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#シロクマ文芸部 霧の朝 [やがて霧は晴れ]

霧の朝 私は母を探して庭に飛び出していた。

「かあさん どこにいるの いたら返事して」
私は泣きながら父にしがみついた。
「かあさんがいないの かあさんが」
父は暗く闇を見るような眼で私を見下ろして言った。
「母さんはもう居ない 明け方出て行った」
九つの私にはそれがどういう事か分からなかった。
「かあさん もういない、いない」と頭の中で繰り返すばかりであった。
その朝はいつもより霧が深く町は白く霞んで人が隠れて行き交うにはちょうどよかった。母は誰にも会わずこの町を離れたのだ。
それから程なくして父は子連れの女を家に入れた。
「今日からお前の母さんだ それと義妹のミツ 一つ違いだ仲よくやってくれ」父は冷たく言い放った。
大正から昭和にかけて村々には地主が小作人へ土地を貸し付け高い賃料を取り 払えぬ者には金を高利で貸し付けていた。
高倉家も代々の地主で父の行成は祖父(重成)が亡くなってからは 屋敷には戻らず 妾宅に入り浸りで放蕩三昧であった。一方母は松江藩に仕え質素な中にも学問に秀でた人物を輩した家柄で 控えめでいて家の切り盛りに長け小作人や小間使いには分け隔てなく接していた。それをいいことに父は家を空け 街で小料理屋を営んでいる弥生の2階に転がり込んで 小料理屋の女主人と懇ろ(ねんごろ)になっていた。
この女主人弥生は強欲な性格で行成の妻の座を狙っていた。手練手管で行成を骨抜きにし とうとう本妻の元に離縁状を送りつけるまでに至っていた。
妻佐枝は娘ゆきの為辛抱していたが 
決心を固めあの霧深い朝を選んで出て行ったのであった。

季節は冬へと移ろうとしていた。朝は霜が降り 川と大気の温度差から益々霧深く町は白露に沈み 時折 家畜の嘶きが聞こえるばかりであった。
義母弥生とキミは 父の居る間は甘えた声でしな垂れかかり機嫌をとっていたが 父が不在の時には 障子をぴしゃりと閉め部屋から出てこようとはしなかった。時折私に向けられる刺すような目線を逃れ 長年女中として使えている マスの元で下働きの手伝いを始めた。
マスといる時だけが子供としていられるささやかな安らぎのひと時であった。
寒さが 髪の毛を覆い始めそろそろ冬支度をと 押し入れを開けたその時
私は はっと思い出すことがあった。
「ゆきちゃん 来年の晴れ着とネルの寝間着母さん縫っておきました。お正月には着ましょうね」
私は急いで行李の蓋を開けた。
中にはきちんとたたまれた着物が入っていた。赤と茶の格子柄のネルの温かそうな寝間着と薄紅色の地に桃の花のあしらい柔らかい春の訪れを喜ぶような晴れ着があった。
私は思わず着物を抱き締め「母さん 母さん」と 泣かずにはいられなかった。
すると着物の間から ぽとりとお守りが落ちた。
これは秋祭りに松江神社にお詣りに行った時に かあさんが買ってくれたお守り
中が少し膨らんでいた。不思議に思い中を開けてみると
その中には紙が差し込まれていて
住所が書かれていた。
『松江 美保の松原町 美保旅館』
美保旅館きっとここにかあさんが居るに違いない
ゆきは勘のよい娘であった。出入りの薬行商の末吉に場所をこっそり尋ねてみた。末吉は最初いぶかしがったが事を察して私に耳打ちしてくれた。
「嬢ちゃん ここから8里ぼど先の美保関にある料理旅館ですよ めっぽう評判の旅館で美保神社の参拝客で賑わってますよ」
私は 末吉の言葉を繰り返し 子どもの足では到底たどり着けないと諦め
自分の足で8里の道を歩けるまで我慢しょうと心に決めた。

それから二年が過ぎたであろうか
いよいよ私にも独り立ちする時がきた。
私は枕元に
これまで育ててくれた事の恩を告げ
一人で生きていく覚悟を綴った手紙をしたためた。
母と同じ 霧の深いまだ明けやらぬ内に家を出た。
草は露を含み草履の鼻緒はしっとりと濡れ足先からじんじんと寒さが上がってくる しかし私は「かあさんに会える あえる」と何度も呪文のように繰り返しただひたすら前のめりに足を進めた。やがて辺りがしらみかけ霧もちぎれていった。
「かあさんもこの道を通って行ったのかしら どんなに辛かったでしょうに」
ゆきは込み上げてくる涙をこらえひたすら進んでいくと やがて美保関の看板が見えてきた。辺りはすっかり朝の気配だ。潮風の香りと共に海のさざ波が聞こえる。

美保旅館の看板が見えた。私は小走りに駆け寄った。
旅館は朝の食事が終わり片付けの様子で仲居の賑やかな声が聞こえた。
その中でひときわ澄んだ声で
「しいちゃん はぎの間のお客様お帰り玄関にでてお見送りお願い」
紛れもなく懐かしい母の声 
しいちゃんとやらが見送りを済ませ頭を上げたとき 目敏く私を見留めた。
なにかを感じたらしく 後ずさりしながら厨房の中に消えた。程なくしてしいちゃんが母の手を引いて私の前に押しやった。
母は暫く信じられないと言った顔で私を見つめた。胸に込み上げるものがあったのか 裸足で私のところに駆け寄り抱き締めた。
「ゆき ゆき 会いにきてくれたのね
いつかは会える日がくるとこの日をどんなに待ち望んだか」
そう言って泣き崩れた。
周りに仲居達が集まり事情を知っているのか貰い泣きしているものもいた。
「必ず、必ずきてくれると信じて待ってたのよ」
朝の光に二人は包まれた。

今私は 旅館の主人の計らいで母と二人のささやかな生活を送っている。
美保神社に母の手縫いの晴れ着を着て正月を迎えることが出来た。
笑い声がする 霧が晴れた空は晴れやかに輝いて見えた。

千九百三十年 農地改革により地主は小作人に安価で土地を解放するお触れがでた。
それまで栄華を誇っていた地主の多くは 没落していった。
終わり








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