そもそも内省って。

 まず自分の使う「内省」の言葉の意味を定義してみる。

 読書をするにしても、研究内容を考察するにしても、頭の中をいっぱいいっぱいにして1人で深く深く潜っていくことを内省としている。時間が足りないなんて感じることは、この時くらいで、「ぼーっとしてみて」と言われてみても、ぼーっとってなんだ。みんな、常に何か考えているわけじゃないのか?みんな歩きながら何考えてるんだ、何も考えてない時間がある人もいるらしいが、逆に考える時は何を考えていて、考えないようにするきっかけは何だ?(以後省略)といった風にすぐ分析にいってしまう。よくいえば分析、考察。悪くいえば、無駄なことを考えすぎだとも思う。

 つまりは考えることが大好きで、そして欲を言えば、似た様に考察が大好きな人とお互いのテーマを持ち寄って、意見を共有し、考察を深めたい。そして精神的満足感を得たい。

 具体的に今までに誰かと共有したテーマについて忘れっぽいなりに思い出して書いてみると、浮気性は幼少期の両親との交流不足に遺伝するか、両親の離婚は遺伝するか、性分という言葉があるくらいだが性格形成は先天的か好転的か、他人に興味がないほど優しくなれるか、他人に期待する人の心理とは、日本は日本人のためだけにあるべきか、圧倒的指導者ではなく神としてAIを立てた場合の社会主義は実現可能かなど抽象的な話題が多かった。ただ僕が欲求不満だと感じているのは、大して中身は深まらず、既に自分が考えていたことが再現するばかりで、面白みがない、新しい意見を混ぜて議論を深めたいけど隔靴掻痒の思いだった。結局は、皆が皆、こういった話題に興味がある訳ではないので、まあいっかと空気を読んで打ち切るのが常だった。

 しかし、今書いていて思ったのは、自分はかなり傲慢だったのかもしれない。僕が相手に望んでいたのは、まるで僕が何度も何度も繰り返し読んだ本を持ってきて、はい、みなさん、今すぐここで読んでもらって、その後には感想を語り合いましょうなどと言ったチープで暴力的なものだったのかもしれない。

 それでも世界には3人同じ顔がいるみたいに、世界には似た様な思考も存在していないだろうか。考えるに値する深いテーマを持ち合わせているのは、常々1人で考察に耽っている人ではないか。たまたま周りに居ないだけで、自分と似た質の人と会って話をしたら、即座に答えが出る様な内容ではない深いテーマであろうと楽しめるのではないだろうか。



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