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『ニッポンの小説百年の孤独』高橋源一郎 著

読書感想文と言うより、ただのメモです。以下抜粋は原文のままです。太字【桃と紅茶】は私のただのつぶやきです。昔々、高橋先生の講演会に行ったことがあります。もう読まないだろうと思っていましたがあ~~~~人生絶賛現実逃避中。


プロローグ―ニッポン近代文学、百年の孤独

2002年10月16日
ニューヨーク、コロンビア大学、ケント・ホールにおける講演

 ソレル「暴力論」より
violenceとは、ブルジョワジーがプロレタリアートを押さえつけようとして用いるもの
forceとは、プロレタリアートがブルジョワジーの用いるviolenceから自らを守ろうとして用いるもの

 おそらく言葉というものは、コミュニケートするために用いるはずなのに、実際には、その逆に、人々をコミュニケートさせないようにするために存在することがある・・・

 サミュエル・ベケット「しあわせな日々」より
その舞台で最も注目すべき存在は、主人公ではなく、主人公を覆いつくしているがれきの方だったのです。

 「百年の孤独」というタイトルの小説には、ラテンアメリカのある家族に起こった不思議な出来事が書かれています。・・・そして、西洋の「文学」に対面した時、若い作家たちは、マコンドの住民とすっかり同じ反応をしたのです。・・・
 「冗談じゃない」と大男がその誤りを指摘した。「氷ってもんだ、これは!」

 ベンヤミン「翻訳者の使命」とは

ある容器の二つの破片をぴたりと組み合わせてつなぐためには、両者の破片が似た形である必要はないが、しかし細かな細部にいたるまで互いにかみ合わせなければならぬように、翻訳は、原作の意味に自信を似せてゆくのではなくて、むしろ愛をこめて、細部にいたるまで原作の言い方を自身の中に形成してゆき、その結果として両者が、一つの容器の二つの破片、一つのより大きい言語の二つの破片とみられるようにするのでなくてはならない。

 二葉亭四迷について
私が想像するのは、いわば、遺伝子の複製、DNAからのRNAの複製です。・・・
 フタバテイの「文」、ロシア原文というDNAから直接写し取られたRNA、集落に持ち込まれた最初の衝撃、そこから無限の複製が始まったのです。
 私の理解する範囲では、DNAからRNAへの複製は最初の1回だけで、あとは、RNAからRNAへの、つまりコピーからコピーへの複製が続くのです。
 しかし、RNAの複製は無限に続くわけではありません。コピー・エラーが次々と発生し、やがて、複製不能な時期がやってきます。それが、生物学的な死の意味です。個体の死とは、要するに、遺伝子の劣化によりRNAの複製が不可能になるということなのです。

 もちろん、言語以外にも、コミュニケートするためのツールはあります。・・・
 それから、もちろん、貨幣もそうです。いや、貨幣は言葉そのものなのです。そして、資本主義社会では、貨幣も言葉も、絶えず価値の変動にさらされなければならない、というわけです。
 そう、だから、『資本論』に「文学」の一切が書いてあるということもほんとうです。言葉というものが、どうやって生み出され、異なった共同体をどう結びつけ、どう流通し、それが寄り集まって巨大な塊になり、その結果、一つ一つの言葉を抑圧するようになるのか、それらはすべて、あの本に書いてあるのです。

その小説はどこにあるのですか?

雑誌「JJ」と小説「キャラメル・ポップコーン」について
たとえば、「フェミニズム」というような言葉は、この「物語」の中の辞書には存在しません。・・・
しかし、はっきりしていることが一つだけあります。
彼女たちは、最後には「結婚」しなければならないということです。

しかし、ロラン・バルトは『モードの研究』の中で、この一見欠陥だらけの「物語」が、私たちの知っているどんな「物語」よりも強力であると書いています。「近代文学」は、このイメージでできた、「女の子」用の「物語」より強力なものを作り出すことはできなかったのだ、と。

死んだ人はお経やお祈りを聞くことはできますか?

 彼ら画家たちは、絵というものが、何かのテーマを表現しているというより、なにより、単なる色のシミや、線の寄せ集めであることをよく知っています。そして、このことを利用して、我々を錯覚させようとしているのです。・・・

しかし、真に驚くべきなのは、そのことではありません。それが、絵画であれ、音楽であれ、およそ表現というものは、ある種の錯覚を利用して成立しています。問題は、言語芸術では、その錯覚に、作家の方もまるで気づかないことがあるということです。

 思うに、わたしが、「文」とか「口語文」とか読んでいるものは、もはや、口語とは何の関係もない、かけ離れたものなのです。

そして、それは何のために存在しているのかというと、なにより、もともとは、ばらばらに存在していた人々を一か所に集めて、「お前たちは、今日から、日本という国の国民というものになったのだ」ということを説明するために生まれたのです。

それから、彼らの子供たちを、小さな部屋に、集団で閉じ込めて、何時間も、その国民というものになるために必要な事項を叩き込むために必要な「道具」だったのです。・・・

わかりやすく、明快で、単純であることは、何より、一方通行的な教育というものに必要な「道具」の条件でもあったのです。

 「野菊の墓」と「世界の中心で、愛を叫ぶ」の類似性

ここで高橋先生は文学の伝統、伝承についてか、民族人類学の視点からか、この有名な二つの小説の類似性についておっしゃっている。われわれ日本人には、確実にこのような物語を求めるDNAがあるのかもしれない。愛した女が病に伏せる、あるいはみまかる、ということは、源氏物語、万葉集から脈々と人々の心を打ってきた物語である。死と病は人類最大の課題。大丈夫、私たちは病気にもなりたくないし、まだ生きていたいので物語にはなりません。【桃と紅茶】 

それは、文学ではありません

小説「うわさのベーコン」
「うわさのベーコン」を、小説と呼ぶことは、わたしにはできません。・・・
「うわさのベーコン」の言葉の特徴は、コミュニケートする力を持っていないことです。
というか、その必要性を、作者は(話者)は、少しも感じていないのです。

これです、これ、この話し方。パワハラやモラハラをする人は、対象者にこういう“論理”の話しかたをするのだということに気づかされた。今回「うわさのベーコン」という小説の抜粋を読んで、当を得たものだと思った。当時の私は、人間性や道徳性を放棄してしまえば、誰もかれもこのような“論理”で相手に対することもできるのか、と感心したものだ。それとも、この人は気でも違ったのだろうかと訝った。他の人にバレないと思えば、人はこんな話し方もできるのかと、感心した次第だ。なすすべもなかった当時の私に『うわさのベーコン』を教えてあげたい。きっと勇気づけられたことだろう。【桃と紅茶】

カミュ『異邦人』について

第二次世界大戦の終戦の直後、やがて二十世紀でもっとも多くの部数を数えることになった小説がフランスに登場した。その短い小説の主題はただ一つしかない。それは「死者をして死なしめる」ことである。

まだ、母が死んだような気がしない。埋葬が終われば、逆に、母の死は公共的な出来事になり、万事はもっと公式的な様子になってしまうのだろう。『異邦人』抜粋

レヴィナスは「死者を弔う」ことに第二次世界大戦からあとの思想的営為を捧げた。「弔う」とは、言い換えれば「死者をして死なしめる」ことである

 人を動物と別ったのは、葬送によるといわれている。それが死者をして死なしめるということなのだろうか。日本人は何年もかけて葬送する風習を持っていた。○○回忌という考え方である。その時だけは、死者をして死なしめず、呼び戻すことが許された。お盆等の習慣等がそうなのだろうか。普段は、死者を死なしめておくための。【桃と紅茶】

「死者をして死なしめる」ために生者がなさなければならぬことは、死者たちを決して「存在論の語法」に置いて語らないという「法外な禁欲」である。というのは、死者たちは存在論の語法で語られる限り、「ここ」にいないがゆえに、いくらでも「ここで」利用可能なものになるからである。

存在論の世界においては、「死者たち」は死ぬことが許されない。「死者たち」は「生者たち」によって「使役」される。

だから現に今も、「死者たち」は生者たちの「政治的正しさ」を証言するために、絶え間なく「歴史の法廷」に証人喚問されている。・・・「死者たちが存在する」ということばづかいをする限り、彼らは死者たちを道具的に利用し、死者たちを収奪する運命から逃れることができない。レヴィナス

日本ではこれを「死人に口なし」と言うのよ。私も、ここにいないがゆえにここで利用可能なビクトル・ツォイを「使役」しているのだから、「法外な禁欲」からは程遠いのか。それとこれとはまた別なのか。【桃と紅茶】

ラカン「死者」について
「ホロコースト」はヨーロッパ形而上学を涵養したまさにその風土から生み出された。

カミュの「ペスト」について
コロナ」とは実在する何かのことではなく、「実体化された邪悪な存在」を自分の外部に借定し、それによって世界の出来事を説明しようとする「私」の存在論的構造そのもののことだということである。

誰しもが自分の中にコロナを飼っている。この世界のだれ一人コロナにかかっていない者はいない。だから、ちょっとした気のゆるみで、うっかりと他人の顔の前で息を吐いたり、病気を移したりしないように、間断なく自分を監視していなければならないのだ。自然なもの、それが病原菌だ。「ペスト」より抜粋

以上、「ペスト」を「コロナ」に置き換えて読んでみました。私は、コロナが始まった時、カミュの「ペスト」を読み返しました。そして、読後には、此度の騒動が一種の社会実験の様に見えました。しかし、高橋先生!このことに、2005?2006年頃に触れていらっしゃる。【桃と紅茶】

正者と死者の間に乗り越え不能の境界線を引くことから文明は始まった。・・・それが「死者を弔う」ということである。・・・「無意味に生き残ってしまった」自分たちの生き残りという事実に何らかの意味をもたらしきすためである。

石原吉郎詩集より抜粋

詩人は、戦後シベリア抑留された日本兵、帰還後詩作。木と森と死者しかない、シベリア。文明の文明たるゆえんであるところの死者の葬送がおよそ不可能な世界で、詩人は「葬送」していたのだろうか。厳密さと狂った文法によって。私もかつて分からないなりに夢中になって読んだ詩集でした。【桃と紅茶】

仕事でも誰からの依頼でもないのに、一本の線の終わりを知りたいと望んだ僕の性向である。

はい。私も「仕事でも、誰からの依頼でもないのに」、こんなものを書いています。【桃と紅茶】

ちからが足りなくて

詩の賞の選考会について
だから、ぼくたち選考委員は、五人揃って、詩のことばを前にして、どれもがいいと思ったのか。そこにあるのは、詩のことばというよりも、詩人のことば、詩人そのものだったのだ。

「花屋の店先に並んでいる」とか、「みんなちがってみんないい」(金子みすゞ)とか、「どの花見てもきれいだな」とか、こういうDNAを持っている民族なのですね、わたしたちって。と、高橋先生もおっしゃっています。「多様性」ですね。

多様性と言えば、唐突ですが、インドとアフリカ大陸はその「多様性」とやらで列強の支配を引き寄せる羽目になったとも言えまいか。各部族、各小国の利害関係を利用して内部分裂させれば、支配する側の思惑にかなうところともなろう。中国は一時期侵略の憂き目に会い、ロシアも革命のどさくさであわやというところまで行ったが、かの国々は共産党で統一してその危機を免れたとは言えまいか。日本の幕末も隙だらけではあったが、ご先祖たちが優秀で、薩長同盟という離れ業に救われたのであって、侵略の脅威は大いにあった。このような見方は、歴史を語る先生方もおっしゃっていることなので、何も新しい見解ではない。

私は、「多様性」とは一方でこのように危険をはらんだものでもあり、「取扱注意!」であることを承知していたいと思う。時に「多様」なものを排除しようとするのは、本能的にこのような「侵略」から身体を守っているホメオスタシスのようなものなのかも知れない。私は、期せずして「多様性」がゆえに排除される側になたとき、排除する側の論理を想像し、このように腑に落ちたのである。

当時「多様性」を維持していたインドやアフリカは、主に弓矢や刀剣で戦っていた。とすれば、「多様性」のコツは、大量破壊兵器を持たないということになろうか。超大量破壊兵器を持ってしまった戦後は、大国の存在なくしては抑止力は効かないということになろうか。

今、そのインドが次世代大国になりつつある。【桃と紅茶】

小説のことを小説家が知らなくなったのは、小説について考えなくてもよくなったからだ。・・・考えなくてもよくなったのは、慣れたからである。

私の場合は「下手 へた の 考 かんが え 休 やす むに 似 に たり」ですが。
昨今のAIの発達は、「人間は、考えなくてもよくなったから考えなくなる」というよりも、「それ以外のところに能力を使いましょうね」、ということらしい。しかし、それ以外のことが多すぎるのよ!よく今のこどもたちのことを「考えなくなった」と言いますが、考えることが多すぎるのだと思います。そして、そのほとんどは「選択」なのです。多様性がこの「選択」というものの限界を突破させてしまったのだと思います。統計の分布曲線で言えば、もはやロングテールが延々と続く、とでも言いましょうか。【桃と紅茶】

煎じ詰めれば、「小説を書くのがイヤだ」
―ということだ。Nさんの小説ではっきり意味があるのは、それだけだ。他には何もない。・・・
・・・だがこの小説の「小説はイヤ」は、・・・「労働としての小説がイヤ」「苦役としての小説がイヤ」ということだ。そう言いかえた瞬間、それは、誰にでも了解できる真理となる。
ぼくたちもまた、常に「意味のない労働」、「苦役としての労働」に従うことを運命づけられていて、しかも、そのことをできるだけ忘れようとしているからだ。
思えば、近代とは、「意味のない労働」の膨大な集積によって成立したのではなかったろうか。・・・
小説を書く、ということの中に、とりわけ資本主義社会下で、生計を立てるために小説を書く、ということの中に、苦役としての労働が発見される。あるいは、労働の本質をかいまみる。
これほどに、あらゆる種類のものが氾濫している中で、こちらにたどり着いてもらうのは大変なのだ。資本主義のシステムの中で生産し、販売し、消費してもらうことを享受しなければ、そもそも、芸術として存在することもできない―

ソビエト社会主義国家の下でロック音楽をやるということは、ヴィクトル・ツオィが1978年に芸術家グループ「チェンバーNo.6」に所属して活動し始めた当時、「労働」とはみなされていなかった。だから彼は、後に、生計を立てるため、正規の仕事に就くため、「カムチャッカ」で働いた。聴衆は「心」を持ってアパートなどに集い、地下活動のロック音楽を聴いた。ほとんどの聴衆が、それを録音して後に楽しむ術を持たなかった。コンサートはあくまで私的に行われ、「非合法」だったのだ。レニングラード(現サンクトペテルブルク)、モスクワ、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)、の3か所にロック・クラブが作られたのは、やっと1982年になってからだった。そこでのコンサートは晴れて合法になったわけだ。

それでも、国営レコード会社は「メロディヤ」一つしかないので、駆け出しからベテランまで、ミュージシャンたちは、テープに録音してファンの需要に答えていた。それはファンの手から手へ渡されるアナログなマーケットであったが、それでさえまだましな方だった。キノーも初アルバムは非公式、未検閲のレーベルから出している。それまで数年分ほどの活動のまとめとして「45」と「46」を作成したが、当初「46」は非公開にしている。資金がなかったのか、まだ時期尚早と思ったのか、納得できる出来ではなかったのか。アルバムを出す、ということはミュージシャンにとって数年間の仕事の集大成でもあった。

ツオィは、自分の作った曲はすぐに、マイク・ナウメンコに聴いてもらっていたらしい。そして、私的なコンサートで披露し、マイクの感想や客の反応から、修正や変更を重ね、作り上げて行ったことは想像に難くない。それで生計を立てていなかったのであるから、プロデューサーやエージェントに急かされることもなく、自分の納得のいくまで、正式な録音として発売しなくてもよかったのである。資金面からも、そう簡単に発売もできなかったのであろう。
私がこういうことを述べるのは、ツオィの音楽と他国の音楽との類似性云々が言われているからである。そもそもソビエトでは、少なくともペレストロイカまでは、ロックは国家が認可した労働になることもなく、生計にはならなかったわけであるから、音楽産業というよりも、一種芸術活動として述べたい。昨今のアングラからメジャーデビューを目指すようなものでもなかったことを添えておく。

絵画の専門教育を受けたツォイにとって、名だたる画家が「模写」を通して自身の作品を新たに生み出していったように、芸術家グループ「チェンバーNo.6」に所属するまでは、レニングラード・ロッククラブで活動し始めるまでは、「模写」も歌っただろう。私は、美術の専門教育を受けていたツォイが、自分の作品と、練習である「模写」との取り扱いを間違えるのだろうかと思うのだ。

ちなみに文学では、引用作品は、参照として記す。しかし、清少納言「徒然草」では「香炉峰の雪」というものもある。引用先を言わなくても分かるでしょと、古典の教養でマウントしたりして遊ぶので、文学は大変だ。
ああ、こうして、寝ても覚めてもヴィクトル・ツォイに。【桃と紅茶】

中沢新一『芸術人類学』について

動物などの行動を見ているとわかりますように、私たちが行いがちな不自然な行動だとか、妄想に突き動かされた行動などをしません。・・・ちゃんと現実世界の因果の法則に従っているのがわかります。鳥の心に妄想はないのです。人類以外の生物は妄想を抱かない、・・・。

真っ暗闇に長時間いると、視神経が自分で振動を始めて、暗闇なのに目の内部からあふれんばかりの光が出てくる「内部視覚(エントプティック)」という現象が観察されています。しかもあふれてくる光には。決まった形がそなわっています。その形を持った光の動きを、自分の内部に見ていると、それが流動する心の運動を、直接的に映し出しているようにも思えてきます。

芸術の資源と称されるものの多くに、特定の図形のパターンの描出とされるものが見られたり、それらが内部視覚で発見される図形と酷似しているのは、ラスコーの壁画以外の場所で、やはり新人類たちが、心をのぞき込み始めたからかもしれません。

・・・「流動的な心」とでも呼ぶべきものは、そのままでは、人間にとって、とてつもなく強力な武器にもなると同時に、自らを滅ぼしてしまう、自爆装置にもなるのです。

「流動的な心」のなすがままにしておくなら、人間というものは、持続的に存在することはできません。・・そこで、人間は、その共同体を存続させるために、ある方法を編み出しました。・・・

それが、言語によるコミュニケーションだったのです。

どんなまともな人も、心の内面にはまともでないものを抱え持っています。・・・ホモサピエンス・サピエンスという生き物の心の構造そのものが、社会的コミュニケーションにとっては、まことに「まともでない」動きを示すのです。社会が必要とするものから過剰になってしまい、自分を限界づけ制限づけるものを超えて行ってしまおうとする、自由な「流動する心」の働きが、誰の心の中にも活動しているからです。・・・

…言語の基本構造は同じで、それが人類の「狂いやすい心」を制御して、合理的な心の運用を可能にしているのです。

そんなこと言ったって、なんでもユーザーインターフェイスだし、VAとか出てきて、ますますノンバーバルコミュニケーションが主流になりつつあるでしょう。「流動的な心」ね。怖いね、人間って。やっぱり、言葉でちゃんと言いましょう。【桃と紅茶】

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