京都・街の湧水13

43本願寺北山別院の聖水


 比叡山で修業中の29歳の親鸞が、山から下りて都にある頂法寺「六角堂」に百日間参籠(さんろう)した際、登り降りの途中で心身を清めたとされる本願寺北山別院の古井戸「聖水」は、本堂裏の山から浸み出した山水をためた「閼伽井(あかい)」の水だった。

扉を閉じた聖水の閼伽井。右の石は聖徳太子の霊が現れたという影向(ようごう)石
聖水のいわれ書き

山から浸み出した水

 山から浸み出した水を集めた「閼伽井」は北山・高雄山の神護寺、東山にある泉湧寺(せんにゅうじ)、泉湧寺塔頭(たっちゅう)の来迎院「独鈷(どっこ)水」、松ヶ崎山の山すそにある「桜井」、西陣の観世水、宝塔寺塔頭・大雲寺と圓妙寺など深草の寺にある古井戸とほぼ同じ造り。命をつなぐ生活に不可欠な水を求めた古代から続く古井戸で、文化財級の歴史遺産だと思う。
 閼伽井にもいろいろなタイプがあり、山から浸み出した水をためる浅井戸にも2通りある。崖や山肌の横に掘った後に底を幾らか深く掘った井戸▽縦に2、3㍍掘っただけの穴井戸。いずれの穴も底や掘った土壁に人頭大の石を置き、土壁が崩れないようにした。山からじわじわ浸み出す閼伽井のほかに、掘った井戸から水が湧出する水量豊富な閼伽井もある。

池の奥に聖水がある

井戸は扉の奥に

 雨降りの2023年2月24日、叡山電鉄出町柳駅から3つ目の一乗寺駅を降りて東に向かい、本願寺北山別院を訪ねた。聖水は本堂の左手、聖水保育園のわきの細い通路沿いの山すそにあった。観音開きの井戸の扉が閉ざされていて、井戸の中を見ることはできなかった。
 職員に電話で聖水について聞いた。「事務所に寄って、職員に声をかけていただければ、井戸の扉を開けます。園児が入らないように柵を設けて門を閉めています。浅く掘った井戸で山から浸み出した水がたまった井戸。10年ほど前に保健所の水質検査で『飲まないように』といわれ、以来、だれも飲んでいない。手を洗うだけにしている。それ以前は柄杓(ひしゃく)を持って飲みに来る人がいた」と話した。

聖水の周囲は柵が設けられ、鉄製の扉がある

 井戸は鉄製の扉が閉ざされていた。わきに「高祖大師聖水」の石柱があった。右手に聖徳大師の霊が現れたという影向(ようごう)石があった。井戸のわきにこじんまりした池があって、満々と水を蓄えていた。池には聖水や山水が注ぐという。井戸周り全体が囲いの中にあり、囲いの扉は常に閉ざされている。

心身を清めた水

 本願寺北山別院はかつて「養源庵」という天台宗の寺院だった。1680(延宝8)年に浄土真宗本願寺の「北山別院」となった。親鸞は9歳で出家して比叡山にこもったという。

聖水山」本願寺北山別院。樹木が茂る裏手の山から浸み出した水が聖水となる
山号「聖水山」の額が掲げられる本願寺北山別院

 聖水のいわれによると、親鸞が比叡山で修行中、「世の人々を救うには」と苦悩し、京の中心部にある聖徳太子ゆかりの救世(ぐぜ)観音を祀(まつ)る頂法寺「六角堂」に百日間通った。六角堂に向かう途中にこの場所に立ち寄り、心身を清めたという。
 推測だが、水を浴びるだけでなく、湧(わ)き水を飲んで鋭気も養ったと思う。比叡山に帰る際にも険しい雲母坂(うんもざか)を登る前に立ち寄って休息したという。

44松明殿稲荷神社・木食上人の井戸


 無人で円形の井筒の古井戸があった。手水場は蛇口をひねると水が出るようになっていたが、蛇口をひねる栓が外されていた。水盤にも水がなかった。神職はいなく、管理している人も不明。

江戸時代に木食上人が掘ったという井戸
松明殿稲荷の手水場。蛇口はあるが栓が外されて水が出ない。水盤も空

  伏見稲荷の境外末社なので、伏見稲荷の事務所に電話で問い合わせしたところ、「末社は管轄外で、だれが管理しているか、井戸の呼び名、水が飲めるのかどうか何もわからない」と言われた。
  松明殿稲荷神社は鴨川左岸際、七条大橋の西詰にある。鴨川ぎわにあるので伏流水は豊富。江戸時は現在より川床が高く、土手ぎわを2、3㍍も掘れば水が湧(わ)いたと思われる。

松明殿稲荷神社。すぐ左を鴨川が南流する

 江戸時代、鴨川に架かる七条大橋は伏見稲荷と祇園社の”縄張り“の境界線だったという。江戸時代の「都名所図会」では、伏見稲荷の春の稲荷祭りの際、神輿(みこし)が七条大橋まで来ると、里人が松明(たいまつ)をかざして迎えたという。松明殿はここから名付けられた。伏見稲荷の方が人気があったようだ。伏見稲荷の神輿は現在、京都駅八条口側にある御旅所に寄るだけで松明殿神社には立ち寄らない。

松明殿稲荷神社のいわれ書き

木食上人が寄贈

  井戸は円筒形で石組みした丸井戸。手水場のわきに、1752(宝暦2)年夏、「木食(もくじき)正禅養阿上人」が井戸を掘り寄進したという板書があった。
 木食上人は丹波国桑田郡保津村(現在の京都府亀岡市保津町)の生まれ。24歳で出家し、高野山で修業。五穀を断って木の実と草だけを食べる木食行を行った。木食養阿(もくじきようあ)とか木食正禅ともも呼ばれた。
 念仏聖として都に入り、行き倒れた人らの無縁仏を供養。その後、北山の「狸谷(まみあな)山不動院」で木食行に入った。その後に流浪。松明殿稲荷神社で井戸を掘ったのはこのころと推察される。

木食上人寄贈の井戸を知らせる板書

 上人は1763(宝暦13)年、京都市東山区五条通東大路東入遊行前町にある安祥院で即身仏になった。安祥院は1725(享保10)年に木食上人が再興した。安祥院の地蔵尊は「日限さん」といわれ、日を限って祈願すると願い事がかなうと信じられている。

45明王院不動寺の不動明王水

 下京区河原町松原の松原通りに面して明王院不動寺がある。北と西にある入り口の角に手水場があった。水が出ない日が多いが、訪れた日は細いパイプから少しだけ水が出ていた。井戸水なら手洗いだけでなく原則、口に含むか飲むことにしているので、少ししか出ない水を柄杓(ひしゃく)にくんで飲んだ。

明王院不動寺の水盤画が乗る古井戸。水盤の左にある細いパイプから水が出ているときもある

 井戸は小さな井桁(いげた)に水盤の蓋(ふた)がしてあり、井桁の周りをさらにコンクリートで囲ってあった。空海(弘法大師)自らが霊石に掘り刻んだという不動明王を「井の底に封じた」と伝えられる井戸かどうかは不明。いつも事務所にだれもいないので聞くことはできなかったが、井戸は一つしかないのでこの井戸と当て込んだ。底に不動明王があると思うと、なにやら神妙な気持ちになった。

明王院不動寺
明王院不動寺のいわれ書き

 寺伝や寺のホームページによると、823(弘仁14)年の創建。空海が嵯峨天皇から教王護国寺(東寺)を賜り、東寺の鬼門(東北の方角)にあたる、この場所で霊石を見つけた。霊石に自ら不動明王を刻み井戸深くに沈めたという。
 室町時代の1467年から10年間続いた応仁の乱で堂宇が焼失。寺は江戸時代に真言宗から浄土宗西山派に改宗した。現在の本堂は1764(明和元)年に建立された。不動明王は現在も井戸の底に封じられたままだという。(続く)(一照)

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