南ユダ王国の滅亡(2/9)
あらすじ
一月十七日の深夜、大地震に遭い、ミカエルは井戸に落下。気づくと、飼われて間もない赤犬のルーシーとともに紀元前六世紀のエルサレム近郊に。大魔王の娘だと名乗る赤犬のルーシーは、ミカエルだけに通じる言葉を話し、ミカエル本人は大天使長であり、ルーシー自身はガブリエル天使の名代だと言う。夢の中にいると思っていると、盗賊が現われる。バビロニアと同盟国関係にあるメディア人の主従に救われるが、喪服姿の秦野アリスも現われる。アリスが言うには、養父母は地震で死亡し、ミカエルは死体が見つからないまま葬式がすんだと言う。現実の世界では一年経過していると言う彼女との同行を嫌がると、彼女は運転手つきの自動車に乗って去る。
砂漠の壮大な景色が、ミカエルは気に入る。そのとき、ミカエルが見えないようにさすらう女性を見かける。
ルーシーは二人で力を合わせて、滅び行く南ユダ王国の只中から、未来の預言者となるダニエルの窮地を救うために、自分たちは天界から遣わされたのだと説く。金髪に変身したミカエルは協力を拒むが、不思議な力をもつルーシーの口車に乗せられて、炎上する聖都エルサレムに木製の自転車でむかう。
6 1995.1.17
錐で刺されるような痛みを額に感じて目が覚めた。数秒後、ゴォーという大地をゆるがす不可思議な音が聞こえた。
激しい上下動で、ベッドから弾かれるようにして飛び起きた。
起きたというより、放り上げられた格好だ。
上下動が左右の揺れに変わった。立っていられない。
うずくまる。
バリバリと木材の折れる音が耳をつんざく。
部屋の中の物がつぎつぎ倒れてくる。恐怖で身動きできない。
これが地鳴りなのか。振動が止むと、暗闇の中にいるのだと気づいた。
手探りで、背中に寄り掛かっている本棚を押しのけた。
顔にかかっている土埃をはらい、散乱している本や小物を取りのぞき、ドアを探す。
この間、何分経過したのか、見当もつかない。
暗がりに目が慣れるに従い、寒さで震えが止まらなくなる。
天井の一部がなくなっている。
四方から助けを求める声が闇の中から聞こえる。〝終わりの日〟に遭遇しているのかもしれない。そう思ったとたん、心臓が絞られるような恐怖を感じた。
1999年7月になっていない。
【ミカエル……ミカエル……あなたの行くところ、わたしがいる……かならず……】
だれの声だろう。よつんばいになってドアまで這っていったが、どうにかさぐり当てたノブをひいても微動だにしない。
落下物のせいで手前にあけるスペースがないのだ。
母屋の養父母はどうなったのか。猛烈な焦りが、考える力を奪ってしまう。
手に触れる物という物を、やみくもにうしろに放りなげた。
マンガ雑誌、洋服ダンスから飛び出た衣類……。
窓際に置いてあったドレッサーは鏡とひきだしの接続部分がこわれて、ドアのところまでとんできている。鏡そのものはなぜか、割れていない。
鏡をのぞきこむと、ふいに体が浮いた。
だれかに羽交い締めにされた気がした。振りむこうとした瞬間、鏡の中に吸いこまれた。
「ワアー―!」
絶叫しながらどこかに滑り落ち、何かを踏みつけたような音がした。仰向けにころげて、額をしたたかにうった。
光源が断たれた状況に驚き、呼吸が停止しそうになる。
とうとう運命の日がきたのだ。
1999年7月にお出ましになるはずの大魔王が予定を変更したのだろうか。
わたし同様に短気な魔王だったのだ。それならそうと、1995年1月17日だとノストラダムスも書きのこしてくれたら準備もあったのにと思った瞬間、光が見えた。
暗闇をさすひと筋の光――現実か? 夢か?
光にむかって這っていくがすぐに突きあたった。円形の空洞に落ちたようで、腕をのばし、手のひらでさぐっても、引っかかる箇所が見つからない。
核戦争を恐れた養父が、改造小屋の下につくったシェルターなのか?
アオガエルの親戚なんだから湾曲した壁面に両手両足で張りついてよじ登れてもいいはずなのに、這い上がれない。足を動かすたびに何かを踏む音がする。
しゃがみこむ。汚泥の臭いに吐き気がする。
こぶしで触れると、大きな皮袋のようなものがいくつもある。
突然、顔面が光の輪で照らされた。めくらましにあったようになにも見えない。
「おーい、だいじょうぶか」
爺サンの声だ。
額にフラッシュライトを装着した婆サンの声も聞こえる。
2人の寝起きする母屋も彼ら自身も無事らしい。無念な気持ちと安堵する気持ちのどちらが本心なのか、自分でもわからない。年数を経た建物がそのまま残っているはずはないと思っていたので、なおさらだ。
「〝神の戸口〟が開いたのかと思ったよ」
爺サンはそう言って首をのばした。
「茶室の床下にあった井戸を埋めずに、トタン板で蓋をしただけだったから落ちたんだな」
婆サンのほっとした声が聞こえる。
「家のなかは家具が倒れて足の踏み場もありませんが、親子3人、無事で何よりでした」
鋼板を布状に圧縮したような硬い袋の上に座っていた。
コマさんが男に言った「見つけた場所」とは、この井戸なのかも……?
「いま助けにいく。ハシゴを持ってくるからじっとしていなさい。父の代からある、〝いさら井〟だ。下りたことがないので――」
爺サンの声が途中で途切れた。
コマサンと婆サンの悲鳴が重なって聞こえた。一瞬ののちに、深い霧におおわれた。どうにかしたいと焦るのに、自分の手足がどこにあるかもわからない。
地底を這うような声が、頭の上から降ってきた。遠い昔に聞いたことのある声だった。
「おまえは自らの意志で反キリスト者となるさだめ……底知れぬ深みへと捕らえられる……」
心臓が止まるかと思った。
自分がまだ生きていると感じたのは、宙吊りになっている感覚を意識したときだった。ヤケに体がかるい。重みが感じられない。背中に羽が生えたように全身が浮きあがった。ゴム風船になったような気がした。
闇の中に白い帆の船が見えた。
目に見えない何者かに両手両足を交互に引っ張られる。
不快に思う前に、泳ぎの苦手なわたしを、だれかが助けてくれていると感じた。
腕に合わせて手足をバタつかせると、すいすい進んで行く。
甲板の上に降り立った。
マストにもたれたとたん、深い眠りに落ちた。
どのくらい時が経ったのかわからない。目覚めると帆船の周囲は灰色の雲がたれこめていた。風はないが、折れたマストに白い帆がはためいている。
【グゥワン、グゥワン……】
ルーシーの吠える声が間近で聞こえた。そのとたん、船が消えて全身が闇の中へと沈んでいく。こんどは生半可な高さではない。下へ下へと落ちていく。地球の中心にでも激突するのか……。
死んでたまるかと思ったせつな、全身を打った。起きあがろうとすると、体に重みがくわわり、ボキボキと関節が鳴った。
生温い舌が顔を這う。ルーシーもいっしょに落ちたのか。どこにいるのか? 待っていれば救急隊員が助けにきてくれるのか?
『幽幽白書』の主人公のように話がはじまったとたんに、死んでるなんてことはないだろうな。
【いそがないと、お2人をお助けできませんワン】
目の前にルーシーのワニ口が見える。開いたり、閉じたりしている。
首輪についている、リードをつなぐための丸い止め金に爺サンからもらった懐中時計がぶらさがっている。
爺サンが犬の首輪につけるはずがない。犬が自分でつけたのか――。
「ひょっとして魔犬か!?」
【ルーシーですワン】
これは悪夢だ。ありえないことばかりが連続しておこったのだから、そう思うのが常識的な判断だ。
「もしかして、あの世だったりして。それって、ひどすぎる! いいことが何ひとつない、夢のひとかけらもない人生だったのに」
【聖なる都を、バビロニアの大軍が包囲していますワン】
妄想癖のある頭をふり、こぶしで叩いた。
社会で求められる記憶力は最低レベルだが、神経系統は正常なつもりでいた。
がしかし、地震の衝撃で大脳が完璧に壊れてしまったのかもしれない。今度こそ養父の病院でヘッドスキャンしてもらおう。MRI装置でなら脳と耳の異常を調べることができるはずだ。
ついでに眼科にも――。
ぐるりを見回した。円形の木枠の中にすわっている。
人が何人も入れる風呂桶のようだ。
一寸法師の夢かと思い、ルーシーを押しのけ、首をのばす。
大小の壷がならび、円錐形の土器が見える。壁は、乾燥した草のようなものを混ぜた黄土色の煉瓦でできている。『火の鳥』の古代編を夢で見ているのか?
桶は大きいが他のものは実寸大に見える。
「まさか、特注の棺桶?!」
【この桶は、オリーブオイルをつくるときに使用します。だからこここは、しぼり小屋ですワン】
「夢だからどこでもいいんだけど……」
【エルサレム近郊の村落ですワン。聖なる都エルサレムまで12㌔ありますワン】
「ここが、二重の平和を意味する、エルサレム……まさか」
ルーシーの首輪から懐中時計を外す。
手に取り、時間を見る。
5時46分をさしている!
予備校のロビーにある柱時計で時間を確かめたときと、同時刻だ。そのときから12時間経過しているなら、1995年1月17日午前5時46分ということなる。1月のこの時間だと、照明がないと何も見えないはずなのに……なぜか明るい。肌寒さは感じない。12時間、あるいは36時間、経過しているのか?
時計を耳を当てた。時を刻む音が聞こえる!
15秒きざみに印のある秒針が52秒のあたりをさしている。どうなっているのか?
【神の戸口=God doorが開いたワン】
懐中時計を握った手で頬をひねった。痛い!
夢にしては実感がありすぎる。厳格で吝嗇な養父母の虐待に耐えかねて、とうとう脳ミソが自らを解き放つために思考回路をいったん遮断し、制限のない別のルートに変更したのか? それとも幽体離脱したのか?
犬といっしょに井戸の底に埋まったのかもしれない……。でもって、地球最後の日を体感できるエルサレムを、夢想しているのか?
「壊れた時計をもらったせいで、おかしな夢を見るんだ。なにが、神の戸口だよ、ゴッド・ドアだよ。井戸に落ちたショックで頭がへんになったんだ。白骨や金塊も夢だったのかも……」
地面の土の色が黄土色をしている。
懐中時計を地面に投げ捨ててみた。
落ちる音が聞こえるということは、耳鼻科に行く必要はないらしい。
【わたしたちは生きていますワン。ただし、〝終わりのはじまりの時〟をあのお方が告げになられる手助けをしなくれは――】
犬がしゃべるなんて、夢でなくてなんなんだ。『フランダースの犬』のパトラッシュだって、どんなに利口でもしゃべったりしない。
「なんなんだよ……」
ラストシーンを思い出したわけでもないのに、しらずしらずのうちに泣けてくる。爺サンの前で泣き真似をしたときとは違う。涙がとまらない。
主人公のネロは愛犬のパトラッシュと安らかな死を迎える。
それに比べて、エサをやったこともなければ、散歩に連れだしたこともない赤毛の犬と、世界の終わりに遭遇して、あの世にきてしまったのか。
生死をともにする同志でもないのに……。
【泣くことはありませんワン。あなたの契約の相手は、リニューアルする以前から、このわたしと定められていたのですワン。気に入らない事態であることは、低位の天使であるわたしとて同じですワン。使命の第1は生ける神のお子であられるお方へと繋がる方の血筋をお守りするためです。第2に、終わりのはじまりの時を告げる、お方を、お助けするために天界よりつかわされたのです。しかしながら、戸惑いを禁じ得ませんワン】
契約書に肉球印を押させたために、悪魔が地獄から魔犬を連れてきたとでもいうのか?
【頭が3つで、尻尾がヘビのケルベロスではありません。頭は1つですワン】
これは何かの祟りにちがいない。井戸の底に棲みついていた地霊を怒らせてしまったのだ。
【神経細胞は信号を発する電気回路のようなものですワン。わたしはあなたの不十分な脳細胞の発する微弱な信号を受けとっているのです。だからと言って、プログラミングされたロボット犬だなどと思わないでください。意志をもって行動しているのですから】
この犬は、わたしの考えることが、わかると言ってるのか?
【誤謬の多い、暴力的な天使長であっても、契約は履行されなくてはなりませんワン】ルーシーはそう言って、黒い鼻の頭に皺をよせ、右前脚の赤く塗られた肉球をつきつけた。【これがなによりの証拠。友誼の証しでもありますワン】
人間関係に絶望したあまりに犬と絆を結ぶ夢を見て不満を解消しているのか?
あるいは秦野の書いたおかしな落書きの上に盗んだ石をおいたせいで心の奥に潜んでいた悪霊願望が覚醒し、悪夢を見ているのか。
【先に言っておきますが、この状況を、心理学でいうところの意識に対する補償作用だと思うのは困りますワン。なぜなら、わたしはあなたにとって、なくてはならない友であり、唯一無二のリンク先だからです】
「なんだよ、それ?」
【忠実な友は堅固な城塞であり、それを見いだした者は宝物を見いだしたことになるという、ヘブライ人のことわざがあります】
「赤犬が宝物だなんて話、だれが信じるんだよ
【姿かたちで、本質を見誤ってはなりません。あなたこそ、そのいいサンプルではありませんか。これでも、わたしは、ガブリエル天使の名代として、このミッションに馳せ参じているのですワン】
両手で両目をふさぐ。
悪魔はむく犬の姿で登場する。むく犬は長くたれさがった立派な毛なみをしているが、ルーシーの毛なみはゴワゴワした直毛で短い。しかも額の毛は薄い。だから魔力もたりず、人間に変身できないのだ。しゃべり方が変なのだ。
【あなたは感覚と現実の乖離に、戸惑っているワン】
「関係ないワン」真似してやる。
【性格が、よくないワン】
「もとからなんだよ、わりぃか」
目を閉じ、うずくまっていても目は覚めない。眠っているはずなのに、喉が渇いてどうしようもない。空腹でもある。
養父の話によると、快楽を追い求めるのが、側座核らしい。想像を絶する状況に遭遇し、側座核に異変が生じて食欲が増しているのかも?
養護施設にいた頃、食パンを食べようとすると穴があいて、そこから新幹線が走って出てくる夢を見た。あのときの夢に、現状は似ていないか……。
脈絡がなく、常軌を逸している。
【ハイパーテキストのようなあなたのメンタルは、とんでもないところに跳んでいきがちですワン】
無自覚に、無節操に、なんの対価もなしに悪魔と契約したのかもしれない。そのせいで、むく犬が赤犬になり、地獄に堕ちたのか?
教会の書棚にあったギュスターブ・ドレの挿絵入りの『神曲』を思い返す。
地獄篇の1頁目に、
「気がつけば人生半ば、見わたせば暗き森深く、道らしき道のひとつすら無く」
とゴジック体の太文字で書かれていた。しかし、この場所は深い森ではなさそうだ。
【わたしたちは、神の道具ですワン。科せられた使命を果たすために時空を越えて遣わされているワン。いまや、一刻の猶予もありません。グゥワン……】
鳴きつつ、神の道具の犬はクンクンと鼻を鳴らし、桶の中をあたこち嗅ぎまわっている。オシッコでもする気なのか?
【高貴なお方も、あの方も、お待ちになっているはずですワン】
「さっきから、お方って、お方って、だれのこと言ってんだよ。人を助ける前に、自分が助かる方法を考えるのが先だと思わないのかよ。しょせん、犬なんだ」
【な、な、なーんと浅ましく、愚かな考えでしょう。心ない言い草でしょうか。いと高きお方のお耳にとどけば、どれほどお嘆きになられることか……グゥワン!】
「嘆きたいお方とわたしと、なんの関わりもない」
【おふた方の苦況を救えるのは、次元の境界を越えてやってきた、わたしたちをおいて他にありませんワン】
「いと高きお方とおふた方とは同一人物なのかよ?」
【いと高きお方は創造神にして、口にするのも恐れおおい、天空を支配する唯一のお方であらせられます。いまから、わたしたちが、お手助けするお2人ののうちのお1人は、平和の君イエスさまの先祖となられるお方です。あとお1人は、神の御言葉を預かる方ですワン。お名を言わずとも、あなたは知っているワン】
「つむじに666の数字がある、ダミアンのことかよ。ひょっとすると、そいつが悪魔で、わたしの魂を買い取ったのか?」
【予備校をこっそりサボって、ホラー映画ばかり見ているから前頭葉の異常による妄想性障害をひきおこすのですワン】
「レンタルビデオ店のおっちゃんが、女子高生好きで、タダで見せてくれんだよ」
ルーシーはグゥフフフンと鼻を鳴らし、【わたしに嘘は通用しませんワン。もちろんダニエルさまにも。なんと言っても、ダニエルさまは近い将来、魔都と称されるバビロンにおいて第一級の並ぶべき者なき預言者となられるお方ですからね。賢者と名乗るただの物知りや、占い師もどきの偽の預言者とは、わけがちがいます】
眠る前に、旧約聖書のダニエル書を開いたことを思い出す。万引きした本の表紙に書いてあった名前だったからだ。本の副題は『なぜ、ダニエルに終末の日が見えたか』だったはず……。
【ダニエルさまの御名を思い出したのなら早く、立ってください。あなたの望みを叶えてあげますワン。時計を拾って――】
「叶えるって……?」
【大きな土器のふたをとって、底に溜まった泥水に姿を映してみてください。新たな装いに歓喜し、おのれの使命に覚醒し、深遠なる知識を得る助けとなるワン】
桶の外に転がり出て、土器の中をのぞいた。たしかに、鏡の役目は果たした。頭全体が金色に光っている!
「ゲェッ!」
毛先の一本一本が金髪になり、ハリネズミのように逆立ち、額の青いインクのようなあざがむき出しになっている。夢の中であってもコンプレックスが具現化すると、極端に陥りやすいのか……。
ルーシーは桶の縁に前脚をかけて、桶の中からジャンプし、着地すると茫然自失のわたしの目の下に駈け寄ってきた。
【Cモス回路の抵抗はやや強めですが、砂漠の心地よい風で、金粉で固めた髪は冷却できますワン】
身につけているのは、たしかにストリート系ファッションといえなくもない。
なんの生地がわからない長い丈のチェニックの上に、これもなんの皮かわからない裾丈の短い上着に毛皮の足首までの靴。だふだぶの半パンツ。
下着は履いていない。
もしやと思い、あわてて上着をたくしあげ、からだをねじって水鏡に映してみると、楕円形の落書きが背骨の両脇、肩甲骨の真下に2つずつ、油性のマジックペンで描きなぐられている。
できるだけ冷静に、「本物の天使だったら、背中に羽根があって、白いワンピースを着てるよな?」
【流行遅れですワン。ジャジャケットと靴はアナグマの皮でできています。この時代の最新のトレンドですワン。下着用のチェニックはこれも最高級品の亜麻布できています。天使の羽根は、わたしが口で描きました。直筆です】ルーシーはワニ口の両端を耳のそばまで引きあけた。【コンバーチブルのジャケットには、胸にポケットもつけておきました。グゥワン。返礼にはおよびません】
腰骨に引っ掛かっただけのパンツは、いまにもずり落ちそうだ。ヤンキーの腰ばきジーンズのほうがまだ許せる。
「せめて『ドラゴンホール』の悟空に似せてくれてたらなぁ」
【ことばづかいが天使長らしくありませんワン。適正な自然言語にあらためてください。本来なら、もっと厳格に対処すべきなのですが、わたしの本来の気質が温順にして誠実であるがゆえに、ついつい過剰な親切心を発揮してしまうのですワン】
パンツを引っ張りあげる。「もとの格好にもどせっ!」
【足元にヘビ皮のベルトがありますから使ってください】
「山賊みたいな格好がいやだっつってンだろが」周囲を見回し、蛇の脱け殻らしきものを見つけ、ベルトの代わりにする。「ジジィとババァのいるところに帰してくれっつーのぉ!」
パンツがウエストで止まる。
ルーシーは両耳をピンと立てて、頭を左右に動かした。
【わたしの勘違いだったのでしょうか? たしか、家出をするつもりだったはずでは?】
「言葉のあやなんだったらっ!」
【グワァン。むつかしい日本語も知っているんですね。現代国語の3タク問題だって、めったに当たらないのに】
「解答のほうがまちがっているんだって。自分の答えのほうが正しいといつも固く思ってるんだからさ」
【目玉が動いているワン。問題は読まずに、誕生月の12月から1212とバカの1つ覚えで解答欄を塗りつぶしているワン】
「な……なんで……しってんだよ」
【これでも、わたしはだれあろう、ガブリエル天使の名代ですよ。マークシート方式の、設問の記号はアイウエオ順に縦にならび、解答の記号は1~9、a~eが横にならならぶ簡単な形式。2次元配列と隣接行列の応用です。解答例がアラビア数字の場合、あなたは、生年月日の19781223の順に黒く塗っているワン。アルファベットの場合、鉛筆の両端に、0~5をランダムに記入し、転がして上向きになった2つの数字を差し引きする。そのとき、a~eを1~5に置き換えて解答しているワン】
「この方法で最低点になることはないんだよ」
【コンピュータは鉛筆で黒く塗られた状態が1、塗られない状態が0と認識し、計測していますワン。プログラマーにも個性があって、あなたと同じように正解の番号に一定の法則が生じるワン。問題を読む時間を惜しむのであれば、その法則を考える時間に当てればいいのに――せめて、順列・組合せくらい理解していればねぇ。人によっては、気のむくままに解答用紙を塗り潰したあとで、アルゴリズムを使って誤っていると思われる箇所を訂正するワン。あなたのクラスメートの白蛇女は問題の予想もできる。サバン=超知能の持ち主で、すべてを感知するワン。悪魔の手先の彼女に比べれば、あなたの知能は雑魚。ただのアオガエルならぬアホガエル】
生まれてからこのかた、これほど肝が冷えたことはない。杓子定規で横柄な大人どもや、群れたがる女子どもの鼻面を好き勝手に引きずり回してきたつもりでいた。
それがどうだ。夢の中で、それもたかが犬ごときに糾弾され、屈辱されようとは思いもしなかった。残された道は狂言自殺ならぬ、心神喪失を装うしか手がない。
「だれにも信じてもらえないなんて、やっぱり哀れな捨て子なんだ。ダークでエキセントリックな女の子だって、思ってもらいたいだけなのに……なんて不幸なの。ここはどこ、わたしはだれ」
【衝動性を抑圧できない気質は、薬物依存症や砂糖依存症になりやすいワン。このさいフラッシュライトの電池を使って、あなたの側座核に電極を挿入してもいいんですよ。30年前、アメリカの学者がラットで実験しています。ラットは飲まず食わずで、レバーを押しつづけました。いまのあなたに必要なのは、そのときのラットの身体反応です。与えられた使命と真摯に向き合わないのであれば、わたしは甘い顔をやめて、あなたを信仰依存症に矯正するワン】
目眩がするほどの憤怒が沸き起こる。毛皮の靴を片方脱ぎ、振りあげる。
【ウゥーウッウッ】と牙をむき出し唸るルーシー。
「声が出ないようにしてやる」と脅す。
先の尖った耳がピンと突立つ。
【やってみれ。根性なしのバカ天使。グゥ、グゥワン】
「黙れっ、黙れっ、黙れーっ」
【あと1つ】と、ルーシーは後ろ足をそろえて座り、右前足の赤く染まった肉球を突き出した。【なぜ、茶室を改造した小屋にあなたを住まわせたか、あなた自身が一番よくわかっているワン。しらばっくれてもだめです。ご両親はあなたの盗癖を知りながらもそのことであなたを責めなかったワン。ご立派な方たち。慈善活動にも熱心で世間の評判もわるくありませんワン】
「犬のくせに、うっせぇんだよ」
【マンガを買ったり、映画を見たり、ファミレスで時間をつぶしたりするお金を、あなたは、お養母さまの財布から盗んでいた。わたしが飼われたのも、あなたの気配を事前に察知させるため。だから、お義父さまはおっしゃったのです。わたしが番犬にならないと。あなたの性悪な心を改心させることは、本来の役目ではありませんので、お役に立てませんでした。そのことについては、たいへん遺憾に思っておりますワン】
絶体絶命の窮地に陥った場合の対処法を、だれにも教わらなかった。気づくと三白眼の目玉が動きすぎて失神しそうだ。盲点ともいうべき欠陥を突いてきた赤犬への報復を懸命に考えた。
【ご両親は、あーなーたにぃ、恥をかかせることなく、矯正なさろうと気遣われたワン。あなたは学齢期に達する前からのアウトロー。養護施設でも、どーにもならない問題児。それと知りながらお養父さまは、中学生になるのを機に養子に迎えたワン。あなたが、自覚しない、誤謬だらけの天使長ミカエルだと感知されていたからですワン。公立の中学校に馴染まないあなたを心配したお義母さまが、良家の子女の通う高校へ入学させたのです。天使長らしからぬ悪癖があらたまるかと思われてのことです。くだらない本ばかり集めて、ブックカバーで隠してもとっくにバレていますよ】
「なんの話をしてんだよ」しんみりとわたし言った。「お互いに信頼できない友情なんて、意味がない」
【契約が履行されない場合、今後、ここでの移動にさいして必要な天界発行の通行証=ビザが支給されません。天使であることを証明するエンジェルカードは申請すらむずかしいでしょう】
「契約書にそんな条文はなかった!」
【不肖、俗世では犬の姿ですが、いまはガブリエル天使の名代として、天界の本部統括管理官=ゼネラルマネージャーに依頼して、2項目の条文として、つけ加えさせていただきましたワン】
「詐欺で訴えてやるっ」
【強制的に、肉球印を押させたのはだれあろう、あなたではありませんか。わたしこそ被害者。本来、あなたの上司である、ガブリエルさまでさえもた躊躇われた、このお役目。好んで受け入れたとでも? とんでもありません。日々、ヒラの天使の悲哀を感じてますワン】
「ビザもカードもヒラテンもいらん!」
【わたしがヒラテンなら、誤謬だらけで、暴力的なあなたはゴボテンです。グゥワンワン!】
「わたしはわたしのしたいようにする」
7 ヒラテン&ゴボテン&ヘビ女
肩で風をきるような格好で戸口に向かったとたん、「ミカエルゥ!」と呼ぶ、ねっとりした声が聞こえた。
もしやと身震いしながら、振りかえった。フェルトの黒い帽子に同色の裾まである薄手のコートを肩にはおった秦野亜利寿が、桶の中から顔を見せた。弾けるような笑顔で、アルファベットの〝C〟がふたつ背中向きにくっついたロゴのあるハンドバッグの黒皮と金属のよじれた持ち手をつかみ、ぶんぶん振り回している。
「あっらぁー! とうとう見つけたわよ~ん」
手のこんだ夢に辟易する。よりにもよって、飲みこまれる恐れのある白蛇女が現われるとは! 身長が5、6㌢伸びている。もともと大人びた容姿だったが、さらに進化している。長い首と胸元は黒のシホォンなので透けて見える。もはや美少女ではない。細長くなったぶん、完璧な大蛇である。ベルトがわりに使ったヘビの脱け殻はもしかして、こいつのものだったのか?
「去年の1月17日の朝に地震があってぇ、ミカエルがぁ、いなくなったって、大騒ぎになったのよぉ。でねぇ、クラスのみーんなでぇ、避難所や公園をさんざん捜し回って、結局、見つからなかったのぉ。自分勝手なミカエルはぁ自分ひとりが助かりたくてぇ、どこかへ逃げこむ途中で事故に巻きこまれてぇ、死んじゃったことにぃなってぇ――も、ち、ろ、ん、アリィは信じなかったわよぉ」
「去年? 井戸の中を探してくれなかったのか!?」
「井戸なんてどこにもなかったわよ~ん」
「改造小屋の床下に――」
「いっぺんに6千人、ひょっとしたらもっとたくさんの人が一瞬で亡くなったのよぉ。1人ひとり、身元を確かめる時間も人手もなかったのぉ。とんでもない災害だったんだからぁ、少しはさっしなさいよぉ~」
〝終わりの日〟がきたわけじゃなかったのか? 世界は続いているということか……。
「なんだよ、その暑苦しい格好は」
「ミカエルのお葬式が、今年の1月17日にあったのぉ。一周忌ってゆーのかしらん。すっごく、寒かったわぁ」
「お葬式? 一周忌?」
ルーシーはもとの犬にもどったのか、ふわふわの尻尾を立てて、ワンワン吠えてばかりいる。秦野は犬が苦手らしい。
「犬ってうるさいからぁ、きらーい!」
【ヘビ女め! ウッーウッーグァワン、ギャンギャン】
「犬なんだから、吠えるのは当然じゃん」
「あっらぁ! こんなところに時計が――」
秦野は、ついさっきわたしが捨てた懐中時計を拾った。
「やるよ」と彼女に言うと、ルーシーは狂ったように吠えたてた。
秦野は懐中時計を裏返し、蓋をあけた。そのとたん、彼女の形相が変わった。みるみるうちに、緑の瞳の白目が赤くなり、地を這うような声を張り上げた。
「あいつを、あの男を呪い殺してやる!」
「どうしたんだよっ」
【五芒星を――】とルーシーは唸る。【時計を引き剥がせ!】
秦野の手から懐中時計を取り返す。すると秦野はいつもの美貌にもどり、たったいま思いついたように、
「そうそう。忘れるとこだったわぁ。ミカエルんちのおじさまとおばさまはぁ、地震のあった日にぃ、家具の下敷きになってぇ、お亡くなりになったのぉ。おうちが火事になったせいでぇ逃げ遅れたみたーい」
一瞬、呼吸が止まった。養父母が亡くなっただと。
「そんなはずないだろっ。井戸に落ちたわたしを、助けにきてくれたんだから! 親子3人、無事でよかったと婆サンは言ったんだよっ」
「ミカエルんちのぉ、お手伝いさんも、火事の巻き添えで黒こげになったんだからぁ。うちの運転手夫婦やパパも……」
「あんただけが生き残ったってわけ?」
「それでぇ、遠縁だけれど親族の方がたが区切りをつける意味でもと、おっしゃってぇ、おじさまとおばさまとミカエルとコマさんのぉ、4人の一周忌をすることになったのぉ~」
「そっちの家は一周忌とかなかったのか?」
「ない、なーい。うふふふ」
白蛇女の話が事実だとしたら、養父母は、井戸をのぞいたあと、母屋にもどり、家具の下敷きになり、焼死したことになる。
わたしが聞いた婆サンとコマさんの悲鳴は幻聴だったのか?
「そっちは、いつ、どうやって、ここへきたんだよ?」
「一周忌に参列した日にぃ、ミカエルのおうちにお花を供えに行ったのぉ。解体される寸前だったんだけどぉ、母屋とちがって、プレハブの建物がのこってたのよぉ~。でねぇ、見つけたのぉ。お爺さまからもらった〝イスラエルの石〟を! うふふ~ん」
思わず、つぶやく。「石ひとつで移動できるのか……」
「その日の夜だったかしらぁ。バスルームでぇ、シャワーを浴びたついでに鏡をのぞいていたらぁ、吸いこまれちゃったのぉ」
共通しているのは鏡だが、「風呂に入るときも石を持っていたのか?」
「もちろんよ。大切なんだものぉ~」
「幽霊船は見たか?」
「アリィはシンデレラだから、もちろんベンツに乗ったわよ~ん」
背丈は伸びても口調は変わらない。
「むこうの世界で1年の時間差があるのに、こっちの世界に着くのは、ほぼ同時刻……居眠りしたから、1時間くらいの誤差があるのか……1年が、1時間ということか? でも時計の針は――」
握りしめた時計を見る。再度、時間をたしかめる。秒針が少し動いて、真上の手前で止まっている。
「5時46分59秒か……」
「地震のあった時間は、5時46分52秒よ」
「7秒、進んだことになるのか」
どうすれば、夢から覚めるのか、もといた世界にもどれるのか、けんめいに考える。秦野に相談すべきなのかもしれないが、この状況を白蛇女は不思議とも不快だとも思っていない気配だ。カシミアのロングコートを肩にひっかけて暑くないのか、白い額にひとつぶの汗も滲んでいない。
白蛇女は体温が低いらしい。
秦野は鼻歌まじりで、どろ煉瓦の小屋の中をあちこち見て回っている。
「残酷な……天使のように……少年よ神話になれ……」
「なんの歌だよ?」
「ミカエルはぁ、『エヴァンゲリヲン』を見てないんだ。たった1年ちがうだけでぇ、傑作を見損なったのねぇ。ということはぁ、うふっ。『ドラゴンボール』の連載が終わったことも知らないのよねぇ。地下鉄サリン事件もぉ、Windowz95も知らないんだぁ。行き先は地獄かもと思ってたけどぉ、ここってぇ、もしかしてぇ~、砂漠の竜宮城かもよぉ。あっらぁららら~」
ルーシーが戸口にむかって吠え立てた。
野太い声が聞こえたかと思うと、ひげ面のオジサンたちがなだれこんできた。眉毛の濃い毛深い4人組は赤銅色の肌の色をしている。窪んだ目はギラギラとよく動く。
使い古しの布きれを頭に巻きつけ、筒状の衣をまとい、簡素な身なりだが、1人は鋲を打った棍棒を持ち、残る3人は出刃包丁より大きな凶器を手にしている。これは夢なんだと自分自身に言いきかす。
「なんだ、こいつら?」とルーシーにたずねる。
【ベドウィン族です。彼らの先祖はアマレク人。イスラエルの南部に住む先住民です】
棍棒のオジサンが「魔物めっ」と怒鳴った。わたしを恐れている気配だ。もしかすると、オジサンたちの目に映るわたしは、先史時代に出てくる恐竜の子どものような生きものに見えるのかも。
「魔物じゃねぇーし……なぁ」
同意を得ようと、振りむくと、要領のいい秦野はいつのまにか桶の中に身をひそめている。
ルーシーが吠える。【無意識に由来する影=シャドウだなんて、彼らを勘違いしないでくださいよ。身に危険が迫っているワン! 仮想現実の登場人物ではないワン!】
「最終戦争のあるメギドに関心をもち過ぎたせいで、こんな夢を……」
強盗団に見えるオジサンたちまで登場してくるということは、犯罪者への願望の表れなのか。
「黄金の冠を外せっ」「食い物を出せっ」「布袋をよこせっ」
音声が重なってきこえる。ライブなのか……?
いやいや夢なんだから、パクったウォークマンを耳につけたまま眠っているのかもしれない。しかし、一周忌があったらしいから、ここは地獄で、銛をもった悪魔のかわりにベドウィン族が襲ってくるのか?
ルーシーが牙をむいて吠える。【相手がどこの国の言語を話そうと、わたしたちには理解できるワン。そして、あなたやサバン・秦野の話す言葉は相手の国の言葉に変換されるワン。ただし、わたしの声はあなたの耳にだけ届き、他の人々には、ただの鳴き声としてしか伝わりませーん!】
「まだガキだ。やっちまえっ!」
棍棒のオジサンがリーダーらしい。
「おおっ」と残る3人が雄叫びをあげた。
【砂漠に住むべドウィン族は、肉食動物の後片付けをするハゲタカとそっくりなので他の部族から〝砂漠のハゲタカ〟と呼ばれているワン。バビロニア軍の傭兵に村人が皆殺しに遭ったのを好機とみて、この村にやってきている。わたしが彼らを撃退します。あなたは時計と荷物を奪われないようにしてください!】
大急ぎで懐中時計をポケットに入れる。
「荷物って?」
さっきまでなかったのに、足元にリュックがある!
【わ、わ、わたしが、テレポートのさいに、く、く、く、くわえてきましたワン】
夢でないとしたら、ルーシーはどうやってこの地へ移動したのか?!
犬は、例の石を持っていない。秦野は時計を持っていなかった。
わたしは石も時計も持っていなかった。ひょっとして何者かによって強制的に空間移動させられたのか、そのとき、鏡が起動装置の役割を果たしたのか……。
【ああーっ、Danger!】ルーシーは吠える。
逃げようにも、相手は4人、出入口の前で、棍棒や刃物を手にして待ち構えているので出たくても出られない。
リュックからカッターナイフを取り出す。
殴られても、刺されても、夢なんだから死ぬはずはないが、撃退する手段をとらなくてはならないと思うのはなぜか!
ルーシーは鼻の頭に皺をきざむと唸り声を発して、ひげもじゃに立ち向かっていった。養子になって以来、実戦経験がとぼしい。養護施設にいた小学生の頃、飛び蹴りが得技だった。赤犬に守られて、引き下がるなんて、かつての名声を汚すことになる。
「てめぇら、ガタガタぬかすンじゃねぇ!」と喚きつつ、カッターナイフを握りなおした。「ミカエルさまをナめんなよっ」
ルーシーは手前にいる棍棒をもつオジサンの足に食らいついた。桶の中の秦野はわたしの知らないアニソンを歌いつづけている。ひょっとして彼女は恐いのか?
うしろの3人は同時に鈍色に光る短剣を振りかざした。
「危ない、ルーシー!!」
リュックを投げつけた。布を巻いた頭に当たった。覆面男の1人が短剣を捨て、リュックを拾いあげ逃げ出した。
「返せーっ」叫ぶが、棍棒のオジサンがこっちに向かってくる。
【ヘ―ヘ―ヘHead!】とルーシーが吠えまくる。【Head butt him!】
首を前に曲げ、金冠頭を全面に押し出し、棍棒にむかって突進した。ぶつかった瞬間、棍棒に無数の穴が開きメラメラと燃え上がった。
【Jast do it!】
インフルエンザにかかったときのように頭全体が熱い。なぜか、青いあざも熱い。夢であっても、燃えつきたくない。
予期せぬ災難に驚いたのはオジサンたちの方だった。
一気に戦闘意欲を喪失したのか、金冠頭を呆然と眺めている。
桶の中の秦野は震える声で、『美少女戦士セーラームーン』を歌いだした。
「覚悟しろ」と棍棒のオジサンが言ったとたん、だぶだぶパンツを止めていた蛇の脱け殻のベルトがちぎれる。
左手でパンツの端をつかんだ。
弾みで右手のカッターナイフを落としそうになる。
ナイフの先から光線が天井にむかって昇っていった。というより、光の束がビューッとゴム紐のようにのびたというか……?
天井から砂埃と板切れが落ちてきた。
棍棒のオジサンに板切れが命中した。
残った2人は、手負いのオジサンを抱きおこし、逃げ出した。
ルーシーを見ると埃をかぶって灰色の犬に変身していた。
なんの役にも立たない秦野はおもむろに立ち上がり『北斗の拳』の名台詞「おまえはぁ、もう死んでいるぅ~」と言った。
【前が見えませんワン】ルーシーは胴震いをし、キュゥーンとめめしく鳴く。
戸外で争う声につづいて、馬のいななきとオジサンたちの怒鳴り声と同時に悲鳴が聞こえた。新たな敵の出現かと身構えるが、隠れるようにと急かすルーシーを抱きかかえ桶の中に飛びこんだ。
「犬は、外へ出してよねぇ。カシミアのコートが汚れちゃうものぉ。泥まみれの靴でぇ、裾を踏まないでぇ~」
「こっちが、先客だろうがぁ!」
「〝使徒襲来〟だと思ってぇ、我慢するわぁ」
「ナニ言ってんだよっ」
8 メディア人主従
2人と1頭でしゃがみこむ。
足音がする。首をのばし、桶のふちからのぞく。
矢筒を背負い大弓を手にした若者と、持ち手のある鉄線のようなものを手にした若者が入ってきた。
2人ともまだ若く、わたしたちとさほど年齢が変わらないように見える。
広い額に青灰色の瞳をした若者は桶の中をのぞき、わたしたちを目にしたとたん、腰に帯びた剣のつかに手をそえた。彫りのふかい顔立ちは白人に見えるが、日本神話の挿し絵の登場人物と似てなくもない。茶褐色の髪をひとくくりにし、鉢巻きをしている。
白い衣姿はりりしい。赤い房飾りのついた青玉の首飾りをし、膝下まであるゆったりした長い衣の腰帯に刀剣をさし、ふくらんだ白いパンツの裾をリボンのような紐で結び、膝下まである毛皮の靴をはいている。
【青い目の若者はイラン高原に住むメディア人です。北方から移動してきた彼らはコーカソイド=白色人種です。のちにイラン系アーリア人と呼ばれます】
「イラン系アーリア人……」
【インド・ヨーロッパ語族です】
帽子を手に身を低めて桶の壁面に張りついている秦野がささやく。
「鉄線の持ち手が血だらけよぉ。血はきらーい」
「面妖な者、部族名を申せ!」と青玉の青目は威嚇する。「まがまがしい額の刺青からさっするに預言者と称するたぐいか」
「異形の者ゆえ、近づいてはなりませぬ」ゲジケジ眉に浅黒い肌色をした鷲鼻の若者が鉄線を肩にかけ、両腕をひろげて、青目を桶から遠ざけようとした。
「サマリアやユダの各地に現われる預言者と似ておりますが、出で立ちが異なっています。お気をつけください」
鷲鼻は青目の部下のようだ。お碗のような兜を被り、胸当てと肘当ての下には筒袖の赤い胴着を着用し、くすんだ色のパンツをはき、足元はサンダルをはいていた。斜め掛けに背負っている弓と矢筒は青目のものより小さい。
【イスラエル人の従者ですワン】
灰かぶり犬になったルーシーは、すすり鳴くように吠える。
「イスラエル人……ユダヤ人じゃないのか?」
ルーシーはわたしのパンツの裾を噛み、立ち上がるわたしを引き止めながら、【南の王国のユダ部族が捕囚の民となったのちにユダの遺民という意味で、ユダヤ人と呼ばれるようになったワン】
「この者は幼い頃より、わたしとともにメディアの王都エクバタナ(現ハマダーン)で育ったのだ。ヤディは鷲より俊敏だ」
青目は、わたしが彼らにたずねていると勘違いしたようだ。
「イスラエル人なのに、ユダ王国を攻めるのか?」
わたしの問いに、従者の若者は大声で言った。
「われらの北王国イスラエルは、南王国ユダの王の謀略でアッシリアに攻められ滅びた。以来、サマリアの地からイスラエルの民は他国への移住を余儀なくされた」
「復讐しているのか?」
パンツを引き上げながら桶の外へ出た。
「おまえは、呪術者を装ったユダの密偵か?」と従者。
いつのまにか、わたしのそばにいるルーシーは唸る。【ユダの神と相容れない、バアル神を崇める呪術者だと答えればいい】
その通りに答えると、青目は怪訝な顔で近づき、
「鮮明に見えたわけではないが、稲妻が屋内をまぶしく照らしていた。おまえの行なった妖術なのか? ヤディ、おまえも見たであろう?」
「バアル神とは、パレスチナ一帯の先住民であるカナン人が信仰している嵐と雷鳴の神のことです。われわれイスラエル人の先祖やヨルダン川の東岸(トランス・ヨルダン)に居住するモアブ人も信仰していました。もちろん、わたしは信仰しておりません」
「黄金の被り物は、盗んだものか」と青目。
頭を突き出すと、青目は金冠頭の根元をのぞきこみ、
「おおっ 頭の肌と逆さに生えた黄金の毛髪がひとつづきになっている。祖父に見せたい。つき従うがよい」
こいつは人様の頭を、ギリシア神話に出てくる金色の羊の皮と間違っているのか?
断ると、青目は見下すような口振りで、
「黄金の冠は王にしか許されぬ。メディアの神々の守護の下にあるわたしに従わねば、この先、その身は危険に晒されるであろう」
「ジュダイの騎士団にでもなれるんならともかく、わけのわからんあんたらに、ついてくわけないじゃん。奴隷じゃあるまいし」
「なんと申した! 呪術者に蔑まれるおぼえはない」
青目の目尻を吊りあげて、また剣のつかに手をかける。
乾いた絹ずれの音が背中で聞こえた。
「怪しい者ではありませんわぁ~」
桶の底にひそんでいたはずの秦野が立ち上がり、微笑んでいる。黒一色なのにスポットライトが当たったように全身がきらめいて見える。絹のレースをふんだんに使ったワンピース姿で、桶の縁を跨ぐことなく円を描いて跳躍し、地面に降り立った。
網の手袋をはめた手に赤い数珠をもち、首には三連の黒真珠のネックレスをしている。足元は黒のストッキングに同色のエナメルのピンヒール。帽子のせいで気づかなかったが、結いあげていた髪をほどき、肩にたらしている。
ウェーブのかかった茶色の髪は絹糸のようだ。
「イシュタルの女神か!」
青目は、緑目の秦野の出現にたじろいだようだ。
「なんと美しい」声が震えている。
秦野はゆっくりと首をふり、数珠を差し出した。
「この腕輪は、すばらしいお方にめぐり会えるようにと、祖父の願いのこもった贈り物ですのよ。よろしかったら、想いびとにさしあげてください。あなたの青金石(ラピスラズリ)よりも何倍も護符の力がありますわぁ~」
青目はためらいがちに数珠を受け取ると、
「これは軽い! 紅玉髄(ルビー)ではないのか? 目にしたことも触れたこともない石だ」
青目は返礼だと言って、ラピスラズリの首飾りを外し、秦野に手渡そうとしたが、秦野はシャネルのハンドバッグから純白のハンカチを取り出した。 ついでに、長いまつげをしばたいた。青目は、秦野のまつげの動きに合わせて、心が溶けていくような顔つきになった。
「わたくし、名は明かせませんが、由緒ただしき家柄の者ですのよ。それが、なんとしたことでしょう! 入浴中に襲われましたの」とすらすらしゃべりハンカチを握りしめた。「そのお方が、身分のある方であったせいで……わたくしは身を守るために致し方なく、しもべとともに逃げ出しましたのぉ」
「そ、それは気の毒に……」と青目はしどろもどろになりながら、
「わたしでよろしければ是非、お助けしよう」と言った。
鷲鼻は訝しげに、
「この者らは、バビロニアの密偵かもしれませぬ。警戒なさらなくては」
「案ずるな」と青目は言った。「近隣を荒らすスキタイ人のせいで、勢力の衰えたウラルトゥ国(カフカス山脈の麓ヴァン湖の周辺)の者やもしれぬ。ウラルトゥの王族にも、そなたのような顔立ちのものがいると聞く。にしても、姿ばかりでなく身なりも美しい」
「東の果ての島からきた」と、わたしが口をはさむ。
「そのような遠くからどうやって来たのだ?」鷲鼻は疑り深い。「徒歩できたのか? ありえぬ」
「井戸に落ちて、地の底かと思ったら帆船の甲板に座っていて、気がつくとここに来ていた」
わたしは額の青あざを指差し、「それと、これは刺青じゃないから、あざだから」
青目は声をあげて笑い、
「偽りを申さずとも、おまえの女主人を殺めることはしない。わたしの名はデイオケス。メディア王キャクサレスの親族だ。祖父は、メディア軍の総参謀長フラワルティである」
青目は胸を張って名乗ると、従者の鷲鼻を振りむいた。
「ヤディ、おまえは、東の果ての島を聞き知っているか」
鷲鼻はひざまずくと、伏し目がちに言った。
「わが一族の父祖はかつてヨルダン川の東側に住むガド族の族長でした。アッシリアの1度目の侵攻のおりにマナセ、ガド、ルベンの3部族が捕らえられ、身分の高い男子はメディアとハマトの地に分散して送られました。
この者たちのうちのいく人かはさだかではありませんが、アッシリアとのいくさのさいに逃亡したと伝え聞いております。その後、ヨルダン川の西側(シス・ヨルダン)に住む残りの6部族も2度にわたって捕らえられ、アッシリアの主要都市アッシュルやカルフ(のちのニルムド)、王都ニネヴェに送られました」
ルーシーの声が重なって聞こえる。【懐かしきニネヴェ……。時は残酷です。いまは2つの塚が残るだけになりましたが、ニネヴェは、チィグリス川上流にあった古代都市です】
青目は意外な表情をした。
「おまえの父は騎馬隊を束ねる者として、よく仕えてくれたので代々、わが家の家臣だと思っていた」
鷲鼻は顔を上げた。
「あなたさまと同じ御名のデイオケス陛下の御代のことにございます。メディアに奴隷として売られた先祖は、王都エクバタナの7層の城郭を築く役目を担っておりましたが完成間近に、アッシリア軍が、メディアの駿馬を得んと攻め入ったため、前線で敵を迎え撃っていた2千の異民族で編成された重装歩兵は城門が閉じられたため、行き場を失い、東へ向かって逃亡さぜるを得なかったよしにございます」と、鷲鼻は言った。
「そうであったか」と青目は大仰に頷いた。
「わが父祖はそのときすでに騎馬隊に属しておりましたゆえに彼らとは行動をともにせず、山岳地へ馬とともに逃れたそうにございます」
鷲鼻のヤディの話を聞きながら爺サンの「とんでも話」を思い出していた。話の内容は微妙に異なっているが、7層の城郭を築いた連中のことを〝失われた10部族〟と爺サンは言った。しかし、ヤディの話だと、3と6を足せば9部族になる?
【シメオン族は民の数が少なかったため、領地を与えられず、ユダ部族の飛び地の都市ベエル・シェバに散らされたのです】
ただしとルーシーはささやく。【祭司職のレビ族は古来より数えられない民だったので、大和朝廷では神祗を祭る神官となりました。九州の名は、9部族がもとになっているとも言われていますワン。京都御所にも皇居にも9つの門があります。聖都には12の門があり――】
「わがメディアでは何事も文字に記さぬゆえ、わたしはおまえのように、いにしえの諸事について学ばすに育った。荒唐無稽で要領を得ぬ話に聞こえるが、その話に偽りはないのであろう」
青目は鷹揚にうなずく反面、
「この者が身辺警護に適した手練れの兵に見えぬ。ましてやしもべにも」
と言った。
秦野は桶の底でへしゃげていた黒の帽子を拾い、砂埃を手で払いながら、「もとは宦官ですもの」とつぶやいた。そして、帽子の内側から黒い網のベールをたらし、それをかぶると、「わたくし、喉が渇きましたわ。お水をいただけますぅ?」
ヤディと呼ばれた従者が、皮袋を秦野に差し出した。
秦野は無言で受け取り、帽子の網をたらしたまま皮袋の口に自分の口をつけると、喉を鳴らして飲みはじめた。
水が飲みたい!
ペットボトルの水を飲もうと思ったとたん、リュックを盗まれたことに気づいた。
パンツを手で押さえ、屋外に走り出た。自分が岩山の頂に立っていることに仰天した。ラクダにまたがった男が2人、2頭のラクダを引きつれ眼下の黒っぽい道を横切り砂漠へと消えていく。
「あ~……あ~リュックが……」
その場にヘナヘナと座りこむ。唯一の財産だったのに。家出用グッズの数々――ペットボトル、養父専用の大袋ののど飴、セーラムと百円ライター、ペンシル型のフラッシュライト、ポケットティッシュ、折畳み傘、バカチョンカメラ、泡シャンプーにウェットティッシュ、婆サンの部屋からパクったシャネルの5番。余分なものは旧約聖書くらい。
ヤディが、わたしの前にまわりこみ、リュックを放り投げた。リュックに血しぶきと、血の手形が付着している。
「宦官だったのか。納得がいったよ」とヤディは言った。
リュックの中のペットボトルを取り出し、水をラッパのみする。
ヤディは透明の容器を不思議な顔つきで見つめている。ひと息つき、ウエットティッシュを取り出し、後を追ってきたルーシーの目と鼻を拭き、自分の顔も拭く。リュックの血も拭うが、とれない。
戸外に現われたデイオケスは、わたしたちを聖都の南西約30㌔にある町ヘブロンを包囲する傭兵部隊の宿営に連れて行くと言いだした。
その町も高地にあるという。
「デイオケスさま、正体不明の奇怪な者らを連行すれば、行き着くまでにバビロニア軍の検問所で見咎められ、おそらく通行証を所持しないこの者らは密偵に間違われて、斬首刑か、串刺しの刑になるでしょう。われわれの身も安全とは言えません」
「わたしの祖父は、バビロニア軍と同盟を結ぶメディア軍の総参謀長フラワルティなのだぞ。孫のわたしが保護した者に対して、そのような無礼を働くことなどできようか!」
「いかにも……しかし……デイオケスさま、われわれはフラワルティさまの内密のご指示で前線部隊を離れております。申し上げにくいことですがエジプトの動向を偵察したのちは一刻も早く、北上し、ハリュス河畔で陣を張るメディア軍の本隊にもどらねば……」
「若輩であるが故に、バビロニア軍に侮られると申すのかっ」
話に割りこむ。
「水と食べ物があったら、分けてもらいたいんだけどぉ」
秦野が戸口から出てきた。腕にコートをかけた彼女はバッグでわたしの肩を叩き、
「はしたないことを――お黙りなさい」
青目は敬意のこもった眼差しで秦野を見つめた。
「そなたからもらいうけた赤い腕輪は生涯、身につけると約束しよう。だから、そなたもわたしの首飾りを――」
「どうしてもとおっしゃるのなら、有り難くいただきますわぁ」
秦野は含みわらいをちらりと見せると、「迎えの従者がほどなくまいりますので、わたくしたちのことはお気になさらずご出立なさいませ」
青目は残念そうに、「わがメディアの正規軍は現在、ハリュス川まで侵攻し、向こう岸で陣を張るリュディア王国(現トルコ)と対峙している。未だ交戦状態に至ってはおらぬが、いつ戦闘がはじまってもおかしくない戦況にあるため、そなたを国元に送りとどけるいとまがない。許せ。いずれ、かならず、めぐり会おうぞ」
全身がむずがゆくなる。
「黒ずくめのご主人さまを拉致してもらって結構ですから、さっさと消えてくれませんか?」
青目が血走り充血する。
「近隣諸国で、わがメディアの騎馬軍団に勝る戦力をもつ国はない! 礼儀しらずの不届き者に美しき女主人をゆだねることはできぬ」
鷲鼻が鉄線の持ち手をわしづかみにし、近づいてきた。
身の危険を感じた瞬間、ルーシーが数字の8を横にした形に頭を振った。
青目と鷲鼻と秦野の動きが突然、止まる。
わたしとルーシーをのぞいて静止画像になる。夢の中だから、こんなことが可能なのだと思ったとたん、ルーシーはクフンと鼻を鳴らし、地面に前脚をつけて背骨をのばし、あごをあげてグゥワンとひと声鳴いた。
【現在のイランの山岳地を領地とするメディアは新興国です。1500年以上つづいたアッシリアやバビロニアとは比較になりません。黒海の北、カルパチア山脈とコーカサス山脈の間の地域から紀元前3500年頃に南下してきたアーリア人です。彼ら遊牧民には文字文化がありませんでした。当時の彼らには王名表もなければ、暦もない。しかし、同じ中央アジアに住むセム語族のスキタイ人と争ううちに戦馬の飼育法を学び、急速に戦闘力をつけたのです】
ハフッーとルーシーはため息をつき、
【オリエント文明の礎を築いたシュメル人をのぞいて、のちにセム語族と呼ばれるアラム人やアッシリア人やフェニキア人やヘブライ人、対して文字をもたないインド・ヨーロッパ語族の気質とは水と油。栄枯盛衰は世のならいとわかっていますが当時、数百万人が暮らすメソポタミアをめぐって同じセム語族同士で覇を競い合っているうちに諸国は弱体化していったのです。セム語族のバビロニア人は、イラン高原に南下してきたインド・ヨーロッパ語族のメディア人と手を組んでアッシリアを滅ぼしました。それが未来にどんな結果をもたらすのか、一顧だにしなかった。ちなみにメソポタミアとは2つの川の間を意味します】
世界初の帝国アッシリアの滅びは、セム語族がユーラシア大陸の覇者であることの終わりのはじまりだったしいう。
【セム語族のエラム人はかつてインダス川からアラビア湾を経てメソポタミアに通じる海洋交易ルートを確立し、木材、石材、金属などをメソポタミアにもたらしましたが、イラン高原に住むメディア人にくみし、王都スーサを明け渡しました。スーサは陸上交易を担う要衝の都でしたので、メディアは国力を高めることができました。バクトリア(現アフガニスタン)産のラピスラズリは護符として珍重されたため、メディアは富を手にすることが可能になったのです。エラムには勝れた金属加工職人が多くいましたからね】
約五○年後、メディア人と同じイラン系アーリア人のペルシア人が世界帝国を打ち建てたとき、行政官の長の多くはエラム人が登用された。ただし部下の書記官はほとんどが宦官だったので、属領となったバビロニア人と捕虜のユダヤ人の中から選ばれた。バビロニアは毎年、数百人の美少年をペルシアに献上しなくてはならなかったそうだ。
【ユーラシア大陸の主人は、ダニエルさまの預言どおりにセム語族のバビロニアからインド・ヨーロッパ語族のペルシアに移り、その後は、西に移動したアーリア人のギリシア・ローマの時代になり、時を経て欧米列強へと引き継がれ現在に至っているのです。歴史に切れ目はありませんワン】
ルーシーがクシュンとくしゃみをすると、青目は夢から覚めたような表情で同じように静止していた秦野に向き直ると、
「わがメディアは、アッシリアを滅ぼしたのちに、いまでは、東はパルティアからバクトリア、南はエラム、パールサ、西はアララト山のふもとアルメニア、カッパドキアにまでおよんでいる。エジプトやバビロニアをしのぐ領土を有している。リュディア国との戦いに勝利し、ハリュス川を越えれば、上の海(地中海)を支配する海上交通の要衝ティルス(現スール)を掌握し、ユーフラテス川と下の海(ペルシア湾)を占有するバビロニアを凌駕する日も近い」
「そうでございますとも」
秦野はうなずき、声をひそめると、
「ペルシア人にさえ注意を怠らなければ、大望は成就するでしょう」
青目は怪訝な表情になった。
「ペルシア? 下の海沿いにあるパールサのことか? エラムの南東にあるパールサはエラムにも劣る小国にすぎぬ。エラム同様にわが国の服属国でもある」
「いずれ、わかりますわ。少しの時を要しますが、メディアが時代の覇者の一翼をになうことはまちがいありません。バビロニアは滅び、あなたさまの一族がペルシアの初代の王となりましょう」
「そうであるならよろこばしいが……」デイオケスは不安げな表情をした。
一方のわたしは秦野の博識に驚く。
鷲鼻が坂下に止めていた馬を引いてきた。
彼らの馬はいずれも額と胸に赤い防具を着けている。
「無敵を誇った武田の騎馬軍団も、赤そろえだったよなぁ」
ルーシーが唸る。【赤そなえ。物しらずの天使長なんだから】
「揃えてるのに、なんで、備えなんよ?」
【平氏の旗頭の赤は、メディア兵の戦闘着の色が伝わったワン。メディア兵は血の色を隠すために赤い胴着を身につけている。兵士が血を見て、恐怖心にかられないように備えるためですワン】
「へぇ……ということは、戦場の夢か……」
【彼ら2人は、北上してくるかもしれないエジプト軍の動静を探っているのです。リュディアとエジプトと、それにフェニキア(現レバノン)の都市国家ティルスやシドンやビブロスが手を結べば、バビロニアはもちろん、メディアも現状を維持できません】
「そこの宦官、パンとチーズと干した果実を分け与える」と青目が言った。「その刺青は、他の宦官と区別するためのものか?」
ルーシーがふたたび頭を8を横向きに振った。無限大の記号なのだという。
メディア人の主従は動きを停止したが、秦野は楽しげに、「赤ん坊のときにぃ、チョン切られたせいでぇ、ミカエルは男でも女でもない宦官なのよぉ~」とうそぶいた。
「男でも女でもないって、どういうことだよ?」
「教えてあげてもいいけどぉ、どうしようかしらん。うふっ。自分のことなのにぃ、ほんとうのぉ、自分を知らないなんてぇ、かわいそうぉ~」
わたしと秦野が話している間、メディア人の主従は身じろぎひとつしない。
【必要に応じて数秒、ながくて数分、時を止められるワン】
「ええっ!」と声をあげ、「だったら、さっき襲われたとき、なんで――」
秦野は自分の発した言葉で、わたしが騒いでいると思いこみ、
「ミカエルはねぇ、両性具有者としてぇ、産まれたのぉ。ミカエルのママはぁ、ショックを受けてぇ、赤ん坊だったぁ、ミカエルの性器をハサミでぇ、切っちゃったのぉ。こわ~い、こわ~い」
「両棲類のアオガエルじゃなくて、人間の両性類だったのか……だから生理がないのか。生まれたときから二股の人生だったわけだ」
「アリィといっしょにくればぁ、なんでも思い通りになるわぁ。言ったわよね、イスラエルの石があればぁ、神さまより先にこの世界を壊すことだってぇ、できるのよぉ。たのしくな~い?」
「そんなことのぞんでねぇし……どーせぜんぶ夢なんだし……ぐじゃぐじゃ、うっとおしいんだよ」
気づくと、カッターナイフを手にしていた。自分が何をするつもりなのか、わからなかった。ルーシーがくしゃみをした。ストップモーションのかかっていたメディア人の2人が動き出した。ナイフを手にしたわたしに気づいたヤディは素早く矢をつがえた。
「おまえは、女主人に歯向かうのかっ」と彼は言った。
【サマリア王に仕える者だと名乗れーっ】ルーシーは口を開けずに唸る。【言わないと、咬み殺す!】
「宦官じゃない。サマリア王の家来だぁっ」と怒鳴った。
ヤディは「ああっ」と叫び、矢を置き、兜を脱ぎすて、「デイオケスさま、この者をお許しください」と地面に平伏し、立ち上がるやいなやわたしの足もとに駆け寄り、胴着の袖を引き裂いた。
「わたしはいま希望を見ました! あなたはサマリア王国を再興されるために来られたのですか? われわれイスラエルの民はヤコブの名にちなみ、〝神と戦う民〟です。〝称賛の民〟と自惚れるユダの民がなんと言おうと、ヤコブの定めたエフライムの王こそが王位を継ぐべきお方なのです。スメラミコトはいずこに? お目にかかれるのなら、この命も惜しくありません!」
【スメラミコトは、ヘブライ語の方言で、サマリアの王をさすワン】とルーシーは吠える。【ヤディの出身母体であるガド部族は、エフライム族の長(おさ)とともに東の果ての国を治めているといえば納得しますワン】
「信じるかなぁ」
【かつて天皇はミカドと呼ばれていましたよね。このことから、ミカドとは、ミ・ガドでガド族出身を意味すると言う人たちもいるんです】
ルーシーの言ったことを適当に伝えると、ヤディは前髪を引き抜き、地面に頭を打ちつけて号泣した。
それを目にしたデイオケスはうなずき、「おまえに救われた命だ。借りは返そう」
ヤディは、額から血をしたたらせながら、「アーメン! ヤハウェがそのようにしてくださるように」と言って涙を流した。ヤディはもっと話したがったが、主人にとっては興味のない話のようだ。
「ユダヤ人がアーメンっていうのも意外な気がする」
【アーメンとはヘブライ語で、真実である、忠実である、疑念はなないという意味ですワン】ルーシーはワニ口をわずかにあけてささやいた。【ユダヤ人の先祖アブラハムが長子の権利を与えたのがヨセフで、その子のエフライムの末裔が天皇家になり、兄のマナセの末裔が藤原家になったと一部の人の間でまことしかやかにささやかれています。はっきりしたことはだれもわからないんですから、なんとでも言えます】
デイオケスは栗毛の馬にひらりとまたがり、
「ここはエルサレムの南方の町、ペテズルに近い。目の下の街道を南に下れば緑樹に囲まれた町ヘブロンに至る。さらに南に下れば水源に恵まれた南端の町ベエル・シェバに行きつくが、すでに掠奪されているだろう。防壁のあるヘブロンとエルサレムは篭城しているが、門をひらくのもまもなくだ。美しき女主人よ。異形のしもべに気をつけられよ」
「近いうちにお目にかかれますわぁ」
2人は馬に鞭を入れると、黒ずんだ道を南へ向かった。見る見るうちに褐色の砂漠と草原のはざまにかき消えた。
「砂漠と岩の山ばかりじゃないんだ」
【この道は、イスラエルがもっとも繁栄した時代にソロモン王によって敷かれました。聖都に通じる主要な街道を黒い石で舗装したのです。人びとは〝王の大路〟と呼び、讃えました】
針山のような金冠頭を指先で弾いてみる。キンカンコンと「のど自慢」のときに鳴る音がする。砂埃のくっついたまつげをこすり、目を見開く。なんと壮大な景色だろう。しかし視線を村落の広場に移すと、死体がそこかしこに転がっている。大人と子どもの区別はつくが、獣や鳥に食い散らかされたのだろう、大半は骨しか残っていない。夢だと自分に言い聞かせる。
「地平線が見えるじゃん!」
大木が一本。アカシヤの木だそうだ。団子のような丘には木々が茂り、砂漠の海に漂う緑の小島のように見える。ぶどうの木だそうだ。陰影のある盆栽の世界から何事があっても見咎められない果てしない世界に意識がとんだような気がする。
「わおおぉーっ」と声をあげる。「『パルプ・フィクション』のワンシーンをやってみっか」
拳銃のかわりに、右手の親指を立てて、人差し指と中指を突き出し、薬指と小指は折り曲げる。右腕をルーシーにむかって思いっきりのばし、
「ズキューン、ズキューン、ズキューン」と殺し屋になった気分で言うと、ギャワン、ギャワンとルーシーが鳴いて倒れた。ついでに砂漠にむかって、同じ動作を繰り返した。
【満足しましたか?】
聖書の一説が口をついて出る。「荒野で呼ばわる声がする、主の道を整えよ、その道筋を……えーと、あとは忘れた」
爺サンに聖書を押しつけられたとき、ハラパラめくり、ふと目に止まった箇所の1節だった。
【まっすぐにせよ!】ルーシーは唸り声を張り上げる。【この世界にも法律と刑罰はありますが、人道に対する罪などはありません。支配者に弱者救済の思想はあっても、自国の民に対してであって、いくさの相手となる国の人間の生命は家畜以下の扱いになります。犯され、殺されても農民や牧羊者はあらがえません。さらわれる人たちは命があっただけ幸運なのです。先に言っておきますが、わたしの手助けがなければ、この世界であなたが生きのびることは困難です。即座核と扁桃体に異常があるせいで、どのような行動とるのかさえ予測不可能なんですから使命が果たせない。グゥワン】
「そんな話、頭が受けつけん」と言ったあと、白蛇女は、1度目は停止したが、2度目は動いたのはなぜか、訊いた。
【彼女は魔界の住人だから適応力があるのですワン】
泥煉瓦で作られているという平屋根の集落を離れ、根かぶの残った階段状の丘をくだる。大麦を刈り取ったあとだという。無花果の木や家畜のための囲いも散見できる。鳥の鳴き声に足が止まる。
【岩シャコは隠れることが上手な鳥です。卵は食べられるのですが見つからないでしょう。バビロニア軍の傭兵は糧食を補うために、脱穀した大麦や羊や山羊やオリーブオイルを奪っていったのです。ついでに村人も殺害したようです。徴兵された属国の兵士に罪悪感はありません。自分たちも強国の兵士らに同じ目にあってきたからです。掠奪と暴行は文明の進化とかかわりないのです】
焼き払われた小屋が目に入った。土塀は残っていたが、足元に短めの矢で額を射られた死体と首のない胴体とひげもじゃの頭が転がっている。ひょっとしなくても、わたしの脳ミソは活動することなく破壊されてしまったのか? わたしはすでに死んでいるのか!
この生首は、わたし自身なのか。いやいや、もしかすると、『パルプ・フィクション』の主人公のように、生前のわたしがひげもじゃのオジサンを殺したのか?
【彼らの会話から察すると、ベドウィンと争ったとき、デイオケスは命の危険にさらされた。ヤディがベドウィンのハッハッハックシュン、背後にまわり、鋭利な鋼でハッハックックッシュン、首を切断した。グスン。矢を射たのもヤディ……ほっ、ほっ、砂埃のせいで……くしゃみが……】
井戸がある!
村人らしき死体が横たわるすぐそばに、桶の代わりに革袋を半分に切ったものが2本の木のつるべに結び着けられていた。もしかすると、この井戸と家の井戸とがつながっているのかもしれない。はやる心でつるべを動かし、ひげもじゃのオジサンの焼け焦げた棍棒を投げ入れる。
水を跳ねる音のかわりに何かにぶつかる物音が返ってきた。かなり深そうだ。夢だと思っても、この井戸に飛びこむ勇気がでない。
死体が投げこまれているとルーシーが言ったからだ。
足元の地面にはどす黒い血痕。
養父母に抱いた殺意がこのような残酷な夢を見させるのか?
【ののののど飴を、を、を……さっき、上着のポケットに入れたワン】
爺サンから盗んだのど飴をやると、ルーシーは一気呵成にしゃべった。
【ユダ王国の46あるおもな町や砦や近隣の村々を、バビロニア軍はユダ王国と国境を接し、長年、争ってきた土着民のモアブ人やエドム人の傭兵部隊を使って掠奪の限りを尽くしたのです。部隊の中には、ヨルダン川の東に住むモアブ人の1部族となったガド族の子孫も混ざっています。ヤディのように、一族がメディアで奴隷となり、敵方の貴族に仕えている者たちもいます。イザヤの預言では、北のイスラエル王国の精神的支柱であるエフライム族は『微塵に砕かれる』と7章8節に記されています。捕虜となったのちに生き残ったイスラエルの民の多くは、サマリアの王族が死に絶えたと思っています。そうではないことを知ったヤディはメディアに住む同族に伝えるでしょう。エフライム族を筆頭にカド族や他の部族が生存していると知れば、どれほど安堵するでしょう。そのような記述の書き物が記されるはずです。現代では、それらを〝外典〟あるいは〝偽典〟と呼んでいます。話しているわたしでさえ、事実かどうかわかっていないのですから、話半分に聞いてください。ユーラシア大陸のどの国のどの部族の長が、大和の国の支配者となったのかは、タイムスリップでもしないかぎり、わかりません。先住民の出雲族と渡来人の日向族が戦ったことは史実ですが】
「もしかしたら」と思いつく。「半死半生の重傷を負って、遠くの病院へ送られたのかも。そこで意識のない状態でいるのかも」
独り言をつぶやくと、ルーシーは前足で地面をかき、後足で砂をけり、わ~おん、わ~おんと情けない声で吠える。
【ああ、シオンの娘よ、あなたの不義の罰は終わらないのかーっ!】
「シオンの娘か……ユダヤ人って、言い回しがしゃれてるな」
【意識だけが時間移動する場合はタイムトリップと言いますが、あなたは肉体をともって過去へタイムスリップしたのです】
ルーシーはそう言って吊り目を彼方にやり、キュンキュンと啼き、ズゥズゥッと鼻水をすすった。
【シオンとはエルサレムの古い名をさし、娘とは、エルサレムの美しさを形容すると同時に他国の神へ秋波を送ることを意味しています。ああっ、シオンの娘よーっ】
養父は、大脳の海馬は空間記憶能力があると言っていた。これがバーチャルの世界と仮定するなら、
「井戸に落ちたときの怪我がもとで、海馬だけが機能しているのかもしれん」
【Crazy! バビロニア軍が聖なる都を包囲し、高貴な人びとを拉致しようとしているのですよ! すべて神のご意志とはいえ、あなたは使命を果たすために神に選ばれたのです】
「イスラエルやらメディアやらバビロニアやら、話半分にしても、なんかコーフンするなぁ」
【新バビロニア帝国はカルデア人の建てた国で、現在のイラクにあたる古代王国です】
「新がついていても、なぜか古代王国……」
【現在のイラクの首都バクダッドの南90㌔、ユーフラテス川の河畔に王都バビロンがありました。シュメル語でバビロンは〝神の門〟という意味です。十六葉菊花紋のある釉彩煉瓦で築かれた青い〝イシュタルの門〟をはじめとして、2列の城壁の内側は厚さが約6㍍あり、外側の城壁のすぐそばには、海上交易のためのモルタルで固定された埠頭が併設されていました。インダス川流域からはトルコ石やルビーが、ペルシア湾からは真珠と貝が、アラビア人の商人によって運ばれていたのです。バルサム油や各種香料ももたらされていました】
「爺サンは、大いなるバビロンはかならず倒れるって言ってたけどなぁ」
【グワァン! この時代のバビロンは現代のニューヨークやロンドン、パリと比べても遜色のない世界一の都市だったのです】
黒ずんだ色の砂利道のずっとずぅーと先に岩の山の間の小山というか、高い丘というか、断崖絶壁のような場所に建てられた白っぽい建造物が米粒ほどの大きさで見える。
【聖なる都エルサレムです。なんど見ても胸がうち震えます】
ここからわずか12㌔先に聖都はあるとルーシーは鳴き喚きながら訴える。
【エルサレム、ベツレヘム、エタム、ペテズル、そしてメギドはユダの背骨であり、北へ至る重要な道路なのです。わたしたちがいま立っているのは、その道なのです!】
「この道の先に、メギドがあるのか……」
【『すべてのひざはわが前にかがみ、すべての舌は誓いをたてる』イザヤ書45章23節です。あなたはいまここで、課せられた使命を果たすと誓わなくてはならないのです】
「爺サンと婆サンが死んだとしたら、意識不明のわたしが、わたしであることを証明してくれる人がおらんことになる。そのうえ昏睡状態ままだとしたら、意識と無意識の世界に分離してる『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の主人公みたいに、意識の自分が死ぬと、無意識の自分が迷宮のような世界で彷徨うことになる。道づれが赤犬とはサイアク。もしかして、あんたが母親――それはないなぁ。馬ヅラと爬虫類ヅラでは違いすぎる」
【ユングのいう無意識下をイメージの再認だと思っているのでしたら、無意味ですからね。わたしは、あなたの心の中の女性イメージではありませんし、『光あれ』という第1章1節を意識の出現ととらえる学説を証明するために旧約聖書がリュックに入っているわけでもありません。メディア人の若者を見て神武東征をイメージしたからといって、人間の心が意識と無意識によって構成されていると断定しないでください。この状況を心の発達過程だと思ってもらってはなお困ります。表象は心象に一致など致しませんワン】
ペラペラしゃべるルーシーを見ていると一層、この世界が現実のものとは思えなくなる。「こんなに鮮明でロングバージョンの夢は、はじめてだけどさ。目が覚めるのがもったい気分になる。オールカラーで360度、見渡せるんだもん。岩山の下にパノラマが広がってるみたいじゃん。思わん? 思うよなぁ」
【油そそがれし者エホヤキン王と、預言者ダニエルさまをお助けするまでは神の戸口、つまり、霊的存在のパワーで開かれたゲートは使命を果たし終えるまで開きません。念のために一応、言っておきます。ここは紀元前6世紀のイスラエルです。この時代では、ユダ王国と呼ばれていました。首都は昔も今もエルサレムです】
「霊的存在って、まさかなぁ」
【グゥフフフン。天空を支配する全能のお方ですワン】
「ついでに訊くんだけどさ。どうして、オタクのわたしの助けが要るわけ? ユダヤ人は世界一、有能だと言われてるのに」
【彼らが有能で聡明であることは昔も今も変わりません】
ルーシーはうつむき加減に言った。
【神に選ばれし民であるから苦難に見舞われるのです。こののち聖都を追われ〝離散の民〟となった彼らは自ら望んで宦官になり、バビロニアの中枢に登用されます。彼らが有能であるがゆえに、バビロニアは滅びの道をたどります】
古代において、中国と中東の王朝では、宦官が存在した。後宮(ハーレム)に仕える男たちの性器を切除したのが、はじまりだったという。
【王の血統を守るための措置だったのです。他国から戦利品として連れてこられたり、服属国から献上された少年が大半だった宦官は、次第に宮廷内で力をもつようになりました。そしていつしか陰謀をめぐらすように……。アッシリアのニネヴェの宮廷は、名君アッシュル・バニパル王の後継者となる王子たちとその母親たちに取り入る宦官によってずたずたにされました】
「どうなったわけ?」
【宦官らは王の側近となり、王の名のもとに行政官を意のままに操ったのです。彼らに逆らえるのは、王都を護る襲撃隊だけでしたが、宦官長が軍の司令官の1人でしたので、アッシリアは内部から滅んだとも言えます。強国の多くは国内の乱れで滅ぶのです】
「アッシリアなぁ、爺サンが軍事強国の話をしてなぁ。大昔に聞いたような気がするのは、ここが現実でむこうが夢かもしれんな」
【いまさら何を言いだすかと思ったら……】
「この夢もだれかの陰謀かもしれん」
災いの元凶は龍踊文字だった気がしてならない。〝セイヤ〟の意味をルーシーにきく。〝聖なる矢〟のことだとルーシーはつぶやく。不快感がどっと押し寄せてくる。ふたたび怒りが沸騰した。両棲類のわたしはどちらかというと、冷血漢の部類に属するので新たな感情の露出にとまどう。秦野は、あの怪しげな絵柄の紙に、呪いをかけたにちがいない。聖なる矢に射られ、海馬が壊れたのか!
「白蛇女め、いつか、落とし前はつけてやるぜぃ!」
「わたしのことぉ、呼んだぁ~?」
白蛇女は背後霊か!
【彼女が消えていたのは、あなたの意識が意図的に削除したせいです】
「そんな器用なことが、このわたしにできるのか」
【いまは偶然に、その力が働いたと思ってください】
ふたたび目の前に現われた秦野は形のいい眉をしかめながら、
「むさくるしい男の子たちってぞっとするわよねぇ。空気がよどむ気がしなーい?」
と言い、わたしの折畳み傘をさす。
「アリィはぁ、がさつな男子もだけど紳士気取りの男がいちばん、ヤなのぉ」
「父親のことを言っているのか?」
「ちがうわぁ。いま会った態度の大きい方のやつのことよぉ。だからぁ、百均の数珠をあげたのぉ。そしたらぁ、本物のラピスラズリをもらっちゃったわぁ~。うふふふ」
その場に応じて話し方を変えられる、彼女のペースに巻き込まれないように、
「なんでわたしの傘をかってにさすんだよ」
「日焼けがヤなのぉ。閉じれば、ヤなやつの目を突き刺せるしぃ」
ルーシーが唸る。【超知能=サバンの持ち主の彼女は危険分子です。関わり合うほどに泥沼に引きずりこまれます。だからといって、戦えば返り討ちにあうのが関の山ですワン。わたしたちは聖なる都にむかいましょう。課せられた使命を果たさなくては!】
わけのわからない使命より、目覚める方法を考えるほうが先だ。座りこみ、セーラムに百円ライターで火を点ける。吸い口を口にもっていく寸前、白蛇女に抜きとられる。いまいましい女だ。
「さっきの話だけどさ、なんで赤ん坊のときのわたしのことを知ってるんだよ」
「ミカエルが死んだってぇ、みーんなが決めつけるからぁ、調べたのぉ。行方不明のミカエルを捜すようにぃ興信所にたのんだのよぉ。そしたらぁ~びっくりぃ。見つけられないかわりにぃ、ミカエルの過去を教えてくれたのぉ。お年玉、ぜーんぶ使ってしまったんだからぁ。それが、パパに見つかっちゃってぇ……」
秦野はこっちにむかって、ぷわーっと煙を吐く。
「プラスチックの箱に入れられて、淀川を流れていた話は爺サンのつくり話か……ほんとの名前はなんだったんだろ」
白蛇女はセーラムをわたしに返し、
「エ、ミ、カ、オ、ルよ。この名前からぁ、淀美伽廻留になってぇ、弓月美伽廻留になったわけぇ」と言った。そして、
「母親に殺されかけた江見馨の命を救ったのがぁ、亡くなったおじさまよぉ」
「ヘンだと思ってたんだよ。淀川だったら、大阪の養護施設にいなきゃ、おかしいもんな。だから記憶のはじまりが、淡路島の養護施設だったんだ。そこから転々としたけどさ」
生理がないと、養母は知りながらナプキンを毎月、買っていたのだ。わたしが、捨てていることも知っていた……。そして、わたしの氏素性も。だから「お里がしれる」と言ったのだ。どんな女が母親なのだろう。まさかコマさんではないだろうな……?
「どお? ショックでしょ?」
ルーシーを振りむくと以心伝心。ルーシーが頭を振ったとたんに、体中の空気が抜けたように秦野がその場にうずくまる。
「物知りのルーシーちゃんは、出生の秘密を知ってるよな? どこにわたしの親がいるのか?」
【知っているとも言えるし、知らないとも言えるし……】
「白状するまで、エルサレムにはいかん!」
【困りましたねぇ。しかたないでしょう。いずれわかることですから。あなたを出産したときの母親の名は江見直美。その後、秦野直美になり、秦野亜利寿の母親となりましたが――彼女と母親に血縁関係はありません】
「どうゆーこと?」
【あなたと彼女は姉妹であって、姉妹ではありません。これ以上の情報は下級天使のわたしの知るところではありませんので、あしからず】
うつむきかげんにじっとうずくまっていた秦野は、ふいに顔を上げた。
【サバン・秦野は、聞きたくない話を事前に察知する能力があります。とくに両親の話は彼女にとって堪え難いのです】
秦野は立ち上がり、折畳み傘をくるくる回して、景色に見惚れている様子だったが、何を思ったのか、くるりと振りむき、
「ちょっと訊くんけどぉ、ミカエルの頭の毛ぇ、ぶつかると、どうしてぇ、棍棒が燃えるわけぇ? 太陽光発電で動く金色のクラゲかなんかでぇ、毛ができてるのかしらん?」
秦野はわたしの髪の先に手のひらを当ててみる。
「あっらぁ! やわらかーい。やっぱ金色のクラゲかもぉ」
秦野の手を振りはらい、立ち上がった。待っていたように、ルーシーは前足をわたしのひざにかけた。
【あなたの髪は黄金と銀の自然合金エレクトラム、琥珀金の一種でできています。通常、エレクトラムは熱に弱いのですが、これは地上のものではありませんので、あなたが危険を感じたとき、思考が熱化し、分子スピン運動を起こし、物質を焼き尽くすのです。ちなみに、デイオケスの従者ヤディの兜と鎧は青銅製ですワン】
「ヤディの鎧は鉄じゃなかったのか?」
【銅と錫の合金です。ブロンズ像とよくいいますよね、アレです。この時代は、すでに鉄が精製されていますが、兵士全員に鉄製の武具が備えられていません。国によっては柳の木で作った盾さえありました。多くの場合、武具は、兵士個々人で備えなくてはならなかったのです。だから彼は鉄線の武器を所持していたワン】
「この時代って、いつの時代よ」
【さっき説明したばかりじゃないですか。もう忘れたのですかーっ】
「なんでぇ、犬とばっかり、お話するのぉ! アリィ、プンプン。この犬を殺してあげるわぁ~」
ルーシーは突然、舌をベロリと出し、荒い息をしはじめた。どうしたのかとひざを折って、のぞきこむと、ルーシーはクンクンと鼻を鳴らし、わたしの顔をペロペロなめながら、生命の危機が迫っているとささやく。首を横向きの8に振るように言うと、秦野が自分の周囲に電磁波シールドを張りめぐらしたのでできないと言う。
「ほんとは、ぜーんぶ、聞こえてるのよ。バカ犬!」
秦野は、傘を閉じると、いきなり、ルーシーの頭を叩いた。ルーシーは瀕死の重傷を負ったような悲鳴をあげた。
「無抵抗の犬を殴るなんて、サイテーじゃん」
「だってぇ、ワンワンワン、うるさいのぉ。ミカエルがベタベタあやすからぁ、つけあがってぇ、よけいにぃ、吠えるのよぉ」
「じゃあさ、あんたはあんたの行きたい方角に行けばいいじゃん。わたしは犬といっしょに行動するからさ」と言葉で削除する。
「ほんとにぃ、それでいいのねぇ。友達にぃ、なってあげてもいいと思ってたのにぃ。ミカエルを探してここまできたのにぃ。あとでぇ後悔することになってもぉ、遅いんだからぁ~」
秦野はハンドバッグから白いハンカチを取り出し、目に当てる。わたしは、泣くなよと言いつつ、口の開いたハンドバッグに指を忍びこませながら、
「生きものの生存を許さないような褐色の砂の海を目のあたりにすると、自分をひと粒の砂より小さく感じてしまうんだよね。それにさ、あんたに、自分の悲惨な過去を教えてもらって、なんつーか、独りになりたいわけよ」
彼女の肩を、もう一方の余った手で、ぎゅっと肩をつかみ、
「黒い道と砂漠が、視野のつづくかぎり広がっているなんてさ、鰻の寝床のような神戸の景色と比較の対象にならない。だからさぁ、このさい、お互いに自由になろうよ。バーチャルな世界なんだしさ」
秦野は緑目に涙をためてにらむ。
「いいのねぇ、それでぇ。困るのはぁ、中途半端なミカエルなのよぉ。アリィはねぇ、超宇宙ではなんでも自由に選べる身分なのよ」
「だったら、この夢から覚めるようにしてよ」
「それはムリ。アリィがぁ、してあげられることはぁ、蛇皮のベルトの代わりになるネクタイをあげることくらい」
秦野はハンドバッグの中から、見覚えのあるネクタイを引っ張り出すと、魔女らしい尖った爪で引き裂き、紐をつくった。
「すぐにぃ、アリィにひざまずく日がくるわぁ。かわいそうなミカエル。赤犬と煉獄行きになればいいのよぉ。2度とミカエルのために泣かなーい! お別れにパパのネクタイをあげるわぁ」
言ったとたん、バットマンが乗るような黒塗りのオープンカーが砂漠の彼方からに現われた。運転席には、手袋をした黒ずくめの男性が乗っている。男は降りてくると、秦野から傘とコートを受け取り、助手席のドアを開けた。そして、色のない仮面のような、しみひとつない顔を彼女にむけ、「納得したか」とくぐもった声で言った。
秦野は、わたしに背を向け、車に乗りこんだ。2人を乗せた車はエンジン音を立てず、砂煙もあげずに瞬時に消えた。
「運転してた男、ツルツルの顔でロボットみたいやな」
【変装シールドをまとっている、複製人間です】
「だれの複製かわからんけど、これで秦野も寂しくない」
毛嫌いしていた秦野が夢の中に出てくる時点で、これまでの生活がいかに愛のない不毛な人生だったかを、思い知らされる。実の親の顔を知らないのだから、夢の中でさえ思い浮かばないのだ。ふと隣のルーシーを見ると、凍ったように固まっている。
どうしたのか聞いたとたん、一瞬であたりが霧につつまれる。薄物をまとった女性が、焼け落ちた家から出てきた。髪は乱れ、裸足だったが、怪我はしていないようだ。秦野を越える美女を、映像以外で見たことがなかった。絶世の美女という形容に価する女性が存在するのだ知り、目を見張った。
女性は手に何か持ち、「子どもが……、子どもが……」とつぶやき、わたしやルーシーのそばを通り過ぎた。見えていないようだ。かける言葉が見つからない。
「秦野はここは低次元の超宇宙とか言ってたよな?」
【超宇宙はメタ・ユニバースと言います。ここが、あなたの考えている三次元の仮想空間だったら彼女はメタバースと言ったはずですよ】
わたしは女性を指差し、
「あのひとはどうして、わたしたちと目が合わないんだろ……?」
【彼女は異次元の超宇宙をさすらっているのです】
「どこへ行くつもり……」
【取り返しのつかないことをしてしまったので、自らを戒めるために荒野をさすらうしかないのです】
素足の女性は霧の中へ消えていく。
【彼女の見えている世界とわたしたちの目にしている世界は異なっています。ほんの一瞬、次元が重なりあうことがあるのです】
「こっちは見えるのに、あのひとから何も見えないなんて、かわいそうに……」
【あなたらしくない言葉ですね。ついさっき、あなたは言いましたよね。自分には関係ないと】ルーシーの声は悲しげだった。
「わたしが何かしたからって、何かが変わるなんて思えん」
【紀元前597年、ユダ王国、エホヤキン王の治世第2年のことです。このときのことを、第1回のバビロン捕囚といいます】
「ダニエル書の書き出しは、ユダの王、エホヤキム王治世の第3年にバビロニアの王が攻めこんで、ダニエルが捕らえられたことに――」
ルーシーは鼻の頭にしわを寄せた。【前年の紀元前598年に、ネブカドネザル王の軍によって父王のエホヤキンが処刑され、長子のエホヤキンは王位を引き継いだのです。何か問題でも?】
「ヒラとはいえ、天使だったら、聖書の記述と食い違うのは、どうかと思うけど」
ルーシーは、ウフーッフーと鼻息も荒く、【Shut up! 標高約750㍍のエルサレムは、この時代の首都の中でもっとも高い場所にありました。そのうえ三方を、壁面のけわしい渓谷が囲み、自然の要塞線になっています。エルサレムはそう簡単には落とせません。裏切り者がいれば別ですが――城門が破られる前になんとか――】
「バビロニア軍に包囲される前の時間にもどしたらどーよ」
ルーシーは耳をピンとたてると、ちゅるんと舌打ちをし、
【繰り返します。わたしたちは西暦1995年1月17日の神戸から紀元前597年第1の月の17日にですね、GLWZ=ゴッドランド・ホワイト・ゾーン、通称、天界です。そこの本部総括管理官の指令で派遣されたわけです。したがって、紀元前597年第1の月の17日より以前に起きた出来事を変えることはできません】
「第1の月?」
【第1の月は、ニサンの月とも言います。太陽暦でいうと、ヨルダン川が増水する3月の中旬頃になります】
「第1の月ということはこっちもお正月なわけ?」
【まあ、そうです。ユダヤ人は第1の月の14日を、エジプトでの災厄を忘れないために〝過ぎ越しの日〟と呼んで祝っています】
砂埃のまう地面にふたたびすわり、指で筆算開始。597に1995を足すと、2592になる。
【第1回目のバビロン捕囚は2度にわたっています。1度目は前年の紀元前598年の第10の月、雨期の終わるテベテの月からはじまりました。先の王エホヤキム王の治世第12年のことです。そのときは、王をのぞく貴族や廷臣をふくめて、3千人余の人びとがバビロンに連行されました。エホヤキム王の外交政策の失敗のせいです】
ルーシーの解説はとどまることを知らない。
【バビロニアのネブカドネザル王自らが率いる軍に包囲される事態を前王エホヤキム王は自ら招きました。戦端がひらかれる前に、秘密裏に同盟を結んだエジプトから援軍がやってくると期待したのです。さらに愚かなことに、ネブカドネザル王の要求をのめば危害を加えられないと判断し、城門を開けたのです。ネブカドネザル王は市中に入ると、エホヤキム王と戦士らを捕らえて処刑しました。そのうえで、亡き王の長子であるエコニヤに油そそぎの儀式を行い、エホヤキンと改名させて王位につけたのです。現代の国際社会でもしばしば目にする、傀儡政権です】
「で――それが、何か?」
【いくらなんでも、狼人間だったという伝説をもつネブカドネザル2世王くらいは知ってますよね?】
「狼と人間のハーフということは、吸血鬼になるのかぁ」
【バベルの塔や空中庭園も知らないのですか?】
「『天空の城ラピュタ』。観るたびに感動するわ」
【アホめ。ヨセフスの『ユダヤ古代誌』によると、ネブカドネザル王はエホヤキム王の遺体を杭に架け、民への見せしめにしたのち、城壁の外に投げ捨てさせたのです。その日から、年は越しましたが、わずか3カ月しか経っていません!】
「狼の王サンの気分は変わりやすい」
グゥッホンと、ルーシーは咳払いをし、
【政治的な意味においては、今回のエホヤキン王の捕囚でユダ王国は終焉を迎えると言ってもいいでしょう。現時点から11年後の紀元前586年に2回目の捕囚があり、その5年後の紀元前581年に3回目があり、ユダの民の大半はバビロニア南部に強制移住させられます】
これらを総じてバビロン捕囚というらしい。
【わたしたちは恐怖と混乱の中から、エホヤキン王とダニエルさまとをすみやかにバビロニア軍に引き渡さなくてはなりません。そうしなければ、お2人は、命を失いかねません!】
「狼人間の王サンに噛みつかれたら、吸血鬼やゾンビみたいに感染するのかもしれん。アオガエルのままでいたい」
かゆいので、頭をかきむしろうとして、手を止める。
「夢を見ている間中、この頭なのかなぁ? どうやって寝るのかな?」
【あなたがいうように夢なら眠っているわけですから、眠る必要はないことになりませんか】
「おまえさ、仲間をへこまして、たのしいのかよ」
犬も笑うのか、突き出た口の口尻をさらに後ろに引いて、前歯を見せた。
「カッターナイフが、ライトセーバーってことはないよな?」
【あなたの殺戮願望は、天界のエネルギー開発研究局において却下されました。したがって、カッターナイフの発するビームに人を殺害するパワーはありません。マイクロ波レーダーくらいのパワーしかないのですよ】
「さっき、物質を焼き尽くすって言ったじゃん」
ルーシーは黒い鼻をひくひくさせて、
【物質には強いのですが、人間には弱い武器なのです。なんといっても、平和の君のアイデアで創られたgentle weaponですからね】
「ジュダイの騎士にはなれんわけか……」
【Don’t wrroy。あなたは神に選ばれし者】
ルーシーは上目づかいになると、天界の本部統括管理官が前もって桶の下に隠してある壷を持ってこいと言う。屋内に駈け戻り、渾身の力で桶を押すと地面に隠し戸があり、引き開けると、ひょうたんに似たかたちの小さな壷が見つかった。追ってきたルーシーは〝秘跡の油〟を額の青あざにたらせという。木の栓で密封された壷の口をこじ開ける。ルーシーは尻尾の先をブンブンふった。手がすべり壷を落とした。
壷は真っ二つに。
【粗忽者のバカ天使め。パワーを出すのに必須のそそぎ油を失ったではありませんかっ。これで役目の遂行がさらに困難に。ウッー、慚愧に耐えないワン】
しかたなく――
いっしょに坂下の道にもどると、前カゴと荷台のついた自転車が目の前にある。ただし、木製。
【古くは、魔法使いの女神メディアが天駈けるさいに使用した由緒ある自転二輪車です】
「ドラえもんだったら、バイクを出せるのになぁ」
【ドラ焼き好きの耳なし猫と同類にしないでください】グゥワンとルーシーは吠えた。【ドラえもんは禁句=tabooとします。嗅覚と聴覚は、ドラえもんよりわたしのほうがはるかにgreat。つけ加えますと、犬種にもよりますが、キャンキャン鳴く欧米の小型犬はアホですが、わたしのように日本犬のMIXは長寿の上に聡明なのです。お利口さんといわれて喜ぶほど愚かではありません。Watch your language】
夢の中に登場する犬は、コンプレックスを体現して英語まじりの日本語をしゃべるのか?
【愚にもつかない考えはこのさい、削除すべきです。再度、言いますが、リンク先だから思考が伝播するのです。せめて、そそぎ油があれば……少しは状況を改善できたのに……グゥワン】
「意識下のわたしは賢いのかもしれん」
ルーシーは咳払いをし、【ユングによれば、セルフと名づけた自己は意識化されない無意識だそうですが、それは経験的なものであって自然科学的なものではないのです。心理学とは神話を構成しなおし、こぼれ落ちた感情をイメージ化し、言語化した学問です】
「それと木の自転車とどんな関係が?」
【木材は貴重品でした。ソロモン王はフェニキアに献上させました。奴隷より価値があったのです。その時、伐採しすぎたせいで、いまのレバノンは、はげ山がほとんどです】
「目の前のものと、欲しいものとが、劇的にズレてんだけどさ」
【I think not】
「バイクと木の自転車とじゃあ、犬と狐、ライオンと猫くらいの違いがあるじゃん」
ルーシーは片方の耳を方向指示器のように自転車に向けた。
【環境にやさしい自転二輪車のほうが犬のように忠実で、鼠のように小回りがきくということですね。感謝にはおよびません】
「都合よく、解釈するんだ。木の車輪の自転車に乗ると、ぶっ倒れて夢から覚めるわけ?」
と言いつつ、丸みを帯びた木製の自転車に見覚えがあった。生まれてはじめて手にしたおもちゃだった気がする。
ルーシーは上目遣いになると、首まわりを後ろ脚でガリガリかくと、首輪を外してくれと言った。
【わたしの脳細胞はレベル4なので、空間と社会と時間に加えて世界の中心である聖域を認識できるのです。したがって、不可知論や懐疑主義に陥ることはありません。永遠、不朽、つまり時間的生成を越えた霊的存在。わかりやすく言えば神に仕える者に制限は存在しません。ですから、従属を象徴する首輪は捨てたいのです】
それで無限大の記号の形に頭を振るのかと納得。ルーシーの首輪を自分の首につけることにした。サイズはぴったりだ。ついでに、秦野にもらったネクタイでつくった紐でパンツを固定。
【Oh,very well! 首輪はやはり、あなたのものでした。IDカードにもなりますから大事にしてください。データとプログラムが1つのメモリーに書かれていないあなたを、高水準プログラムのわたしがリードしなくてはなりませんからね】
ルーシーは言ってのけた。
【レベル1は爬虫類の脳です。彼らは温度と自らの位置、つまり空間を意識できます。レベル2は哺乳類の脳です。サル山を見てわかるように温度と空間の他に社会を意識できます。哺乳類のヒト科は、これに時間の概念が加わるのでレベル3です】
「わたしの脳は、どのレベルなんよ?」
【トポロジカルソートに問題があるようですから、ヒト科であってもダメージを受けたせいで爬虫類のレベル1に限りなく近い】
やはり、アオガエルの親戚だったのか。
【シークエンス回路も正常に機能していませんしね】
「シークエンス回路ってなんよ?」
【制御部です】
「制御部って?」
【シークエンス回路です】
堂堂巡りで話にならない。
【『蛇のように賢く、鳩のように素直であれ』。マタイ10章11節です。わたしは自転二輪車の後ろに乗りますから、しっかり運転してくださいよ】
「どうやって、荷台に乗せんだよ」
【背負うのに便利なものを用意しなくてはなりませんね。リュックは、木の枝で編んだ前カゴに入れてください】
「ひょっとして、わたしが、おまえ、いえ、あんたをおんぶするわけ?!」
【Why? 何か問題でもあるでしょうか? たとえば、陥落間近のこの国の法律に違反するとか?】
「どーせ、夢なんだから、なんでもやりますよ。犬であろうと、猫であろうと、背負えばいいんだよな」
【猫はダメです! 人間に媚びるときの鳴き声にぞっとします】
「かわいいけどなぁ」
【古代のエジプトでは、猫は神であり、人々から崇拝されていました。口惜しいですが、女神と謳われた猫などは死後、ミイラにされたほどです。ぐるぐる巻きにされて、木彫りの顔がくっつけられると思ってください。こけし人形のような格好になるのです】
「犬はしてもらえないの?」
【愛玩用の小型犬はミイラにされました。そのせいで、現存している、犬と猫のミイラの大きさはほぼ同じなんです。なんたる屈辱でしょうかっ!】
ルーシーの目がらんらんと光る。
「なんで怒るかなぁ?」
【穀物倉庫の鼠を駆除するせいで、人間への貢献度がわれわれ犬族より猫族は上位にみなされたのです。ロシアでは、エカテリーナ女王所有の絵画を鼠から守るという名目で、猫は警備官に任命されていたのですっ! ドイツのクソ女め!】
「その頃の、犬の役目はなんだったわけ?」
【羊の番をするか、狩猟のお供です】
ルーシーは前歯をガチガチ鳴らす。
「役職名がないのが悔しいわけか。妬んでるのか。へへへ」
【犬の地位は昔も今も貢献度に比例していません。馬や猫に比べると、銅像や壁画になるパーセンテージも低い。仮に描かれても、龍や獅子と違い、人間に従属して当然の生きものとして描かれています。王族のそばで侍っているアレですよ。はじめて宇宙旅行をしたライカ犬の末路を思うと哀れでなりません。忠告しておきます。さっき、セーラームーンのキメ台詞を白蛇女が言ってましたが、あれも禁句です。キティの名前も耳にしたくありません】
「なんでだよ?」
【額に三日月のある猫からもらったブローチで、月野うさぎは変身します。変身時の『ムーン・プリズム・メークアップ!』の呪文を聞くと、憤怒にかられて猫という猫を抹殺したくなるのです】
「機嫌をなおしなよ。おんぶしてやるからさ」
【Really? 暑熱をさけたいので、頭にターバンを巻いてください。お互いに、砂塵をさけるために口と鼻を隠す必要もあります】
リュックの中からタオルを2枚見つけるが、
「タケノコの皮を斜め切りにしたみたいな耳が、邪魔になるなぁ」
アロンアルファを使えとルーシー。ヘッと驚くわたしに、ルーシーは薄毛の額を隠すターバンを創作するよう要求。なぜかリュックの底にあったアロンアルファを使用。手作りのターバンをルーシーの頭にかぶせる。
ついさっき、秦野のバッグから盗んだ石の入った小袋をターバンの内側に貼りつける。よしよしとほくそ笑み、両耳を外して、帽子の形にルーシーの頭に巻きつけた。
【Okay】ルーシーは頭を縦にふる。【ベストではありませんが、許容範囲内です。ついでに、おんぶラックをお願いします】
布がないというと、おんぶラックという名の背負いひもがリュックの中から出現した。厚手の生地でできていて、ルーシーの背中をすっぽりおおい、四隅に縫い付けてあるひもは背負い手の胸の前でたすきがけになり、腰で結ぶようになっている。ルーシーは前足をわたしの肩にのせ、邪魔になる後ろ足を前方に突き出した。
【さすがにブランド物のおんぶラックです。ゴボテンのあなたが扱っても、なんとかなるものですね】
背負うと、重みで後ろへひっくり返りそうになる。
「『スター・ウォーズ』のR2-D2は自力で歩くのに……」
【義体=サイボーグではありませんからね、あしからず】
なんとか木でできた自転車にまたがるが、後ろのルーシーの重みでギシギシ鳴るハンドルがうまく操作できない。
「下りてよ。押して歩くほうが……」
前に進むべきか、後ろを行くべきか一瞬、迷う。どちらの方角が、夢から覚めるのか? 家へ帰れるのか?
【聖なる都にむかってこそ、新たな展開が生じるのです。使命を果たせるのです】
「新展開なんて、のぞんでないけど、エルサレムは見たい」
【言い忘れましたが、前かごにビザ、ピザではありませんよ。通行証です。入れておきました】
「この時代に、ビザ?」
前かごに手を突っこむ。自転車ごと倒れる。ルーシーは天地がひっくり返るような声でわめく。立ち上がり、手のひらサイズの粘土板を拾う。アルファベットに似た文字がびっしり書かれている。
背中のルーシーはどうでもいい話をやめない。【アラム語です。シュメル人の使っていた楔形文字は商業に適していなかったので、小賢しいアラム人は簡単に書ける文字、アルファベットの原型を考えだしたのです。楔形文字は紀元前1世紀まで使用され――】
「なんて書いてあんだよ?」
【教えてあげてもいいですが、今後、わたしの人権を尊重し、丁重にあつかうと約束してください】
わたしは右手をあげ、
「犬権を尊重することを誓います」
と言った直後に、おんぶラックを付けたままのルーシーは唸りながらわたしの足に噛みついた。なんとか足を振りほどくと、ルーシーは手加減したのだと悔しそうに言った。そして、読み上げた。
【偉大な王、諸王の王、世界の王ネブカドネザル2世閣下に、ハランに居住する】
ルーシーは息をつぎ、
【ハランとはユーフラテス上流、トルコ南東部にあった古代都市のことです。つづきを暗唱します。閣下の下僕、占星術師のナブ・アッヘ・ナイードが申し上げます。商人のヨアキムの下僕であるこの者は魔術を封じる呪術師であります。異形なるが故に拝謁は差し控えてまいりましたが、テベテの月、17番目の日、金星が西の空に見えます。こののち約8カ月間、金星は西の空にとどまりますが月との調和がよくありません。エルサレム遠征は信頼のおける部下にお任せになることをおすすめいたします。8カ月後、金星は見えなくなります。その期間は2週間程度かと存じます。ふたたび金星が見えたとき、あらたな周期に入ります。閣下たる王に8カ月間、異変が起きませぬようにこの者をおそば近くに召し抱えられることをおすすめいたします】
「通行証? ただの手紙じゃん」
【信じられないかもしれませんが、当時は、このような長文の通行証が存在したのです。このような通行証がないと、王宮への出入りはむろんのこと、通商路をはじめ、戦場に近い場所での検問を通過できなかったのですワン】
「なんで、さっきのメディア人に見せなかったんだよ」
不満を言うと、
【この通行証は身分証でもあると同時に、密書に近いものなので、見せるわけにはいきません。ネブカドネザル王の父ナボポラッサル王はアッシリアの聖都アッシュル市を攻撃したものの、どうしても陥落させられなかったのです。そこで、敵対していた隣国のメディアのキャクサレス王と同盟を結んで、軍事における要衝の都カルフを攻略しました。カルフやアッシュルだけでなく、王都ニネヴェも攻め滅ぼしたのです。東からと南からの両面から攻めました】
「キャクサレスって……」
【さっき会った若者の曾祖父です。覇を競ったこの時代を、歴史の教科書では、四国対立時代だと習います】
「メディアとバビロニアと……」
【ピラミッドのあるエジプトと、世界最古の鋳造貨幣をつくったリュディアです。現在の国名はトルコ。アナトリア半島のトルコには紀元前18世紀から13世紀までつづいたヒッタイト王国がありました。鉄鉱石から鉄の製錬法を生み出した最初の国です。過去も現在も未来も、アジアとヨーロッパを繋ぐ重要な位置にあるトルコは〝終わりの日〟にも重要な役割を果たすと預言されています】
「メディアはリュディアと揉めてるとか言ってたよな?」
【メディアとバビロニアの間に、東はエラム、西はキリキアという緩衝地帯となる小国があります。それで、なんとか平和を保っているのです。しかしながら、リュディアとメディアの間にはハリュス川しかありません】
「川中島の決戦みたいなもん?」
【グゥワン! 強国と強国はできるだけ、国境を接しないように、どちらにも秋波をおくる国を挟んで、睨み合うのが常です。現代も同じです。大国のロシアや中国やアメリカにとって、小国の日本や韓国や台湾は緩衝地帯です。歴史は繰り返すと言いますが、最初から何も変わっていないのです。バビロニアのネブカドネザル王がいま大軍を派遣して、ユダ王国を包囲しているのも、父王を殺害された現王のエホヤキンがエジプトやフェニキアのになびくのを恐れる故です。パレスチナ地方にあるユダ王国は、バビロニアにとってエジプトやフェニキアとの緩衝地帯です。イスラエルの北王国とユダの南王国は分断国家になったときから、統治する者は自らの意志を明確に示してはならない宿命を負っているのです。小国の外交はよほどの天才が現われなければ滅ぼされます。さらに言えば、同盟を結ぶ相手を間違えると国は滅びます。ユダ王国のように】
選ぶ選択もあれば、選ばない選択もあるという。
【ネブカドネザル2世王はこの時代にあって後世に名を残した傑出した人物です。能力が有り余る故に、時に、焦燥にかられることがあるのです。現代もそうですが、国は国を裏切り、人と人も裏切ります。敵の敵は味方であり、味方と信じた相手が翌日には敵になります。人間は文明に目覚めたときから欺瞞と焦燥が渦巻く世界を構築してきたのです。永遠の平和も同盟も存在しません】
「あんたが、敵になるということもあるかもな」
ルーシーは恨めしげに、わたしをひと睨みし、
【現時点から12年前、紀元前607年のことです。異教を廃する宗教改革を行なったユダ王国の王である、ヨシヤはパレスチナ全域の支配をもくろんで、エジプトに歯向かったと言われています】
「607年に、聖徳太子が隋の皇帝に親書を送ったと爺サンが話してたな」
ルーシーは、1200年の隔たりがあると吠えたあと、
【アッシリア帝国の最後の王アッシュル・ウリバト2世はニネヴェが陥落したあと、エジプトのファラオ――王のことです。ネコに助けを求めました。エジプトのネコはメディアとバビロニアの連合軍を打ち負かすために北上し、ユーフラテス川方面に遠征したのです。アッシリアを助けるためではありません。滅びたアッシリアの領土の分捕り合戦に加わったのです】
「ハトとネコが喧嘩したら、ネコが勝つ」
【口を閉じよ! エジプトのネコにとって、小国のユダ王国は当面の敵ではありませんでした。そのむねを伝令を送って伝えたのですが、ヨシヤ王は民に威信を示すために、エジプト軍が領内の要衝、メギドを通過することを阻止しようと自ら軍隊を指揮し立ちはだかったのです。王はエジプト軍の射手の矢を受け、致命傷を負いました。神に忠実であったがために、かならず神の加護があると信じたのでしょう。小国が大国に対抗する方法は1つしかないと言っても過言ではありません】
「奇襲攻撃! 織田信長は、桶狭間で勝ってる!」
【織田信長のマンガはたくさんありますから、小国が大国に勝利する劇的なシーンがたやすく起きると誤解してしまうのです。窮地を招いたときはとくに。アメリカの覇権に異を唱えた日本の真珠湾攻撃もそのたぐいでした。信長は、桶狭間ののちのいくさでは、敵方を圧倒する戦力で常に戦いました】
充分な兵站のない奇襲攻撃は通常の戦略からすると無謀きわまりない戦術だとルーシーは言ってハァフンと生欠伸をし、ターバンの頭をかしげ、大国を倒すには持久戦に持ち込むしかないと言った。そして、諭すような口ぶりで話をつづけた。
【国土の広さにかかわらず、どの国の支配者も、国の威信のために戦います。勝利することで民衆の尊崇の念が得られ、王を王たらしめるからです。いくさが長引けば、民衆は動揺し、他国に隙を見せることになります。権力構造に問題が生じるからです。自国の有力者の賛同を得ずに王権は成立しません。この時代の王権とは、税の徴収と兵士の動員につきました。現代の政府も似たり寄ったりですが……】
「日本の自衛隊は動員されてない」
【神戸の地震が契機となって、災害時には即日、動員されます】
行く手の荒野に名もしらぬ青い花が一面に咲き誇っている。
【父王亡きあと、紀元前604年に王位に就いたネブカドネザル王は常に勝利することを求められました。戦闘において他国に敗れることは、彼らの信仰するベル・マルドゥク神の加護なき王とみなされ、民衆の心は一気に離れます。ネブカドネザル王は自国の民に王の威光を示すために、兵を動かし、領土を広げつづけなければなりません。他国の王もおなじです。いくさに勝利し、戦利品を臣下や民にもたらしてこその王なのです。その結果、どれほど有能な王であっても年齢をかさねると強迫観念にかられるようになります。しばしば、迷いが生じるのです。そして吉凶を占う腸卜僧や占星術、霊媒師に頼るようになります。現代においても、占い師に頼る政治家はいくらでもいます】
ルーシーは、話の途中で、人気のない砂丘を見やった。
【紀元前597年の時点で、12年後の話をしても無意味なのですが、紀元前585年5月28日に日食があります。真昼が夜になるのですから、当時の人々には凶事に思えたでしょうね。このとき6年間、交戦中だったメディアとリュディアはネブカドネザル王の計らいで和平条約を締結します。その後、3カ国は婚姻関係を結び、勢力の均衡をはかります。いまは要衝の地ではありませんが、当時はフェニキアの岸線に面した大海運国のティルスは同じフェニキアの都市国家シドンや、ユダ王国とその周辺国のエドム(ユダ王国の南)やモアブ(現ヨルダン領)を誘って、バビロニアを滅ぼそうと画策しました。ネブカドネザル王にとって、フェニキアのティルスとエジプトは常に服属国の離反を促す宿敵でした。ユダ王国が敵方につけば、バビロニア軍がシリアを横断するさいに北と南からの挟み撃ちに遭うおそれがあるからです。宿願であったティルスとの戦いをはじめる7年前、紀元前581年に王はユダ王国を滅ぼします。ついにエルサレムの地からユダの民は一掃されるのです】
世界史は日本史以上に年号が暗記がしずらいと言っても、
【ネブカドネザル王は10年以上の長きにわたって、地中海貿易の一大流通拠点だったをティルス攻めますが、消耗戦に嫌気がさすのです。ティルスは800㍍先の海上に浮かぶ小島を有する要塞都市でした。陸地の都市を攻め落としても、王も商人も兵士も民も堅固な城壁に囲まれた島に逃げこみ、決着がつかなかったのです】
話が入り組んでいてさっぱり理解できない。
【兵士の数では勝っても、遠洋航海に適する船団をもっていないバビロニア軍は大船団を有する補給路を阻止できませんでした。ティルスを攻略するために、バビロニアの兵士らの頭髪は兜ですれて禿げになり、包囲柵をつくるのに使う資材を運んだために肩の皮膚がすりむけたそうです】
思わず、吹き出してしまった。
【何がおかしいのですかっ! 不謹慎です】
「禿げるまで戦ったのか、へぇ」
【聖書の記述では、ネブカドネザル王は神の手足となって、腐敗したティルスを攻め落としたことになっています。その労苦に報いて、神はネブカドネザル王にエジプトを攻めることをゆるし、太陽の神ラーを崇めるエジプトの莫大な黄金をバビロンに持ち帰らせたと――。事実はどうでしょうか。エジプトはまとも戦うことを選ばず、塵ほどあると言われた黄金を与えて帰らせたと思われます。ネブカドネザル王はこれで、兵や民に対して顔が立ったわけですが翌年の紀元前562年、王は志半ばで、死に至ります】
「死ぬと決まってるのに、頑張る人の気持ちがわからん」
【ティルスを陥落させたのは230年後、紀元前332年マケドニアの若き王アレキサンダーでした。ペルシア遠征の途上だった大王は城門を開け降伏するように告げたのですが、ティルスは応じませんでした。激怒した大王は、先に陸上の都市部を攻め滅ぼし、その残骸を集めさせ、海に投げ入れて、島にわたる幅6㍍の土手道をつくったのです。一方で、遠征前に平定したギリシアの海軍をつかって、ティルスの船団を彼らの港に閉じこめ、補強路をたったことも勝利の一因でした。大王は、もっとも高い攻囲用の塔を7カ月で建設し、高さ46㍍の島の城壁を破ったのです】
「たしか、バビロンで死ぬよな?」
【どうせ、漫画で知ったのでしょ?】グゥフンとルーシーは鼻で笑い、【ホメロスの叙事詩をこよなく愛したアレキサンダー大王はトロイア戦争の英雄アキレウスにならい、漆黒の愛馬ブケファラスを駆り、やまいに倒れるまで戦いつづけました。いくさの女神に選ばれた英雄は、自らの運命に従うしかないのです。わたしたちは英雄ではありませんが、神の定めた運命に逆らえません。使命とは命を使うという意味です】
「神サンの定めた通りに物事が、運ぶために命を使う……? お断りします」
ウーウーとルーシーは唸り声を上げた。
【さっさとおんぶしろ! Right away! エルサレムへGo】
言う通りにする。
【ワンツー、ワンワン、ワンツー、ワンワン……】
その声に合わせて木のペダルを踏む。舗装していない道なので、上下動がはげしい。ルーシーは舌を出し、ポタポタとよだれをたらす。ズゥーハージィーという息づかいがダース・ベイダーの呼吸音と似ている。
「口を閉じてなよ」大声で言っているのに、
【『いと高き者よ、あなたによってわたしは喜びかつ楽しみ、あなたの名を誉め歌います』。詩編9章2節です】
ルーシーは、ウォーンウォーンと歌い出した。ダビデ王がヤハウェに捧げる歌だという。【『あなたはその足を彼らの血に浸し、あなたの犬の舌はその分け前を敵から得るであろう』。詩編68章33節です。ともに天使として務めを果たしましょう】
「エンジェルカードがないのに天使って言えるのかよ」
【わが友、ミカエル。わたしたちはともに戦う同志です。友誼を誓った生涯の友です。The dog is naturally a friend of man】
「フレンドだったらさ、バイクくらい出しなよ」
【この時代、天然のアスファルトはありますが、ガソリンはありません。正確ではありませんね。自然発火した石油は〝ムシュフシュ〟と呼ばれていました。龍のことです】
「石油があるんだったら、バイクを――」
【Ninjaが運転できると思っているのですか。それこそ夢ですワン。ファンタジーですワン。精油所がないのにガソリンはつくれませんし、むろん本部総括管理官の許可がおりませーん!】
「命を使う天使なんだからさ、それくらい、やってもらってもいいと思うけどなぁ」
【エンジェルカードがまだ発行されていませんので、非正規雇用の天使長ということになります】
「通行証とIDカードがあって、天使長だと証明するエンジェルカードがないのは、おかしい」
エンジェルカードはだれが発行しているのか、たずねようとしたとたん、グゥフフフンという嗤い声が耳の穴をくすぐった。そして突然、【ハレル・ヤーハ!】とルーシーは叫び、ヘンデルのメサイアを合唱したいと言い出した。
「1人を選べといわれたら、モーツァルト派なんだけどさ」
【あなたらしいといえば、よいのでしょうか。モーツァルトで知っている交響曲を言えって言われたら答えられないでしょ?】
「しってるよぉ。『惑星』」
【ホルストです】
「言い間違えたんだっつーの。『ジュピター』」
【交響曲なん番ですか? ケッヘル番号は? 肝心カナメのことを意識から排除しているんですね。あなたの自我はそれほど強いということです。身の安全を考えれば致し方ありませんが】
「『アマデウス』を観て、能天気で貧乏なモーツァルトがアタシは好きになったんや、どこが悪いねん」
養父母と暮らしはじめた第1日目に、関西弁を禁じられた。だから、いやいやでも、彼らの前ではわたしと偽っていたがやめることにした。
「もとのアタシに戻るわ。ほんで、名字のないカタカナ表記のミカエルになる」
【これで、内緒話が可能になりましたワン。上級天使は耳がいいですからねぇ。下界の天使の監視をおこたらないんです】
「非正規やのに、アタシら監視されてるん?」
【関西弁はコンパイラ、つまり天使使用の端末機が読み取る言語に変換できないのです】
90年代に入って、天界は、第10世代コンピュータの開発に神の威信をかけたが、漢字の壁に阻まれたという。ましてや方言となると、推してしるべしだとルーシーは言う。
【天界の古代言語保存研究所において、関西弁は日本語の中でも非論理的言語とみなされ、残念ながら高水準プログラム言語に変換されないことが上級天使による言語審議委員会において決定したのです】
「それって、アタシら以外の天使には通じひんゆーことなん?」
【That’s right.人間にもです。グゥフフフン】
「どーせ夢なんやし、どっちでもええ話なんやけど、ええやん、それ。はじめて気が合うたやん」
【Sing Sing Sing! Let’s together.ヘンデルの『メサイア』をともに歌いましょう】
「もっと歌いやすーいアニソンにしょうな。『ゲゲゲの鬼太郎』とか。ゲェ、ゲェ、ゲェのゲェ。アオガエルにぴったりやん」
ルーシーは聞こえないふりをする。
【ヘンデルは早くからドイツを出て、イギリスでオペラを手がけていましたが晩年、脳卒中と破産の不幸に見舞われたのです。この苦境に屈することなく1741年秋、神さまの恩寵を得てわずか24日間でオラトリオを完成させたのですワン。歌詞は、聖書の聖句からとられ、イエスさまの出現、伝道、復活、昇天がモチーフです。毎年、クリスマスやイースターに上演されるのが慣例になっています。有名なハレルヤ・コーラスは第2部の最後を飾る曲です。現在もここで聴衆は全員、起立します】
「クリスマスのアレか。しょうもな。ワムの『ラスト・クリスマス』がええわ」
【ロンドン公演の初演のとき、臨席したイギリス国王のジョージ2世陛下は感動のあまり立ち上がったのですよ】
「24日間で作っても、初演まで2年もかかったんや。その間、病気の身の上でどうやって生きてたんか考えると切ない」
【作曲を依頼したディッシャー公の援助があったと思われます】
「アタシを援助してくれてた爺サンと婆サンは今頃、墓の中なんやなぁ」
【遠くを捜さなくても、〝神の強健の者〟を意味するガブリエル大天使の名代であるわたしめが援助の手をさしのべているじゃないですか。グゥフフフン。It’s abaut oll soul.魂をこめて歌えば、元気が出ます。起立せよとまではいいませんから、安心して木製の自転二輪車を運転してください。わたしたちの使命は24日間もかかりません。24時間もあれば、大事を為せますワン】
「1時間が1年やとしたら、もしかして、24年後に帰れるゆーことなん?! まさか、そんなアホな。何歳になってるんよ。16プラス24で40。2019年――年号も変わってるな、たぶん」
『ユダヤ深層予言』に、1999年に終わりの日が来なければ、「2017年に新世界」と書いてあったことを思い出す。
【すべての物事が、神の御言葉通りに運べば、もといた世界にもどれるでしょう。わたしとしても、あなたと長く付き合うつもりはありませんからね。どんなに遅くなっても2022年11月8日の惑星食までには帰れるでしょう】
「ええっ! 完璧なオバサンになってるやん」
【天上の神を賛美しましょう!】
日陰のない砂漠の表面には、風でできた襞があって、さざ波を思わせる。丘陵地の草原との対比が美しい。
「イッツ・クリーン。『アラビアのロレンス』の名台詞やねん」
【その発音では、天界の共通語であるQueen’s Englishになっていません】
「アンタの気取ったしゃべり方をきいてると、三枚舌の大英帝国に騙されたアラブの王サンの気分になってくるわ。天界の共通語が英語やとしたら、死んでからも白人仕様の世界が待ってるわけ?」
【あなたの脳細胞はドグマ、Sorry.独断と偏見に満ち満ちています。意志薄弱の堕天使の意識体のようですワン。ダニエルさまは、預言されています。バビロニアののちに帝国となる国々に起きることを】
いまにも壊れそうな自転車をふたたび停め、聖書を取り出す。
「ダニエル書のどこよ?」
【2章の31節から45節。1224頁です】
使い古されて表紙はいまにもちぎれそうだが、なんとかひらく。
【人手によらず切り出された1つの石で、打ち砕かれると記されています】
「第4の鉄の国の足の指の一部が粘土でできてるって――? 脆い粘土に石が命中して、世界が滅びると書いてるわけなん?」
【世界が滅びたのちに、天の神は1つの国を立てられます。そして、その国は永遠に至るのです】
秦野の言う〝イスラエルの石〟とはこの石のことなのか。
「アンタの知ってるダニエルはまさか、ノストラダムスみたいなおじさんやないやろな?」
【Let me explain why I am here】
「なんぼえらい天使でも、助ける相手が、ひげヅラのおっちゃんではなぁ。夢がない、華がない。その気にならん」
【Oh,I remember.杞憂だと思うのですが、けっして宦官だと見破られてはなりません。バビロニアの宮廷では、アッシリアと異なり、宦官は多種多様な職種に就いていますが、特別な宦官をのぞいてその地位は総じて低いですからね。去勢された男子は王に召されないかぎり、高位の王族の前でもの申すことは許されないのです】
「本物の宦官とちがうけどなぁ。ま、ええわ。似たようなもんやから。ほんなら、なんに見られたらええのんよ」
【青あざのある特殊な顔立ちですから、通行証にあるように呪術師で押し通すことです。桔梗紋印の安倍清明も呪術師でした】
草の葉で、カエルを殺せる陰陽師になれるはずがない。
「バアルの化身って言わなかったか?」
【清明の御敵調伏術を真似て、呪符をつくって庭に埋めたじゃないですか。グゥフフン】
目玉が動いて、めまいが起きそうになる。半分、本気で、半分、遊びのつもりでやったことだけれど、あの呪物のせいで、養父母は死んだのかもしれない。
「アタシが殺したことになるのかも……」
【あなたは、殺していません。悪魔を呼び出すセーマン印を地面に記していない。呪いの言葉も唱えていない】
この瞬間、一定の間隔をおいて聞こえていたルーシーの声が、ダイレクトに感知できた。
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妄想と現実の境界があいまいな物語をつつ”りたいと思って40年、いまだ夢醒めやらぬツ”カオタです。イチ推しは、宙組のキキちゃん。宙組さんを応援しています。
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