

 おれのように身寄りのないもんは、誰が後始末してくれるンやろなぁ。

 元嫁と一人娘と別れて八年。足腰の立たなくなった母親と同居するまでの七年間、一人暮らしだった。孤独には慣れている。が、もし、死の宣告がなければ、この肥満熟女と会うことはなかった。

 往生際がわるいなぁ、おれも。

 冷たいポカリスエットが飲みたくなった。息苦しくなると、白っぽい透明な液体で喉を潤したくなる。

 熟女とは、携帯電話の「マッチングアプリ」で知り合った。男性の場合は一ヵ月、五千円程の使用料金がかかる。ひと月以内に相手を見つけないと、無駄金になる。焦って相手を探したが見つからない。
 諦めかけたそのとき、『神戸に住んでいる三十九歳の独身女性。誠意ある中年男性とのお付き合いを希望』とあった。早速メッセージを送る。『淋しい身の上の四十歳。観音さまのようなあなたの愛を待つ』と送信した。すると、『わたしの胸で泣かしてあげる』というメッセージが返ってきた。

 四歳くらいサバよんでも、かまわんやろと安易に考えた。

 三ノ宮の地下街へ下りるエスカレーターの手すりにすがり、肩で息をしつつ、約束した場所の踊り場の雑踏に身を置いた。
 数分待つ。
 期待してやってきたものの、これまでの人生を振り返ると、不安が的中した確率のほうがはるかに高い。
 三十九歳の独身女性は見あたらず、五十に手が届こうかという肥満体の熟女が人待ち顔に立っている。
 どう見ても四十前には見えない。皺が目立つわけではないが、頬のたるみや前屈みの姿勢に老いがかいま見える。
 まさか、あれや、ないやろと思いつつ、あれしかおらんという結論に達し、疲労が胃袋に集中し、血反吐を吐きそうになる。

 あれが、観音さんやったら、ホトケなんぞおらん。

 余命いくばくもない弱ったからだにムチうって、夢遊病者のような足取りでここまでやってきたが、声をかける気力も喪失し、よろけながら立ち去ろうすると、肥満熟女はサチオの寂しげな目つきから察したのか、行く手に立ちふさがり、舌なめずりしているようにしか見えない赤く濡れたルージュの唇をすぼめた。

 サチオはわざと咳こんだ。
「だいじょうぶなん?」
 化粧でくすんだ頬にシミのようなえくぼが浮かんだ。手をふって、どうもないと伝えると、肥満熟女はおっとりとした口調で言った。
「いますぐ、いく?」

 この肉ぶとんと寝たら、圧死するやろな。

 サチオの乾燥した腕に、汗のにじむ重い腕がからまる。どぎつい色に塗られた爪の手が薄手ブラウスの襟元に風をいれようと、せわしなく前後に動く。萎えた一物が、さらに縮みあがる。
 その爪で、突き刺されるやもしれぬ。
 観音さまやない、子供を食らう鬼女やと、サチオは怖れる。期待が大きかっただけに、胸の高まりはいまや慄きに変わっている。

 三年前に胃がんで胃の三分の二を摘出し、母親と同居をはじめた一年とちょっと前に、肺癌の手術をして、右肺の二分の一をなくした。退院後、母親が自ら命を断ち、なんとか母親の葬儀を出し、ようやく生き延びたと思いきや、三ヵ月後の検査で左の肺に転移していると言われる。
 想像していたほどの恐怖はなかった。心のどこかで、胃がんを告げられたときから最終予告を予測しているようなところがあった。
麻雀、競馬と賭事が好きだったせいかもしれない。どうでもいいことに勘が働くのだ。

 女は玉の汗のういた団子鼻をうごめかせると、唇を動かさずに、
「二枚でどない?」
 セックスと札ビラを交換したがっている女はサチオの青白い顔色にもこだわらない。
「サービスするよって……」
 一枚にねぎって金を払い、若者の行き交う駅前の雑踏をぬけ、JR三ノ宮と阪急の高架沿いの道を東へ向いて歩いた。

 サチオが若い頃は客引きの男女が立っていた場所だ。よくお付き合いさせてもらった。おかげさまで性病も伝染された。母親に抗生剤を医者からもらってきてくれとたのむと、「安もんの女を買うからや」と怒鳴られた。
 いまも耳のそばで聞こえるようだ。あけすけな物言いの母親はリュウマチを病み、苦しんだ末に自ら死を選んだ。いまから思うと、たいした女だったと思う。己れの死を己れで演出する。いまの自分にそんな勇気はない。明日をもしれぬ病身の身となり、いつ死んでもいいようなものの、決心がつかない。

「子供のころ、このへんに住んでたんよ。懐かしいわぁ」

 夏の強い日差しのせいか、錆ついた町並みが陽炎のように揺れ動いて見える。最近では、この通りに面して若者がライブをする店ができている。賃料が安いのだろう。
「おれのうちへ行かへんか」
「遠いのん?」
 女の目はあきらかに警戒している。
「しんどいんや」
 ホテル代がもったいない相手だ。
「晩ごはん、おごってくれる?」
 めまいがする。声にならない声が口の中でもれる。

 どこまで厚かましいねん!

 市場を横切り、路地に入り、家が埋もれそうに植木の生い茂った軒の低い一軒家の戸口へむかう。
 この家は母親の遺したものだ。
 猫の額ほどの敷地に地蔵を祀った小さなほこら祠(ほこら)がある。なんども取りのぞいてくれと隣近所にたのんだが、「罰があたる」と承知してもらえない。死期を告げられたいまこそ、地蔵を蹴り倒してやろうと密かに決めている。

  

2 余命二ヵ月


 鍵のかけていない玄関の格子戸を開けると、ひんやりした空気が足元に吹いてくる。裏口を開け放しているせいだ。女は勝手知ったる他人の家のていで、玄関で脱いだのではないかという手回しのよさで、三部屋しかない、南向きのひと部屋にあるサチオのベッドに直行し、あっというまに全裸になった。
 サチオは「はぁはぁ」と喘ぎながら膝をおる。ベッド脇に置く酸素の入った長方形の容器とつながるチューブを鼻にさしこむ。

「あんた、病気なん?」

 医師に余命二ヵ月と宣告されたが、半年経ってもまだ死なない。酸素にかかる費用は別にして、医療費がもったいないので病院にもほとんど通っていない。

「喘息や、喘息」見知らぬ女に病状を話す気にならない。

 女はすり寄り、サチオの背中をさすった。ほっといてくれと言いたいが、言葉にならない。のぞきこむ女の顔が不精髭の頬に触れたとたん、サチオの背中に回った女の手を引き寄せて脂身の塊のような胸を抱きよせようとした。
「かまへんのん」
 ほんならと女は言い、サチオが触れやすいように両足を広げ、彼の手をとり、茂みへとみちびく。別れた嫁はこんな仕草は一度もしなかった。蛭の棲み家のような陰部に触れる。寒気がする。手を引っ込める。

「ほんまは、いくつなんや?」
「あんたとおんなじ四十」
「五十のまちがいやろ」
「ええ思いさしたげる」
 女はサチオにおおいかぶさると、ベッドに押し倒した。
 なんキロあるのか……。フライ級の人間に、ヘビー級は支えられない。
「ちょっと、待ってくれ……まだ、準備が……」
 性欲の炎をかき立てる前に、女の重みで肝心なところが押し潰される。
「子供やあるまいし――」と女は言うが、子供なら死んでいる。

 女は軟体動物のようにサチオの下肢に貼りつくと、ズボンと下着を引きずり下ろした。突然、胸の真ん中が圧縮されるような痛みが襲ってくる。からだを折り曲げる。咳き込む。
「……苦しいのん?」
 小さな丸い鼻と、一重まぶたの楕円型の目が心配そうにのぞき込む。サチオは女の首をつかむと、引き寄せ、唇で唇をふさいだ。チューブが邪魔になる。吸い付くような舌の感触が口中を刺激する。血痰の入り交じった唾液が逆流し喉に溢れる。チューブを外し、下半身はむき出しのままで洗面所へ駆け出した。

 後を追ってきた女はサチオの背をさすり、同じ言葉を繰り返す。
「苦しいのん?」
 うがいをしても、まとわりつく粘液が洗い流せない。
「ほっといてくれ」
 胃がんの手術をして以来、胃に毒ヘビが棲み着いているかように胃液が逆流する。黄水が口中にあふれる。
「焦ったらあかんよ」
 慰められても、発奮するどころか……塩をかけられたナメクジのようにしぼんだままだ。栄養過多の油ぎった中華料理を、前菜すら食べずに退散した心境である。

「あかんようになってしもたんやなぁ」と、独りごちる。

 深いため息をもらし、洗面台の前でうずくまる。二十年前、時代は平成、自動車の販売会社に勤めていた頃のサチオは、表立っては真面目なサラリーマン、裏では怠け者の遊び人で通っていた。

 アクセルを踏みつづけた時代もあったんや……。

「ひさしぶりやったから、ちゃう?」
 傍らの女の裸体からは、汗のすえた臭いが漂う。
「ベッドへ、いかへん?」
 サチオは這うような面持ちで奥の部屋にもどった。ベッドに倒れこむと、立て続けに咳が出た。女はサチオの鼻にビニールチューブを差し込んでくれた。
「ここの家、涼しいねぇ」
 女は押し入れから引っ張り出してきたのだろう、タオルケットを剥き出しの下肢にかけてくれた。
「ボロ家やからな。隙間風や」
「あたしンとこのアパートより、ずっと気持ちええわぁ」
 そう言って、女は茶の間に続く縁側の安楽椅子で丸くなっている猫のトントンを抱き上げる。
「その猫、ヨソの人間に抱かれるの、きらいなんや」
 サチオの忠告を無視し、女はトントンを裸の胸に抱きしめる。
「死んだオカンにしか、なつかん猫なんや」
 トントンは女の手をしきりに舐める。顎の下を撫でられると、まだら模様の手足が彼女の手首にからまる。ごろごろと喉を鳴らし、手にかるく歯を当てる仕草をしている。
「こいつ、おべっかをつかいやがって……」
 冬冬と書いてトントンと読む。年老いて寝ている時間が長いが、枯れていてもツボを心得ている猫だった。

 女がベッドに抱いてきた。

「あっちへ行けっ」
 起き上がり、トントンの頭をかるく叩いた。
「かわいそうなことせんといて」
 母親が死に、猫と二人きりになった時、家を売るべきだったが、育った家に愛着があった。
「どないしたん?」
「なんでもない」 
 家族もない。仕事もない。十五年間、勤めた自動車販売会社を辞めて以来、定職らしい定職につかず、浮草のような暮らしを続けてきた。片意地ともとれる生き方だった。せめて安らかな死を迎えたいと願っているが、怖れと悔いが深い澱みとなり愚かな行動をとらせる。
「……そばへ行ってもええ?」 
 女はトントンを安楽椅子に戻すと、寄り添うようにサチオの隣にすわった。
「冷たい体やねぇ」
 真夏だというのに朝から体温は下がりっぱなしで、からだ全体が凍りついている。そのくせ、手足がナメコのようにヌルヌルしている。シャワーを浴びたい。だが、からだを濡らすと咳こむ。頭もからだも惑乱し、調整できなくなっている。

   

3 気息えんえん


 板塀の郵便受けの横に取り付けた呼び鈴が、鳴る。
「――ごめんください。加山さん、いらっしゃいますか」
 聞き覚えのある低い声がした。縁側に立って行くと、前庭の向こうに、いかつい顔の男が玄関をにらんで立っている。取り立て屋だ。サラ金で借りれるだけ借りている。二ヵ月であの世逝きと算段したからだ。予定では踏み倒して死んでいるはずだった。なんの治療もしていないのに、どうして死なないのか?
「だれか来はったんとちゃうのん」
 女は立ちかける。
「あかん!」
 今度こそ、ただではすまん。こうなったら、居留守をきめこむしかない。それにはまず、女を黙らせなくては。サチオは、手のひらで女の口をふさいだ。

「具合(ぐつ)わるいお客さんなん?」
「そや」
「借金でもあるのん?」
 女はサチオのTシャツの裾を引っ張り、
「どうりで、渋い顔になってるわ」
 近ごろでは苦虫を噛みつぶしたような表情が習い性になっている。
「二人で隠れんぼしよか」
 女はそう言って、卓袱台の下にもぐりこみ、うつぶせになった。肉ぶとんのような厚みのせいで、卓袱台の脚が持ち上がり、臀部が卓袱台の外へはみ出ている。
 サチオの下肢を刺激する何かが、そこにあった。
 取り立て屋は何やら大声でわめいている。板塀を蹴る音もする。
敷地へ一歩でも立ち入れば、警察に通報するつもりだった。

 呼び鈴は鳴りつづける……。

 サチオは畳に膝をついて、脂肪の固まりの割れ目に右手を密着させる。思い切って指を挿入する。そこには何もかも無にする、ブラックホールが口を開けて待っている。
 きれぎれの吐息がもれる。もう一方の手は卓袱台を押しのける。
 女は首をねじり顔を横に向ける。唇をかすかに開き、目は閉じている。
 アコーディオンのように折り襞のある太ももに舌を滑べらせる。もわもわっとぬくもりのある湿地帯に舌先を這わせる。茂みに粘液がしたたる。喉にかかった痰を飲み込む。
 ベッドにもどり、横たわる。
 息苦しさが、サチオの欲望を砕く。

 女は反転し、起き上がり、タオルケットで胸をおおった。
「スル気がないのに、なんでやのん?」
 女は穏やかに言った。どうしてマッチングアプリに登録したのかと言いたいのだ。
「わからん」
「あたしが、気にいらへんの?」
「借金取りも帰ったようやし、もう帰れ」

 幸せの男と書いてサチオと読む。名前とは裏腹の幸せ薄い半生だった。

「こわい顔せんといて」
 元嫁とは似ても似つかないが、同じカタチの性器をもつというだけで無力感が増す。大仏の化身のような女は半裸の格好でサチオににじり寄り、彼を気遣う。
 サチオは女に背を向けた。
 顔も名前もないダッチワイフのような存在を、自分は求めていたのだとようやく気づく。苦いものが口中にひろがる。

「もしかして、ずっと独りなん?」
 女は、サチオの背に顔を寄せてくる。背筋にかかる、吐息が暑苦しい。
「奥さんは?」
「別れた」
「子供は?」
 サチオは頭を上げ、首を横にふった。八年も会わないと、顔も忘れる。
 元嫁は娘が生まれた直後から性生活を拒んだ。彼女の蔑むような表情を思い返すと、顔の真ん中を鉛玉で射抜かれたような面持ちになる。

 何もかも別れた元嫁のせいだと思いたい。そうではないと、だれよりも自分自身がわかっている。

 女はサチオの背中にささやいた。
「一緒に暮らさへん?」
「ヒモにしてくれるんか」
「ええよ」
「ええかげんなこと言うな」
「さみしいもん、独りやと」
 それならばと、あらためて接触を試みるが、無力な状態がつづいている男根は深海魚の尾ひれのように身動きしない。
「もうちょっとやと思うねん」
 と言って、染みだらけの肉まんそっくりの手で援助してもらっても、赤黒い襞に包まれた陰茎が奮起することはない。
「下からどない?」
 と配置転換をすすめられ、しぶしぶ仰向けに寝転がるが、この姿勢は呼吸がし辛いせいもあって気息えんえん。

 殺されると本気で思った。腹上死ならぬ腹下死である。

 鼻孔の粘膜がやぶれそうになるほど荒い息を吐いて臀部の重みに耐えるが、肉ずれの鈍い音がするばかりで不具合感が増すばかり。
「かんにん。あたしのせいやわ」
 ぶ厚い唇がすぼむ。頭と口ばかりのアンコウか、大味のハダカイワシを連想する。ヒモとしてやっていくには、いい加減で後先考えない頃の自分に立ち返らなくてはならない。

 どーせ、あともどりはできんのやっ!

 目を閉じ、己れを叱咤激励し、一心に励む。指を使って突き上げ、性器の振動を試みるが、変化は起きない。サチオを底なしの不機嫌がおそう。世の中の不運と不幸を一身に背負いこんだような重苦しい気分になる。股間が感じなくなったのだから、視覚と直結する脳で感じるしかないと焦るが、脳ミソも活動を停止したのか、欲望を喚起する機能が失われている。

「奥サンとはだいじょうぶやったのん」

 女の問いかけにうなだれる。元嫁は小柄で骨細の理想の女だった。新入社員で入社してきたとき、男性社員は色めきたった。二十七歳だったサチオは短大を卒業したばかりの元嫁をだまして射止めた。資産家の息子のようなことを平気で吹聴した。高卒なのに大卒だと偽った。彼女からすれば一見、スペシャルギフトに見えて、実は大ボラふきの能ナシと結婚したようなものだった。
 元嫁と暮らした日々の苦痛がよみがえる。腕の中にすっぽり収まるのはからだだけ。事あるごとに不平不満を口にされ、次第に身動きがとれなくなった。サチオにもプライドがあった。身を粉にして働けば、捨てられずにすんだのかもしれない。相手の思い通りにできなかった。

「嫁も子もいらん」
 自分が本音で言っていることに気づいて、少なからず驚かされる。もともと子孫を望まない、出しっ放しのセックスだった。可憐な容姿に目がくらんで結婚し、子供を作ったことが大きなまちがいだった。
「やめてくれ!」
 腹の上の女をふり落とした。
「じっとしてて」
 女はサチオの下肢に顔を埋め、舌を使い続ける。何も感じない。もう女とはできないかもしれない。
 頭を占領する異様な光景が、サチオからぬぐいされない。
「どうしたらええのかしらん」 
 女は、困惑を隠せないようだ。
「もう時間やろ?」
 とどのつまり、抜いたり入れたりしたのは五本の指のみ。めいっぱい奮闘したにもかかわらず、肝心な箇所はしかばね同然。

 サチオはズボンをはくと、手術跡を知られないように、女に隠れて真っ白に洗い上げた下着とランニングシャツに着替える。
 寝室から洗面所に立っていき、使い捨てのペーパータオルをとって顔から首をぬぐい、抗殺用の石鹸で手を洗った。出るのはため息ばかり。洗面台の鏡に映る血の気のない顔。目の下にくっきり隈が見える。言ってみれば、死にかけの吸血鬼のようなもの。女に吸いつく気力もなくなっている。

 生きててもしょうがない。オカンもこんな気持ちやったんや。おれとちがうのは、心残りがなかったことかもしれん。オカンは出来の悪い息子にたっぷり復讐できたしな。

 あの日も、今日と同じ時間帯だった。ベッドの上の柱時計を見ると、午後四時だった。

 部屋に戻ると、女はベッドに両足をひろげて腰かけている。
「ちよっと仇っぽいことない?」
 サチオはわざと口元をねじ曲げる。小骨が喉にささったような渋い顔つきになることは重々承知しているが、それ相応の金額を支払ったのだからさっさといなくなってほしい。ところが、女はニッと笑うと、見つめんといてと言って腫れたような唇をすぼめ、笑いころげる。相手は一向に帰る気配を見せない。
「晩ごはん、食べる約束したもん」
 馬がいななく時に見せるように前歯を剥き出して、女は言った。女は出歯を隠すために唇をすぼめるのだ。
「一緒に暮らす約束もしたし」
 マッチングアプリで知り合った女性を自宅に誘ったことが過ちだった。ベッドを占領する女の丸い膝がしらに目を落とす。嫁だった女とは火と水のように違う。片や、冷凍冷蔵庫、いくら抱いても、暖まらない。片や、真夏の電気炬燵、じっとしていても熱苦しい。
「ごはん、つくったげよか」
「いらん」 
「他人行儀やわぁ。あたしとあんたの間柄やないの」
 女はサチオの耳元に唇を寄せると、
「奥サンになってほしい?」
「アホぬかせ」
 いつまで生きるのかわからないのに、再婚など以ての外だ。
「えらい目に遇うたんやねぇ、女の人に」
 つぶやく女にフニャフニャの分身を撫でさすられて、やさしい言葉をかけられると、いつしかくやし涙も忘れるから不思議だった。
「あたしが、この家に住んで慰めてあげる」
 そのひと言で、元の木阿弥となる。

  

4 後腐れアリ


 居座る女を追い出し、宵の口まで眠りこけたあと、行きつけのスナックに足を向けた。夏の夜風が肌に心地よかった。
 カウンターの中に、はじめて見る女の顔があった。
「ニューフェイスや。ええ子やろ」
 顔見知りの運送屋が言ったが、サチオにはただの若い女としかうつらなかった。好みの顔ではなかった。女は長い付けまつげの目に色気をにじませて彼女にかかりきりの運送屋に笑顔を向けながらも、もう一人の酔った客に向ける視線が氷のように冷ややかだ。
 別れた嫁とどこか似ていた。感情を出し惜しみするが、かいま見せる表情に侮蔑の色がのぞくのだ。

 なぜか、声をかけずにいられなかった。

 ママの白い目をよそに、他の客が姿を消す看板までサチオは粘り、
「俺とええことせえへんか」
 と耳打ちした。
 女はこっくりとうなずいた。ずっと以前からこの瞬間を待っていたかのように。
 見た目と違い、誰にでもやらせるタイプの女やねんな、と多少がっかりした。ちょうどいいとも思った。後腐れがなくて願ったり叶ったりだ、と。

 店を出たところの四つ辻で待ち合わせ、近所の寿司屋で女に腹ごしらえをさせ、場末のラブホテルにしけこむまではなんなく事ははこんだ。傷跡を悟られないよう照明をおとし、シャワーをあびたふりをし、いよいよという段になって、
「チップはずんでね。ツケもなんとかしてほしいし…」
「ママの回しもんか」
「先払いでお願い」
 どうやら、回収金の半分が取り分になるらしい。
 有り金ぜんぶ、女にわたす。

 あしたから、どうするつもりなんやという内心の声を無視する。

 絶叫に近い嗚咽を必死でこらえ、備えつけの冷蔵庫から中の物を手当たり次第に取り出し服んでみる。赤マムシの三本も飲めば立ちどころに元気モリモリ、と思いたかった。
 やはり、ピクリとも動かない。
「はよ、すましてね」と言う苛ついた声がなおいけなかった。
 ビールの栓を抜くごとに繰り言が口をつき、ついでのことにクーラーのせいで水ばなをすするていたらく。死にたくなる。

 翌くる日の午後――。

 朝から飲まず食わずの空き腹にカップ酒をひと息に喉の奥へ流しこみ、玄関をでたところ、黄色い西日に目を焼かれて、たちくらみがし、その場にへたりこんだ。
「何してるのん」
 一瞬、元嫁が舞い戻ってきたのかとサチオはぐらぐら揺れる頭をおこした。庭に日傘がくるくるまわっている。サチオに三くだり半をつきつけた嫁が家に入るに入れず、朝顔の咲いている生け垣の前でうろついていると思うだにカラ元気がでるというもの。

「あ・た・し」と日傘の持ち主が言った。
 きのうの肥満熟女だ。手には紙袋を二つもぶら下げている。
「えらいしょげようやねんね。かわいそうに」
 行きずりに付き合った女に慰めの言葉をかけられようとは夢にも思わず、サチオは苦い顔で立ちあがった。
「笑いにきたんか」
「そんな」と、太めだが身の置き所のない風情の女は唇をまるくすぼめる。
「風邪ひいてるみたいやさかい、どないな具合か見にきてん」
「見てわからんもんは、きいてもわからん」
「なに怒ってんの」
 女はおかしそうに笑うと、爪先立ってサチオに口づけた。
 サチオは子供っぽい仕草で顔をそむけた。文ナシと悟られては男の沽券にかかわると案じたのは杞憂だったが、いい加減な同情など不要だった。女に飢えていると勘繰られては片腹イタイ。とはいうものの、ベッドに押し倒すのに五分とかからなかった。恥さらしな姿を一部始終見られているので今さら格好のつけようがなかった。
 しかし、やはり虫の息。人生の夏はとっくに過ぎ去っていた。

 もう女はいらん。ムナしいだけや。

 サチオは薄茶色の西日に染まる台所の窓越しにやるせない溜息を吐き出した。
 あの日、赤い裂け目にくるまれて昇天した瞬間に、自分は死んだのかもしれない……。

「気分さえ変えたら、じきになんとかなるわよ」
「なんとかなるもんなら、きのう、なっとる」
 手探りで暗やみを歩かされるようなサチオの心中を知る由もない女は台所の床に丸い膝がしらをつけて、その目の高さにふがいない分身を見上げて微笑んだ。   
「あたしがついとうやないの」    
「ついてらん」 
「そないイキがらんと・・」
 女はサチオの下半身に顔をよせる。生暖かい感触が敏感な場所をくすぐる。その程度のことはソープランドで試した。サチオが口をとがらせて文句をつけるまえに女の舌が肛門を探りあてた。
「……中もかまへん?」と女。
 サチオは首を横にし、
「誰に習うてん?」
「なんでもええから、奥サンのことは忘れて、頭の中をからっぽにしてみて」
 それはできない相談だった。九年間にわたる結婚生活は出世の見込みはない、給料は安い、貯えはないの三重苦。
「そうそう。ええ感じやわ」
 女は中腰になって、サチオの股の付け根を持ちあげた。
「笑うてるみたいやわ」
 そんなはずはない。時代おくれの男の半生を思い起こせば、まちがっても歯を剥いてニッと笑えない。
「肩の力を抜いて……ほら」

 そもそも腕利きの女課長とねんごろになったのがケチのつきはじめだった。噂になって女課長ともども左遷。年金がつくまでつつがなく勤めるつもりの会社を、生来のなまけ癖もあいまって居ずらくなり自主退職。はたまた、縁のきれたつもりの女課長から退職金の上乗せに〈りん菌〉を頂戴し、潔癖症の嫁の不興をかい、吊るし上げられる始末。

「もうちょっとやよって、がんばろね」と女は尽くしてくれる。

 しかし、思い出せば出すほど、口惜しい。新たな職場と張り切ったのもつかの間、転職先の梱包会社が人手不足からあえなく倒産。次にデューダした不動産会社は不向きだった。倉庫会社の警備員になり、夜勤が増えるとともに、化粧の濃くなった嫁はある日突然、子供を連れいなくなった。ひと月ほどして離婚届けの用紙がとどいた。

「ほら、もう大丈夫やわ。試してみる?」

 それからは独り身の気安さもあいまって、職を転々とした。病魔に侵され、無職に。あげくの果てに母親の自死。なぜか、することなすこと裏目に出た。たまに家を留守にすると空き巣に入られる始末。そこへやってきた警官は昔の同級生だった。
 したり顔に言ったものだ。

「自分一人の口過ぎもできんから弱り目に祟り目いうてな、ロクな目ェにあわんねん」

 奮起一番。運だめしに、母親の残したわずかの金を全額引き出し、諸々の家財道具を売り払い、有り金はたいて買った大穴ねらいの馬券でこんどこそすっからかんに。オノレ、馬まで俺を馬鹿にしとんのか、と腹立ちまぎれに蹴飛ばした石油ストーブでボヤさわぎ。春先だったが、朝方、異様に肌寒く使っていた。もはや、家に鍵をかける気力もなくした。残ったのは、わずかばかりの障害年金のみ。

「――来てええわよ。さ。どうぞ」

 女は流し台の横でぶよんぶよんの股をひらいた。それがいかんねん、それが! 家出した嫁も日常の些事の合間にいやいや股をひらいた。思わせぶりにやれんか? やれんのやろなあ、いまどきの女は。
 後腐れのない、ええ女は死滅したのかもしれん。

  

5 ピンチヒッター


「モシモーシ」
 おじん臭い声が家中に鳴り響いた。
「表に鍵がかかっとらんとどうも気になるな。モシモーシ」
 戸口を叩く音が騒がしい。
 女は手早く身じまいをすませると、サチオを振りかえる。なにか身につけろとその目が言っている。

 なんの用やねん。クソッタレ! 

 あいつやな、とサチオは玄関に急いだ。
「おるんやったら、さっさと返事せえ」
 巡査はそう言って下腹を突き出した。
 ビア樽を転がすように出てきた女が、太い腰をかがめて言った。
「テレビ、見てましてん」
「このうちにテレビはない。知らんのか」
 巡査はいかめしい帽子を手に取ると、鬼オコゼのような凸凹した頭を右に左に傾げながら、「近所迷惑なことを散々しといて、またぞろこれやさかいな」
 母親のことを言っているのか、ボヤ騒ぎのことを言っているのか、空き巣のことを言っているのか……。
「捜査令状はあるんか」とサチオは言った。
「このヒト、夕べから熱がありますねん。それであたし、お見舞いにきましてん」
 女が口をはさむ。
「病気見舞いか」と、巡査は探るような目つきで女とサチオを見た。
「何かあってからでは遅いからな」
 女は肉づきのいい手を揉みしだき、
「いやァ、恥ずかしいわァ」
 巡査はどんぐり目を剥いた。

 サチオは九ヵ月前の青黒い冬日を思い返した。

「いったい、何時やおもてんねん! 夜中やぞ」とサチオを威嚇したときの巡査の顔つきを呼吸するかぎり、忘れないだろう。
 形容しがたい臭気に思わず、口をおおった。
 介護をしない息子に腹を立てた母親が、ツラ当てから恨み死にしたと同級生の巡査は頭から決めつけた。
 たしかに、夜中過ぎまで帰らなかった。
 隣家の世話焼き婆サンが、夜になっても電気がつかないので110番通報したようだ。「寝たきりに近い隣人のようすがおかしい」という通報がなければ、自分が第一発見者になっていた。それを思うと、身の毛がよだつ。
 母親は隠しもっていた大量の睡眠薬を飲み、ガスのゴムホースを右手につかんで、ベッドに横たわっていた。この家を建てたときに鍋料理用に取り付けたガスの元栓は閉められた状態だった。
 ゴムホースの先が黒ずんでいた。
 歯を剥いた口は大きく開いて、喉の奥まで見えた。顔の中心にできた洞穴のようだった。

 まだ食い足りないのかと、無性に腹が立った。悶え苦しんだこの世にまだ未練があるのかと。

 記憶が蘇り、サチオは脱力する……。

「邪魔してわるかったな」巡査はバツのわるい表情で言った。「おまえは監視されてる身の上やということを忘れんように」
 女が二日つづいて訪れたせいだ。心中するとでも思ったのだろうか。サチオは久しぶりに口元がほころんだ。
 巡査は女をチラリと見、ボソボソ言った。「あとは、職捜しやな」
「あたしもね、そのことが気懸かりでさっきも話してましてん」
 女は明るく答えると、紙袋から買物用の手提げ袋を取り出し、勝手口から出て行った。
「交番に苦情の通報があってな」
 巡査は帰りぎわ、坊主頭をかいて言い訳をした。サチオは気に止めなかった。普段、挨拶をかわすさいにはエビス顔の隣の婆サンが、不都合な気配を察知したとたん、たちまちスポークスマンに変貌することはもろもろの一件で思い知らされていた。妻子の行方なども隣の婆サンに聞いたほうが確実かもしれない。
「おまえには、前科があるからな」
「逮捕されたわけやない」
「しかしなぁ、ヤバイとこやったぞ」

 変死したため、遺体は解剖されることになった。そこで明らかになった事実を巡査から聞かされたとき、サチオは思考が停止し、打ちのめされた。「死体検案書」には「急性心不全」とだけ記載されていたが、母親は陰部をゴムホースでさんざん傷つけたあげく、トイレ用の強力洗剤をまるごと一本、膣に流しこんでいた。

「最初は、おまえがやったとみなが思うた。しかし、死亡推定時刻には、おまえは飲み屋におったと何人も証言した。夕方から店の看板までや。もうちょっとで、犯人にされてたぞ」
「胸クソの悪いことはいわんといてくれ。思い出すだけでぞっとする」
 洗剤に糞尿の臭いが混ざり合い、マスクなしでは息ができなかった。
「ものすごい臭いやったなぁ。いろんな現場に行ったけど、あの臭いだけは鼻からぬけん」
 巡査は、あれは証拠湮滅やなとつぶやき、立ち去った。

 女は買物から帰ってくると、パックのおかゆを暖めてくれた。何か食べたほうがいいと女はすすめる。サチオはしぶしぶに口に運んだ。 
 空き巣に入られ、巡査に怒鳴られた時の話をした。
「あたしも何年になるかしら、あれから――」と女はつぶやいた。
 元嫁もサチオには判じ物のような会話をしょっ中、口にした。雰囲気はまるで違ったが、サチオが真意をたずねると、元嫁は「話してもなんにもならへん」とうそぶいた。
 女はつづけた。「売春してるやろって、ケーサツに言いがかりつけられて――ちがうのに。一回、一回、レンアイしてるもん」

 あくる朝、帰り支度をはじめた女にサチオは言葉を選んで言った。
「すまんかったな。厭な目に遇わして」
「ここへ戻ってきてもかまへん?」
 化粧の手を止めて、女は訊いた。住んでいるアパートが立退きになると彼女は一応のワケを言った。名前だけは聞いたがトシはおろか、そのアパートがどこにあるかも知らない女と思いもよらない事のなりゆきである。
「まさか、養うてくれ言うのやないやろな」サチオは問うた。
「お家賃のかわりに食べさしたげる」
 女は笑い声で言うと、手鏡にむいて口紅をひいた。
 その一言でサチオの肩の荷がおりた。求職活動をする精力は逆さにふってもなかった。近ごろのサチオは、人込みに遇うと欲も得もなくなる。顔のない群衆が自分に向って一斉に押し寄せる気になるのだ。 
「あんたの飽きるまで――」と女は上目遣いに、「お世話になろかしら」と言った。
 サチオに異存はなかった。洗濯くらいならしてもいいとさえ思った。
 きのう、元嫁からハガキがきたことは黙っていた。消印が京都のハガキの裏面には近いうちに話し合いたいと記してあった。用件は聞かなくてもわかっている。死期の近いサチオにもこの世に残していくものがあった。このボロ家だ。娘が相続できるように手続きをしろと言うつもりなのだ。

 ふた晩、付き合っただけの女に気兼ねするのもおかしな話だが世帯主になってくれるという女の機嫌は損じたくなかった。
「けどね」と女はつけ足した。「たまにでええから、ピンク色の夢、見さしてね」
 それは――と口を開きかけて、サチオは押し黙った。洗濯物を取り込むようなわけにはいかないのではないか。女を恋のトリコにする自信などまるでない。

 けど、ま、悩むまい。イマはあかんでも、そのうちひょっとということがあるやもしれん。それに、命が先に尽きてくれるかも。

  

6 友アリ


 次の日から、女は昼すぎ近くまで寝て、携帯が鳴ると、ドッジボールのような顔に化粧をし、勤めに出る。携帯の鳴らない日は五時過ぎまで雑誌を読み散らし、重い尻をふって買い出しに出かける。サチオ同様に、三十九歳に釣られる男は後をたたないようだ。
 余計なことは一切しない。当てがはずれたというか、家事が苦手だった元嫁とそっくりというか、家庭的な女だとばかり思っていたサチオは肥満体のタヌキの目くらましに遇ったような気分だった。
「あたし、家のことすんのん苦手やのん」
 女は家事がキライだとはっきり言う。いまどきの女はと愚痴るまえに、男と女の間では相手を変えても同じようなタイプと巡り合うという俗説はほんとうだとサチオはつくづく思った。

 なんで、おれはこうも不運やねん。

「失うした所帯がモトに戻ったと思や、バンバンザイやで」
 と、見回りにきた巡査は慰めてくれたが、サチオは納得しかねた。毎晩、「なんで、すきっと立たへんのよ」と責められる身のせつなさ。しかし、カラダは嘘はつけない。相撲取り並の肥満女のパンツを目にすると、背筋に悪寒が走り、洗濯機に放り込むときは割り箸を使っている。
「あたしの身にもなってよ」
 へべれけに酔ってご帰還の女は、着替えるよりさきにサチオの胸の上に馬乗りになってくだをまいた。これも思わぬ誤算。
「今朝、試したばっかりやろ」
「あんなん、したうちにはいらへん。見せかけだけで中身がない」
 そうはっきり言われては、ぐうの音もでない。
「出てってええのん? 困るくせに」
 女はしつこくサチオの怠慢をなじるのだ。行き場のない女と家だけのこった男と、マイナスとマイナスがひとつになってプラスになると淡い期待を抱いていたがそうは問屋がおろさなかった。
 足と言わず手と言わず、穴ふさぎになるものならなんでもくわえこむ女のすさまじい欲情にサチオは唯々諾々と従わされるしかなかった。これは悪夢にちがいないと、夜毎うなされた。母親が女に乗り移ったとしか思えなかった。

 ふと思った。祟られているのであれば、祟りを封じればいいわけだと。

 考えてみれば、明けるともなく明けて、暮れるともなく暮れる一日を保証してくれるなら相手が何者でもかまわなかった。女が仕事に精出すあいだサチオは何をしようと自由なのだ。三食宵寝付き。思う存分、羽根を伸ばせると、自分自身を納得させる。
 非番の巡査に誘われて碁会所に行ったりもできる。

「芸は身をたすく、言うがほんまやな。からだが資本とはよういうたもんや」       
 ある晩。碁会所の帰りに立ち寄った縄のれんの飲み屋で巡査は囁いた。
「お裾分にあずかりたいワ」
「やめといたほうがええ」
 とサチオは言いかけて、
「あいつでよかったら、いつなとどうぞ」
「役目柄、あぶない橋はわたれんよってな」
「なにがあぶないねん」
 サチオがそそると、巡査は、
「そやないねん」
 と短く言って肝のヤキトリを食らい、コツプ酒をあおり、
「寄る年波にかてんのか、気に入った女に声かけるのが億劫なんや」
「まだそんなトシやないやろ?」
「わしな。女が恐いねん」
「へえ」
「ほんでから、実物の女見ても、だんだんその気にならんようなってもてな」
「立つようなモン見たら立つ」
 とサチオが背中を叩くと、
「ほうかなあ」
 と巡査はうなだれた。いつもの居丈高の調子は忘れたようにおくびにもださない。
「やっぱり、モノによるんやな。横になるとすぐ高いびきのうちの古女房ではな」   
 あのコみたいに包み込んでくれるとな、そらイけるで、と巡査は目尻をさげた。
「これというて特技のない女やけど、アッチに関しては、痒いとこへ手がとどく」
 とサチオは保証した。巡査は感に堪えぬ面持ちでつぶやいた。
「器量がようないだけにな、そやろなあ」

 サチオは周囲に応じて体色を変えるカメレオンのように表情を変えて、女のほどのよさを具体的に力説した。しゃべっているうちに自分でもそう思えてくるから、ますます途中でやめられなくなった。その、いらぬ口が災いのもとで職につくことになるとは、知らぬが仏だった。

 数日して、巡査が勤め口をもってやってきた。ケンもほろろに言って追い返すつもりが、このあいだの自慢話が祟ってそうもいかなくなった。
「ちょんの間でええんや」
 と、巡査はひどく下卑た声で、
「そっちが、家にじっとこもっとったらここへ来にくい」
 風俗の店に通う小遣いはないしと、みじめたらしいことをいう巡査にサチオは逆らえなかった。
 週四日、一日、四時間、勤めればいい、というのでしぶしぶ重い腰をあげた。

 病弱の身で、毛織物を売る店の店員を何日、辛抱できるか?

 サチオは商店街の店先にたたずむ、憐れな自分の姿を真っ黒い気持ちで思い描いた。
 なんでこうなるのか、といやいやむかえた初出勤日。
「いってらっしゃい」と、女は布団の中から手をふった。
 ふらつく足元で立っていると案の定、仕事にも人にもなじめない。そこへ、身なりのいい女がごった返す店頭に大型バンを乗りつけた。
「商品をクルマに積み込んでくださる?」
 彼女は尻込みするサチオにテキパキと指図した。
「キズ物はだめよ。モチ、キャッシュなんだから」
「わかりました」
 と汗みずくに立ち働いて、ふと気づいてみれば女は車ごと消えていた。最高級品の絨毯も行方不明という事の次第に店長からは共犯を疑われてその日のうちにクビに。お粗末な顛末を巡査になんと釈明しようと家路につく電車のなかで頭を悩ましたが、案じることはなかった。家の前に巡査の自転車が停めてあった。

 小説みたいやな。

 わが家なのに素直に入れない。裏口に回った。押し殺した呻き声が聞こえた。足音を忍ばせて生け垣をまたいだ。
 凸凹頭が象足に挟み撃ちにあっているのかと思うと、気の毒にこそ感じ、寝取られたという口惜しさは微塵もなかった。

「逃げた女房より一日でも長う生きて、嫁ハンが泣きをみるのをその目で見たいとおもわんか」
 と、えらそうに巡査に説教されたこともあったがその元気があればたったいま首切りにあったこの首を迷わずくくる。
 なんで俺はこうも気立てがええのやろ、とサチオは反省することしきり。しかし、引き下がってばかりいては寝る場所までなくしかねなかった。
 サチオは意を決し、踵を返した。ガラッと音を立てて戸を引いた。
「蛇の道はヘビやな」
 巡査はズボンのベルトを留めながら出てきた。
「ごはん、まだですやろ」と奥から女の声。
「すまんな」と巡査は振り返る。
 サチオは二の句がつげず、上がりかまちの巡査を呆然と見上げた。「遠慮はいらん」と巡査は顎をしゃくる。「腹空いたやろ。一緒にメシ食おう」
 話はそれからや、と口早に言われてみればそれもそうだと、サチオはそそくさと履き慣れない靴を脱いだ。
 サンダルの暮らしに慣れると足が革になじまないのだ。

「早やかってんね」
 女は食卓の前でドレッシングを振っていた。
 紙皿が所狭しと並べられ、肉や魚や野菜から湯気が立ち昇っていた。
 寝乱れた夜具を横目にサチオは箸をとった。臭ってきそうな眺めにたじろぎつつも、まず、焼き魚から手をつけた。
「この、高野どうふの含め煮のウマイことなぁ」と巡査は言った。
「時間かけて炊いただけのことある。アレもコレも手ェかけんと味はでんわ」

 ないことにメシの支度してんな? それもナニの片手間に。ほんまは器用なことできるねんな。サチオは感心した。女はまんまるい顔の低い鼻の頭に汗かいて熱々ご飯をかき込んでいる。
「運動したあとはメシがウマイ!」
 巡査は嬉しさを包みきれない様子でしゃべる。軽石より口のかるいお巡りやな。サチオは箸を置いた。
「今日まで生きててよかった!」
 巡査の感激は治まりそうにない。
「あたしも」とか、なんとか。茶わんを持ったまま女も巡査にしなだれかかり、箸の先ででこぼこ頭をなぞった。
「行儀がわるい」とサチオは戒めた。しぜんに口がへの字に曲がっていた。
 マカ不思議。
 現場を見たせいやな、とサチオは怒りにはやる心を宥めた。元嫁が書き置きの一通も残さずにいなくなった日の気持ちを忘れてはならない。
 賃貸マンションの殺風景な居間に独りたたずみ、ふと思ったではないか。心のどこかでしめしめと舌舐めずりしたくなるこの心地はなんなのか、と。障害物のないこんな生き方もあったのか、と。
「ほっちち! お前の子じゃなし孫じゃなし」
 巡査は歌うように言った。
「いやん、ばかん」と女がじゃれる。

 デリカシーがない。トンズラした元嫁ならも少しは、恥じらいのある浮気をしたろうか。
「惚ーれた女房に未練はないが、と」
 巡査は雨だれ調子の演歌を口ずさみながら女の耳元でささやいた。
「しょむない男にタダで遊ばれるような勿体ないことしてからに」
「ちょっと、待てーっ」サチオは強い口調で言った。
「トイレか?」と、巡査はきいた。

 ここでベタ負けしては胸つき八丁の人生にあとがない。サチオは大きく息を吸い込んだ。紆余曲折のすえ、やむなく見いだした心の平安をいままた失いつつあるという恐れにうち勝ち、なんとか重い口を開きかけたところ――
「タダやないのン。そやからガマンしてね」と、女が横から言った。「あたし、小さい庭のある平家に住むのん、夢やったの」
 半笑いの巡査は手近にあった銚子を座敷のガラス戸に見舞った。銚子はガラスの破片を畳に散らして庭に消えた。
「誰が弁償してくれるねん」とサチオ。
「お前の家やろが」と巡査。
「オカンのや」とサチオは言い返した。他に言うべき言葉がない。      
「こいつと、別れたい言うたんはウソかッ」巡査は女に怒鳴った。
「急ぐのん?」
 女は子供に飴でもしゃぶらせるような口ぶりで受け流した。
「いまでのうてもかまへんでしょ、ね」
 巡査が呻いた。ついさっき家の裏手で聞いた声だ。サチオは自分の軽率な言動を恥じた。女は押しの一手だなどと、なぜ巡査に言ったのか。
「お前らグルやな」巡査は歯と目をむいた。「そや! おまえのおふくろを殺したのも、この女やッ」 
 タイホしたると立ち上がって暴れる巡査をサチオは落ち着かせようと、肩を掴みかけたが、柔剣道で鍛えた巡査は死神にとりつかれたサチオの手に負えない。わけのわからないことを喚いて握りこぶしで空を切るのだ。
「コトを荒立てとうないんやったら、言うこと聞け言わはったから、あたし……」
 巡査は地団駄を踏んだ。「その場しのぎに、うんと言うたんかッ」
 サチオは思わず言った。「おまえは、金さえくれたら、だれでもええんかッ」
「ちゃうのん。巡査さんがぜんぶ――」
 お膳立てしたと言いかける女の口をサチオは平手で封じた。
 巡査の動きが止まった。巡査は、どんぐり目の白目を下にニタリとわらった。「元気になったか?」

 その夜――。
 酔っ払いの巡査の落花狼藉の後片付けをしながら、女は、
「ええヒトやねェ」
「どこがや。ヨソのうちをめちゃめちゃにしやがって」
「病気で萎れてるあんたを、怒らして元気づけたかったやなんて、おもしろいわァ」
 女はケラケラ笑っている。サチオにびんたをくらい、口の中が切れて血までみたのに、意に介さない。ゴムボールのような顔と同じく打たれ強いのか、
「ゴハンまでつくってくれて、さしたげたカイがあったわ」
 と平気に言って、すがりつくようにサチオの腕の中に入ってきた。
「あんたの代わりをしてくれたんやわ」
 女はこれやから信用ならん。

 

7 ピンク色の夢


 サチオは二の腕を思いきりのばし、女を抱き抱えた。陽にあてた布団のようにふかふかしている。思えば、決定的な破局を避けるスベを心得なかったために肩ひじを張ってずいぶんと遠回りをした。
「ピンク色の夢、見たいわァ」
 よく動く目が子供っぽい。こういう顔をベビーフェイスというのかもしれないとサチオは思った。女の両足をつかんで自分の腰の回りに巻き付けると、女のほうでもサチオの首に腕をからませて、せつない声を洩らした。ビア樽のパンツをずらして中に押し入った。両足を踏張って身体をそらすと、頭がうしろへ落ち込むような快感が戻ってきた。
「待って、待って、待って」
 ビア樽はずりさがると、力のみなぎったサチオをくまなく舐めとった。
 サチオは腰を引いた。「さっさとヤらせろや」
「出すとこ見いたいねん」
 女の口中にサチオの青臭いエキスが溢れた。「小錦に舐めてもろたみたいな気分やな」
「力がついた?」
「つきすぎて、一回では足らん」
 両足をひろげてサチオにまたがった女の乳房は下腹と同じ高さに盛り上がり、サチオの胸を圧した。口に頬張ると、東京ドームを丸ごと飲み込んだようで息が詰まった。思わず、両腕に捧げ持ち、黒豆のような乳首を交互に吸った。しばらくすると、揺り返しがきた。波打つ太腿の中心に熱帯雨林。見映えはしなくとも部品はいい。夢中で大波にあわせた。ビア樽の喘ぎ声に筋肉という筋肉が引き締まった。腰を浮かし、ひねると、甲高い叫び。とめどなく走る水の栓を知らずに抜いたついで、膝と膝のあいだに白い肌がとろけた。
 目覚めると、夜中過ぎ。  
 無心に眠る女の傍らに居て、サチオは煙草をふかした。珍しくもない体験だと自分に言い聞かせた。
 没入状態のさなか、頭が空中分解した。あれはなんだったのか?
 最初で最後なのか?
 現実と思えない。
 ルノワールの描く女たちが彼女に重なって見える。肌の色も、からだの丸みも、すべてが印象派。誰にも知られていないが、クラッシックファンのサチオはBGMにモーツァルトのピアノ協奏曲を選んだ。一人暮らしになって、何が一番うれしかったかと言うと、はじめて心置きなく音楽が聴けたことだ。家財道具を売り払うとき、レコードプレイヤーとレコード盤数枚だけは残した。
 赤茶色の茂みは日焼けした麦藁帽子のような色合だが、折り重なる下腹の肉ひだに隠されて毛先しか見えない。真上からだと、おたまじゃくしが集団発生したようにも、顎ひげのようにも見える。
「おまえは、ストーカーやな。とうとうこんなことに――」
「ふっ。こんな可愛らしいストーカーがどこにいてるのん」
「どこが可愛いねん」
 サチオは女の泣き顔を見てみたかった。図太い神経が許せないのだ。
「即席すぎるんや」と吐き捨てた。

 トントンはそんなサチオの気持ちを察してか、ラムネ玉のような澄んだ青い目でサチオを見上げると、耳まで裂けた口をゆっくりと開け、声にならない声でフニャーと鳴いた。
 

   

8 修羅のなみだ


 母親の死んだ日のことがきのうのことのように蘇る。
 身動きすることさえ苦痛だった母親は、サチオに言った。「この世の名残りに、もっかいしたい」
「何がや」とサチオはたずねた。
「手術したばっかりのあなたに頼むしかないねん。わるいけどしてくれへんか?」
 何を言っているのか、わからなかった。
 話すうちに、母親の望みがなんであるのかわかり、背筋が凍った。
「お願いや」
 母親の目尻に涙がひと筋、ふた筋、ととめどなく流れた。
 拒むサチオに、母親は胸をはだけた。「もう、だれも見向きもしてくれへん。それが病気よりつらいねん」

 父親が生きている頃から、母親は、男を求めつづけた。父親は見てみぬふりをした。父親の死後、母親の放蕩は止むどころか、激しさを増した。いまから思うと、セックス依存症だったのではないか。
 何が母親を狂わせたのか、息子のサチオには知りようがなかったが、葬儀の日に親戚の一人がふと洩らした。義理の父親に子供の頃、弄ばれたと。病弱だった祖母は、小学生の娘を身代わりにしたのだと。

 サチオは自分が生まれ出た箇所に性器を挿入した一瞬、周囲が陰画になったように思えた。
 母親は、家の一遇を占拠する地蔵のような表情になり、なんどもうなずいた。
 サチオは家を飛び出し、真夜中まで飲みつづけた。酔わなかった。
 帰宅すると、母親は息絶えていた。
 涙のあとが、死に顔に残っていた。
 母親の人生は、修羅の妄執が逸楽へと変じたのだろうか……。

 サチオは自分にくるべきときが来たと感じた。
 名前を一度も呼ばなかった女に、この家を残そう。そして、静かに旅立とう。だれにも知られずに。

   


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