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物語の作り方 No.8

 第3回 一行目をどう書くか。

 作家でもない私があれこれ役に立たないことを述べる前に、ヘミングウェイの言葉を下記に引用しておきます。この文章を、どこで読んで書き写したのか、遠い昔のことなので覚えていないのですが、アーネスト・ヘミングウェイであることは間違いありません。

 簡潔な文章を使え。書き出しの一節は、とくに短くせよ。力強い言葉を使え。積極的に書け。消極的になるな。
 古くなった俗語は使うな。俗語は新鮮でなければならない。
 形容詞は使うな。とくに大げさな形容詞は使ってはならない。

 才能があって、自分のいいたいことについてほんとうに感じて書く人なら、これらの心得を守りさえすれば、誰でもうまく書けないはずはないと思う。

 個人的感想になりますが、これまでの読書歴の中で、書き出しの一語で、もっとも感心した文章があります。芥川賞受賞作の「蹴りたい背中」です。綿矢りさ氏は当時、高校生だったと記憶しています。一行目に「さびしさが鳴る」とありました。
 ご本人は、受賞後に「三日かかって考えた」と書いておられたと記憶しています。彼女はおそらく全文を書き上げたあと、書き出しの一行をなんども書き直したと思います。
「さびしい」という形容詞と「鳴る」の動詞を結びつける発想に驚きました。孤独感の強調だと思いますが、言葉の選択が非常に優れていると感じました。

1)タイトルと書き出しと結びの関係について。

 この三つは互いに深く関わっています。私はこれを三点セットと勝手に名づけています。まずタイトルですが、物語のキーワードを含むか、暗示している作品が洋の東西を問わずあまたの作品に見られます。
 次に、書き出しの一行ですが、文章の調子が決められてしまうと言えば、大げさになりますが、全体の雰囲気、質的な特徴は決まります。そして、その一文はタイトルとも結びの部分とも呼応しています。

 以下に、例文をあげました。少し、多いですが、手引書に書いた作品に加筆して書いておきます。

    吉本ばなな「キッチン」
起)
 私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
結)
 夢のキッチン
 私はいくつもいくつもそれをもつだろう。心の中で、あるいは実際に。あるいは旅先で。ひとりで、大ぜいで。二人きりで。私の生きるすべての場所で、きっとたくさんもつだろう。
               
    フランソワーズ・サガン「悲しみよ、こんにちは」
起)
 ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しいりっぱな名をつけようか。
結)
 アンヌ、アンヌ! 私はこの名前を低い声で、長いこと暗やみの中で繰り返す。すると何かが私の内に沸きあがり、私はそれを、眼をつぶったままその名前で迎える。悲しみよ、こんにちは

 上記の二人は若くしてベストセラー作家となりました。二人の処女作はタイトルと書き出しと結びがセットになっています。その後の作品も同じだとは言いません。はじめて世に問う作品において、彼女たちは小説の仕組みを熟知した上で書いたであろうことは想像に難くありません。

 以下に取り上げる例文は、一見、関係ないように見えて、関連している作品群です。

    アラン・シリトー「長距離走者の孤独」
起)
 感化院へ送られるとすぐ、おれは長距離クロスカントリー選手
させられた。
結)
 それにもしおれがつかまらなけりゃ、この物語を渡しておく奴はけっしておれを密告したりしないはずだ。うちの近所はずっとむかしから住んでいる奴で、おれの仲間だ。それだけはよくわかっている。

 書き出しはタイトルと重なっているが、結びは違っているだろ! とおっしゃる方がおられると思います。この少年は、競技を利用して逃走を試みようとしています。本作を読めばわかりますが、彼に仲間はいない。だから、タイトルに「孤独」がついているのです。
 
     チェーホフ「かわいい女」
起)
 退職した八等官プレマャンニコフの娘のオーレンカは、わが家の中庭に下りる小さな段々に腰を下ろして物思いにふけっていた。
結)
 心臓の重苦しさが少しづつ遠のいて、再び気が軽くなる。オーレンカはまた横になってサーシャのことを考えつづける。サーシャは隣の部屋でぐっすり眠っていて、ときどき寝言を言う。
「こいつ! あっちへ行け! やる気か!」

 かわいい女はオーレンカをさします。常に誰かを愛さずにはいられない女性、オーレンカ。恋人に捨てられても恨めない。わが子でないサーシャが自分のもとから去ることを怖れて熟睡できない。
 チェーホフの短篇小説や戯曲は結末がない作品が大半です。

    星新一「コビト」
起)
 町の片隅にサーカス小屋ができた。
結)
 各地でいっせいにコビトがあらわれた。何千万人どころの騒ぎではない。とても数えきれぬ。ここに至れば、流血もなく合法的にコビトが地上を支配することは、もはや時間の問題にすぎない。

   アンドレ・ジイド「一粒の麦もし死なずば」
起)
 僕は、一八六九年の十一月二十二日に生まれた。
結)
 僕は、自分の身も心も彼女に捧げうると信じきっていた。そして少しの留保もなしにそれを実行した。このしばらく後、僕らは婚約するに至った。

 アンドレ・ジイドの作品は、最初に「狭き門」を読みました。主人公と女性の関係が理解不能でした。「一粒の麦――」を読んで、ようやく納得できました。ジイドは、大人の女性と性的関係を持つことが困難だったのです。仲間と北アフリカに旅行し、少年や少女の買春行為におよびながらも、「身も心も捧げうると信じて」従姉妹の女性と婚約します。ジイドの妻は処女妻だったと言われています。
「狭き門」「一粒の麦――」どちらのタイトルも聖書からとられています。一粒の麦は、ジイド自身をさします。この世に生まれさえしなければ、罪を犯さずにすんだとジイドは考えたのです。子供の頃、彼は信仰心が強く、将来、女性を愛せないと微塵も思っていませんでした。それこそ「身も心も神に捧げうる」と信じていました。しかし、成長するとともに、彼は自らを神に叛く者「背徳者」と感じるようになります。「一粒の麦――」は彼の晩年の作品で、自伝的作品と言ってもいいと思います。

   宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
)第一章の見出し……「午後の授業」
「ではみなさんは、そういうふうに川だと言われたり、乳の流れたあとだと言われたりしていた。このぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」先生は、黒板につるした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問いかけました。
)最終章の見出し……「ジョバンニの切符
 そう言いながら博士はまた、川下の銀河のいっぱいにうつった方へじっと眼を送りました。
 ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいで、なんにも言えずに博士の前をはなれて、早くお母さんに牛乳を持って行って、お父さんの帰ることを知らせようと思うと、もういちもくさんに河原の街の方へ走りました。

 この結びは、かけがえのない友、カンパネルラの死を知ったジョバンニの動揺が描かれています。しかし、ジョバンニは、黒い丘の草の上でうたた寝をしたとき、カンパネルラと銀河鉄道で旅し、そのとき、自分の持つ切符が他の乗客と異なることからカンパネルラがこの世の人でないことを知ります。カンパネルラが他の乗客とともに銀河の果て南十字星に向かうことも――。
 カンパネルラはいじめっ子を助けるために溺れ死に、タイタニック号の乗船客は氷山にぶつかり海中に沈みました。
 仏教を信仰していた宮沢賢治は魂は不滅であり、死後は、清浄で満ち足りた世界に旅立つと信じていました。だから、この世を黒い丘と表現し、銀河を白いものと表現したのだと思います。

 つぎは、大河ドラマのような大長編小説です。

   司馬遼太郎「坂の上の雲」
起)第一章の見出し……「春や昔」
 まことに小さな国が、開花期を迎えようとしていた。
結)最終章の見出し……「雨の坂」
 臨終近くになったとき、「鉄嶺」という地名がしきりに出た。やがて、
「奉天へ。――」
 と、うめくように叫び、昭和五年十一月四日午後七時十分に没した。

 書き出しの文章はもっと長いのですが、最初の一行だけにしました。明治時代を生きた人々は、坂の上に見える雲をめざすようにして人生を歩んだという意味の文章があとに続きます。
 手のとどくはずのない雲とは、近代国家を創ることでした。それは弱肉強食の国際社会に挑むことでもありました。司馬氏は、書き出しの見出しに「春や昔」と書いています。鎖国していた時代を 「春」であったという意味だと、個人的に解釈しています。
 結びは、編成して間もない騎馬軍団を指揮して、タタール人の率いる最強の騎馬軍団と勝ち目のない会戦を闘った秋山好古の臨終の場面です。彼にとっての、坂の上の雲は、「奉天」に進軍し、陥落させることでした。しかし、その結果、おびただしい戦死者を出すことになりました。最終章の見出しの「雨の坂」の雨は、雲の見えない坂をのぼる人々の流した涙を意味すると思っています。

   ヘミングウェイ「殺し屋」
起)
 ヘンリ食堂のドアがあいて、二人の男が入ってきた。
結)
「ぼくはこの町を出ることにするよ」ニックは言った。
「そうだね」ジョージは言った。「それがいいだろう」
「あの男が、いまに殺されると知りながら、じっと部屋で待っているなんて、考えてもたまらないよ。あんまり恐ろしすぎるよ」
「だが」ジョージは言った。「そんなこと、あまり考えないほうがいいよ」

 ヘミングウェイは長編より短篇のほうが、優れていると、個人的に思っています。切れ味が鋭く、妥協がいっさいない。安易な結末もつけない。この短篇は、一行目に二人の男とありますが、彼らが殺し屋=死の象徴です。結びに出てくるニックが、ヘミングウェイ自身の若い頃だと言われています。ホテルの一室で、殺し屋が来ていることを知りながら待っている男。これは象徴的表現で、どうあがいても死は確実にやってくる。なんとか、それから逃れるために、ニックは町を出たいと言うが、バーテンのジョージは、「(死を)考えるな」と諭します。その後の彼の人生を考えると、猟銃自殺した父親と同じ道をたどるまいと、スペイン内戦に参戦し、闘牛に熱中し、行動しつづけたのではないかと想像します。
 ノーベル文学賞を受賞した中編小説「老人と海」は、彼の文学との格闘が荒海に漕ぎだした一艚の小船をあやつる老人とサメの闘いとして描かれているように読めます。精根使い果した末に、得られたものは何もないと、彼は語っているかのようです。晩年、事故に遭った彼は小説が書けなくなり、父親と同じ選択をします。

2)書き出しや結びと、呼応しないタイトル。

 志賀直哉の「城の崎にて」は、書き出しと結末は呼応していますが、タイトルとは結びついていません。
 タイトルが地名、人名などで物語全体を表す、この形式も一般的です。高村薫「マークスの山」。宮沢賢治「風の又三郎」。ユルスナール「ハドリアヌス帝の回想」。地名や人名ではなく、ひと言で作品そのものを言い表わす作品は数多くあります。太宰治「人間失格」。青来有一「聖水」。バルザック「レ・ミゼラブル(ああ無情)」。ディケンズ「クリスマス・カロル」など。

課題①自作のタイトルと書き出しと結びの文章を考える。
 
 長文にお付き合いくださり、ありがとうございます。
 次回から、視点について書きます。三人称の書き方を全く知らなかった私の書く考察ですので十二分に説明できる自信はありませんが、人様の小説を読んでいて、最初に気になるのが視点です。
 理由があります。はじめて依頼された原稿を送付したとき、編集長が地元の駅にやってこられて、原稿を突き返し、「あなた、小説がわかってないでしょ? 視点がなってない」と酷評されました。四十年近く前、携帯電話もない時代ですから、真正面から肉声で言われた瞬間、大げさではなく、めまいがしました。小説における 「視点」という日本語を知らなかったせいです。

 ここで先に申し上げておきます。小説の約束事が多少わかったからといって、ヘミングウェイのように書けるわけではありません。
 膨大な時間を費やしても、徒労で終わると思いますが、わからないまま書くより、わかって書くほうが読後感がよくなるのではないかと独断と偏見で思っています。


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