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【エッセィ】蛙鳴雀躁 No.24

「コーベ・イン・ブルー」のハーフの女性、エミコはモデルがあります。
 容姿にかぎったてのことですので、お間違えのないようにお願いいたします。
 彼女のことは、「1995.1.17」のときのクォーターの美少女でも容姿を真似て描きました。
 ほとんど友達のいなかった私にとって、彼女は忘れようとしても忘れがたい少女でした。

 中学校の入学式の日、雨が降りました。
 団塊世代の私たちは、ひとクラス50人で13クラスありました。
 全学年で、2000人以上いたのです。

 もうね、どっちむいても学生服ですワ。少子化とは真逆の時代でした。芋の子を洗うような学校教育で育ったわけです。

 話はいつものように脱線しますが、小学校の教師で殴ることが本業のような男性教師がいました。この方の口癖は、
「おまえらは粗製濫造じゃ。ろくに食うもんもないのに、親がなんもスルことがのうてできた子供やから、アホばっかりぎょうさんおるんじゃ!」
 と事あるごとに喚いていました。
 小学生に四文字熟語をつかうこの男性教師は、のちに出世をし、エライ人にならはったそうです。障害のある男子を、ほんのささいなことで殴り殺すのやないかと思うほど叩きのめした暴力教師でしたが、世渡りは上手だったようです。
 しかし、この方の暴言は的中した気がします。いまも私の出身校から歴史に名を残すような偉人は出ていないばかりか、私たちの世代が片付きさえすれば、年金等の財政がラクになるような文言を見かけることが少なくありません。
 小学校では2部授業があり、昼から学校へ行く日もありました。
 グループ学習を信奉している女性教師は、授業参観の日に、母親たちにむかって「親は子供を育てる義務があるが、子供は親の面倒をみる義務はない」とおっしゃっいました。
 運動場にはプレハブ小屋の教室が建ち、講堂も急ごしらえの教室に衣替えしていました。私も衝立てで仕切った講堂の教室に当たったことがあります。当選したわけです。隣の教室が音楽の授業をすれば、こちら側の教室で教師が何を言っているのか、ゼンゼン聞こえません。
 これで学校を休まず、好きになれと言われても、ムリな状況だったのです。

 話をもとにもどしますと、このような生徒数ですから雨が降らなくても、狭い運動場での式典に父兄や在校生が並ぶ余地などありません。
 雨が降ったおかげで生徒は各教室に入り、あいうえお順に席に着きました。父兄は、教室に入る場所がないので廊下にいました。

 前の席の女の子は三つ編みにしていましたが、髪の色が赤茶色なので不思議な色だと思い、真白い分け目と、三つ編みの先の細い髪の毛を眺めていました。
 突然、前の席の少女が振り向いたのです。

 薄い緑色の大きな瞳にじっと見つめられて、ギョッとしました。
 額が広く、顎が尖っていて、逆三角形の顔もさることながら、肌の色が青白く透明でした。こめかみの血管が透けて見えるのです。
 まつげが長く、まさに西洋人形そのものでした。

 それまで白人と呼ばれる人種を、目にしたことがなかったのです。テレビで「ローハイド」や「ベン・ケーシー」を見ても、白黒の画面なので実体をともなっていませんでした。

 話かけられたと思うのですが、私は言葉につまって何も答えなかったと記憶しています。

 偶然とは不可解なものです。

 もしも、苗字が異なっていたら、前後の席にならなかったし、話しかけられることもなかった。ましてや後年、小説のモデルにしようなどと思わなかったはずです。
 身長順に並んだときも、彼女は私よりわずかに低く目の前でした。クラスの女子の中で、私たちは後ろから数えたほうが早く、私より長身の女子は二、三人しかいませんでした。

 その日を境に、彼女は毎日のようにわが家にやってきました。学校へ行くのも、帰るのも一緒。学校へ通うことが、苦痛だった私は彼女についてしぶしぶ坂道を歩いて通いました。

 2人ともに下町に住んでいましたが、彼女とは小学校が別々だったので顔見知りではなかったのです。
 同じ下町であっても、彼女の住む一画は、戦後、雨後の竹の子のように不法に建てられたバラック小屋の密集地でした。
 この小説で書いた、服部親子の住む家は当時の彼女の家を再現したものです。屋根裏には、彼女の兄が住んでいました。
 兄と称する男性もですが、両親も、アジア系の顔立ちでした。
 親しくなった頃、「あたし、こんな顔やけど、日本人やねん。ほんまやデ」と言って、私を睨みました。

 銭湯も、彼女は、自分の通っていたところから、私の行く銭湯に移ってきました。
 そのとき、私は衝撃を受けました。
 小学校の頃、給食が苦手で、ほとんど食べなかった私は、母に言わせれば「骨皮筋エモン」の体型でしたが、座高の計測があったとき、クラスで一番低かったので手足は長いと勝手に思い込んでいました。
 じっさい、他の子に比較すれば手足は長かったのです。

 彼女は私よりやや低いにもかかわらず、胴体が私より短い!
 いまでもよく覚えていますが、膝の位置がまず異なるのです。こぶしひとつくらい上のところにお皿があり、膝から下の足がまっすぐ伸びているのです。女性なら、おわかりだと思いますが、ひと昔前の日本人の足は湾曲していました。いわゆるO脚の足です。踵をつけて立ったとき、隙間ができます。彼女はそれがない。太ももも同じで隙間がない。胸は、鳩胸と呼ばれる形をしていて、くの字に盛り上がっています。乳首も、先端がピンク色で肌と一体化していました。よく見かける、豆粒のように乳首ではありません。お尻も、日本女性のようにたれ下がっていません。まだ13歳なのに、完璧な体型をしていました。

 当時は、形容する言葉をもっていませんでしたが、著しい違いはひと目でわかりました。

 母が肌の色が白いと常に自画自賛にしていましたが、母や私は黄ばんだ象牙色なのだと、彼女を見て気づきました。

 全校生徒の中で、異人の風貌は彼女ひとりだったので、男子生徒は、彼女を「白鳥」と呼んでからかっていました。
 私もそうですが、ほとんどの女子は、彼女が男子生徒にイジめられていると思っていました。いまならわかるのです。性に目覚めた男の子たちは彼女の容姿にときめき、興奮していたのだと。
 からかわれると、彼女は白い肌を真っ赤にして泣きだしそうになりました。
 一度は座りこみ、先に帰ってくれと私に言いました。

 友達であっても友達だと思っていない私は、「うん」とだけ言ってさっさと帰りました。

「スタンド・バイ・ミー」とは、おお違いでした。

 ある日、彼女は、紫色のペンダントをくれて、「親友のしるし」だと言いました。
 私は家に持って帰り、机の抽出に入れっぱなしに――。
 うっとおしいと思ったのです。
 そのペンダントを返すまでの半年くらいの間、私たちは常に行動をともにしました。その後も、つかず離れず付き合ったのですが、ペンダントを返した瞬間の彼女の涙だけはいまも覚えています。
 ラムネ色の瞳のふちに水滴がふくらみ、なかなか落ちてきません。したたるという日本語をはじめて実感しました。

 当時、子供部屋をもっている子は少数だったので、私の家で遊ぶことがほとんどだったのですが、彼女が自分の家に来いと誘うので、その日はじめて彼女の家へ行きました。知り合ってずいぶん、経っていた気がします。親子3人が寝起きする、日当たりの悪い狭く細長い部屋でした。彼女は、小さなレコードプレイヤーを持ち出してきて、直径が20センチほどのレコード盤をかけたのです。
「これ、外国でめちゃくちゃ、流行ってるねん」
 はじめて耳にした音楽はただ騒がしいだけでした。
 この曲がビートルズだとわかるのはもう少し先のことです。その頃、テレビで歌われる洋楽は、日本人の歌手が日本語で歌っていました。中学生だったほとんどの子供は、それがアメリカの曲だと知っていても、だれが歌っているか、知っている子供は下町には皆無でした。ましてやイギリスの曲など知りようもありません。

 なんの職業に就いているのか、わからない正体不明の兄と呼ばれている男性によって、英字のレコード盤はもたらされたようでした。この人は、まだ若いのに、口ひげを生やしていました。話しかけられない雰囲気が漂い、なぜ、彼女が懐いているのか、ふしぎでした。

 近所では見かけたことのない、スリムなGパンも、彼女ははいていました。
 素足で運動靴(当時はそう呼んでいました)を、はいているので、寒くないのかと訊くと、「このほうが、格好がいいねん」と言ったのです。
 いっしょに三ノ宮の映画館に出かけたとき、肩にむかって大きく開いた襟刳りの水色のストライプの入ったワンピースを着てきました。
 白いベルトでウエストをしめ、スカートはふわりと広がっているのです。それに踵の高いサンダルをはき、髪はポニーテールに結っていました。
 先ごろ、noteで、「狂った果実」の写真を載せておられる方がいらして、見せていただくと、主演女優の北原三枝さんが、ほぼ同じデザインのワンピースを着ていました。

 不思議な女の子でした。

 ローラースケートでも、氷上のスケートでも、たちまち滑ってしまうのです。手先も器用でした。容姿が他の子供と異なっていたため、いやな思いをすることも多かったと思うのですが、学年があがるほどにさほど気にかけているように見えなくなりました。孤立している私とは異なり、いつも女子グループの中心にいた記憶があります。

 中学を卒業後、彼女は美容学校へ進学しました。
 美容師になるのだとばかり思っていましたが、十七歳で結婚。婚約指輪を見せにやってきたとき、とてもうれしそうでした。
「この指輪、五十万円するねん」
 1965年当時の五十万円を、現在の価格に置き換えると、どのくらいの価値になるのか、わかりませんが、通常のサラリーマンの二年分程度の価値はあったのではないでしょうか。
 お相手は、私たちの一つ上の学年だった**組の**ボンでした。
 結婚後、彼女は山の手に移り住みましたが、ご両親は、私の近所に住みつづけました。
 その頃にはもう、自分はアメリカ兵の子供だと、話すようになっていました。首から上が切られた写真と人形を見せてくれました。写真には、赤ちゃんの彼女を膝に上に抱いた顔のない男性が映っていました。男性は米軍の服を着ていました。いまから思うと、肩に記章ついていたので将校だったのではないかと、思います。人形はアメリカから送られてきたものだと話していましたが、母親のことは口にしませんでした。どういう経緯で養い親の手に託されたのかは、本人にもわかっていない様子でした。
 詳細な過去がわからない彼女を、複雑な人間関係の中で育った私は羨ましく思いました。

 数年後、二人で、阪急電車に乗っていたときのことです。
 しゃべっている私たちの前に、ひと目でそっち系の人だとわかる男性が突然、彼女の前にやってきて片膝を立てて通路にしゃがみこんだのです。そして、「アネさん!」と呼びかけました。

 いやもう、びっくりしたどころの話やありません。仰天しました。
 電車内ですからね、みんながみんな、いっせいにこっちを見るわけですよ。呼びかけた人と彼女が何を話したのか、まったく覚えていません。とにかく、私は、この人らとカンケーありませんという顔をして、よそ見していました。
 男性が降車したあと、「あんなことゆーねん」と、ちょっと羞かしげに言ってました。
 それからしばらくして、養い親のおかあさんが亡くなったと彼女から連絡があり、お葬式に出かけたのですが、黒服の団体が境内に入れず、道路いっぱいに溢れている状態に遭遇。
 そっち系の男性しかいません。
 一般の弔問客で帰ろうとしてたところ、喪主である彼女が奥からわざわざ出てきてくれたのです。電車で出会った男性が知らせたのでしょうか?
 彼女は髪を結いあげ、和装の喪服を着ていたのです。
 手に数珠をもち、白足袋をはいて寺の階段を一段ずつ、降りてくるのですが、いまでこそ、髪や肌の色の違う方々が観光地を和服姿で散策することはめずらしくありませんが、その頃はまだそういう環境ではなかったので頭の中に映像が刻みこまれました。

 きれいでしたよ、スゴク。

 怪しげな店の、ハーフのママに着物を着せたのは、このときの印象があったからです。万が一、小説を読めば、怒鳴りこんでくると思います。
「なんで、わたしを、ビンボー人に書くんよ。自分を書きぃよ」と。
 同じ場所に住みつづけている私と彼女とでは、経済格差がハンパではないと思います。
 今頃、どのような暮らしをしているのかと時々、思い出します。
 彼女の一家が住んでいた地域は整地され、マンションが建ち並んでいます。

 最後に出会ったのは、近所の商店街でした。
 ひと目で外国人とわかる男性と買物をしていたのです。
 おそらく、存命だった養い親のおとうさんに会いにきたのだと思います。
 以前より、少し痩せていましたが、あいかわらず美人でした。
「このコ、弟やねん」と言うではありませんか!
 アメリカにいる父親を見つけたのだそうです。で、父親の結婚したお相手の子供なので、母親の異なる弟になるのだと。
 子供も大きくなったので、「英会話学校のセンセしてるねん」と言ったのです。
 こう言ってはなんなんですが、私以上に勉強が不得意だった彼女が英会話の先生に! 考えてみれば、中学生の頃からビートルズを聞き、Gパンをはき、最新流行のワンピースを着ていたのですから、さもありなんと思いました。

 またまた余談になりますが、住んでいた場所が場所でしたし、人数も多かったので、ヤクザ屋さんの子弟も生徒の中に何人もいました。同じクラスになったこともあります。
 後に、街中で、パチンコ屋から出てきたハラマキにステテコの強面のおっちゃんに呼び止められ、親しげに話しかけられました。
 かつての同級生でした。
 同じクラスのかわいらしい女の子を追い回して、迷惑がられていましたが、当時の彼にとって、阪急線より上の戸建てに住む少女は、あこがれのマドンナそのものだったと思います。
 お仲間との抗争で、亡くなったと人づてに聞きました。
 まだ四十にもなってなかったのに――。

 時を経て、今だから書けることばかりです。


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