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古池やかわず飛び込む水の音

morihanana様 本日の記事にリンク貼らせていただきました。問題あればコメントでお知らせくださいませ。修正いたします。<(_ _)>

上記記事の 静心と あられこぼし という言葉を見て、脳を刺激されました。少し話が飛びますが、私、昔、中国で日本語教師をしていました。日本で大学卒業後に東京で働きながら日本語教師の養成講座に通っていました。その時に学んだ知識ですが、母語話者であっても、その言語には 理解言語と使用言語があり、理解言語数>使用言語数 となるのが普通です。つまり読んだり聞いたりする時には理解するけど、自分では使わない言葉がある。

静心は 完璧に理解言語でした。意味は見ればわかる。しかし、普段は使わない。そして、あられこぼしは 日本人だから説明を受けずにこの言葉を見たら、朧げにイメージはある。しかし、説明を見るまでそれが敷石を並べる技法だとは知らない。説明を受けて敷石技法だと理解したが、それがどんなふうに並ぶものなのかわからない。

調べてみました。このリンクで見られます。

そして、この理解言語のギリギリなところにあった言葉とそれで語られた情景が、自分にとっては古くて新しかったわけで、しみじみしました。

日本語教師だったくせにこういう趣深い日本語はとんと知らず、しかし、よい。よいなぁ。こういう言葉は良いなぁと思う。それから、俳句というのは、自分はよく知らず、なおかつ、今後自分が俳句を捻るような典雅な計画はありませんが、俳句をよく知らないワタクシが、感覚のみで芭蕉の有名な句について語ってもばちは当たらないだろうと本日の記事を書いている次第です。

古池や かわず飛び込む 水の音

これに感じ入る小学生がいたらやだなと思う。普通は小学生がこの句を見せられたら、カエルが池に飛び込んだから、だからどうした?と言って、さっさと遊びに出かけてしまうだろう。

こんなものわかるわけないと思って別にこの句がわからなくても生活に支障はなく生きてきました。有名な俳句だから知ってるけど、知ってることを忘れて生きてきた。

俳句は私にとってなんだか難解だし、ちょっと苦手なものでした。それは今思うに、私なりの表現を許してもらって表すなら、クローズドな世界だったからかなぁ。書き手の気持ちとか立場とか心、それどころか気配を感じないですね。

絵について思っても、子供の頃は静物画を見るよりも、人物画が好きだった。日本画や水墨画の自然を描いたものなんて、全く興味はないし、水墨画の白と黒しかない世界の地味さも嫌いで、世界には色があるのに、なぜ色を使わない?と思っていた。それと共通したつまらなさというかわからなさだったと思います。

芭蕉が何を思っているのかさっぱりわからないままで、芭蕉が言葉で描いた情景の中に自分とカエルと古池と閉じ込められてしまう。

しょうがないから、池の淵にかがみ込んで、自分の心と向き合うことになる。

これがクローズドの文学の表現なのかなと思います。作者の気持ちとか立場とかがほぼ無に近いほど出てこない。

こういう作品に対する私的な解答は、見る人によって意味の変わるものなのではないかということです。そういう意味では解釈を読み手に委ねているという点で広がりがある。

俳句に限らず文学的作品全般に対していうと、このクローズドにも絞り具合のようなレベルがあって、絞ってはいるのだけどヒントのようなものが作中にあり、そのヒントをもとに自分なりの解釈をするのが文学の楽しみでもあると思う。その中で俳句というのは最大級に絞っていると思うのです。解釈のヒント、背景知識ではなく言葉の中にありますか?

芭蕉などといえば、その背景を含め研究されているわけですから、その研究成果を読みながら味わうという手もあるのでしょうが、私は研究者ではないから、我儘に我流で感じて終わろう。

私にとって、俳句というのは、日本人共通の心の原風景を言葉で描いたものだ。もちろん日本人共通ではなく人間としてその風景に何か感じずにいられない、心を揺さぶるものなのであればそれもまた俳句なのだろうと思う。

写真でできることを言葉でやる。しかし、一流の場面というものはそれをシャッターでもって切り取るのであれ、言葉であれ、簡単にできるものではない。道具とか動作の問題ではなくて、美を感じ取る感性を持ち合わせているかの問題であり、それができるのであればそれがカメラで持ってなされるのであれ、言葉でもってなされるのであれ、非常によく似た行為なのだと思います。

風景を見て、そこに心を感じることがある。風景を絵で描写するのであれば、そこで使用する色彩に不思議と心がこもるものだし、それに、描かれた絵を見た人もまた絵を描いた人と全く同じではないけれど近い感情を抱く。

風景を見て別々の人間であってもある共通の嬉しいとか悲しいとか寂しいという感情を抱くのは不思議なものです。それは人間がきっと自然と繋がって生きているからだと思う。日本人は昔から四季を感じて日々を暮らすことを大切にしてきました。だから、俳句には季語があり、季節を表すという型を持っているのだと思う。

芸術というのは、不特定多数の共通認識を形に表すことでもあると思う。そこで、それはどんな人たちの共通認識なのかという命題が現れるわけですが、日本人だと思います。民族とは何で繋がるのか?それは文化という共通認識で繋がっている。

日本人である私たちの心の中には、似通った風景が流れている。私たちはそれで無意識に繋がっているわけです。それを芭蕉は具現化しているのだと思ってます。ただ思い出すだけで心を蘇らすほどの強烈な原風景というものをきっと私たちは持っている。芭蕉の句は時間を超えて今でもそれを私たちに見せている。

静謐にして永遠

日本人は静の中に動を見る、独特の文化を内に持っている。そんな難しいこと言われても分かりませんという必要はない。勉強して理解するものではなくて、それは感じるものなのです。

どんなに都会に暮らしていて、毎日を忙しくしていても、人間は自然と共に生きているものです。四季を感じる心を失っては生きていけない。体が元気でも心が元気を失ってしまう。

人間は時間に追われて生きていて、いわば時間の奴隷なわけですが、日常の時間の流れを一旦止めて、一時的にそこから連れ出してくれる、それが、芸術作品ではないかと思う。そうしなければ、人間は 感じる ことを忘れて生活しているものです。いちいち様々なものに感じいって生きていては、時間が無駄なものですから。

蛙が池に飛び込むからって、それがいくらになるんですか?芭蕉さん。
お前のその心の余裕のなさを池に映してごらん。

たった1秒にもみたない時間すら止まれない自分。ぽちゃん、蛙が飛び込む音が聞こえたではないか。静かな池のほとりで蛙の飛び込む水音すら聞こえる。それを耳に味わう心の余裕が生まれたか?

最後に蛇足になるが、自分が俳句のようなクローズドの表現が苦手である点と、それにまつわるエトセトラ。俳句、短歌、詩、小説、色々な表現技法があるが、小説に関していえば、オープンとクローズを使いこなすことが有効であると思う。つまりは、最初っから最後まで主人公が自分の心情を地の文で、あるいはセリフに載せてがなり立てる必要はないということだ。

パターンは色々あると思うが、例えば冒頭から物語の始まりではクローズドから始まり、登場人物が何を考えているのかよくわからないまま風景や情景が描写されても良いということだ。

曇り空を描写されれば、そこに憂鬱を感じたり、雨の日に子供が赤い長靴を履いて横を駆け抜けていけば、賑やかな何かを連想するかもしれない。大事なことは私たちは機械ではなく人間なのだから、何を見ていても何をしていても本当は色々なことを感じているのだけど、忙しいのでその機能をオフにしている。別にそれはそれでいい。普通の毎日を必要以上にドラマティックに生きる必要などない。ドラマじゃないのだから。

ただ、小説を書く人はそれではいけません。がんばれ自分。苦手な情景描写、頑張りましょうね。

2024.10.21
汪海妹

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