重ね絵

    ただ現実の世界を生きているだけで現実感覚が狂う───人は会話やあるいは創作物などにおいて、簡単に「殺す」とか「愛する」とか、そういったことを語ることができる───物騒な話題も冗談として語ることができ、楽しく笑い合うことができる───もちろん冗談とは本来現実の中で現実から遊離したことを楽しむという前提があるからこそ意味があるのであり、そのような意味を暗黙の内に認めるところから表されるものなのでしょう。しかし、この世界で私の視野がこのような冗談で溢れかえっていて、私の現実感覚は狂っていく───。

    冗談をそのまま冗談と認めることのできない私は思うに心の余裕がないのだと思います。私は自分の周囲にありふれている冗談に対して微妙に距離を感じています。冗談を楽しむことができる人は常に視野が広く、一見軽薄そうに見えても、様々な物事との距離のはかりかたが上手なように思います。加えて、他人の思惑を自分の内に受け入れるような共感する能力に長けているのではないでしょうか。しかも、そういった人は周囲に対しては常ににこやかな表情をしていて、少なくとも窮屈そうには感じられません。私にはそういった感受性が欠けているように思います。私の場合を内省してみると、私は常にこの現実の相をそのままに受け取るのではなく、何か別の情景と重ね合わせてしまっているのです。そして、その情景が悲観的なものであればあるほど、私はこの世の中にありふれている冗談に耐えきれなくなってしまうのです。

    しかしある時、冗談に溢れた現実から逃れるように一人で物思いに沈んでいると、また違った冗談のような情景を見ていることに私は気づきます。それは実際に現実の時間を生きている時には全く実感できない雰囲気であり、存在することは認められても、私の意識の対象にはできない感情です。

    少しの冗談であっても、それらが過ぎ去った思い出として重ね合わされると、まるで真剣に冗談を言っているように見え、悲しく感じます。また逆に過ぎた日の真剣な約束も軽い冗談のように感じられてしまうのです。取るに足らない冗談で笑い合ったり、傷つけ合ったりした親しい人が次の日にはもうこの世では会えなくなってしまったとしたら、下らない冗談の記憶が最も悲しく暗いものになり得ると思います。もし親愛なる人物が時空を超えて、その時に遡って、真剣な眼差しで接し語ったとしても、しかしそれこそ冗談として一笑に付されてしまうことでしょう。相手の目を見つめて、相手の肩に触れて、互いの心を向き合わせるように要求するならば、その思いはむしろ怪しげで大袈裟な態度と見なされてしまうかも知れません。

    現実の世界を生きている内には決して感じ取ることができない、それらの重ね絵を見る度に私には本当にその情景が生き生きとしたものに見えるのです。そして、それは私にとって楽しさや喜びとしてよりも、何より悲しく感じられるのです。

    とはいえ、いつも悲しい感情を抱いて、その感情に従って周囲に接するのも、それこそやはり滑稽な冗談に違いないのかも知れません。悲しみの感情もそれが時と場を弁えることがなければ、空虚でむしろ悲しみとは逆の感情を周囲に催しかねません。私は冗談をあまりにも真正面に捉えすぎていて、その多様な面を見失いがちなのだと思います。

    そのように身の回りの冗談に対して、自分の感情を整理していこうとすると、ある感覚に突き当たります。それは、もしかするとこの世界は全て冗談のようなものなのではないかということです。世の中には楽しい冗談があれば、悲しい冗談もあります。時にはある冗談を受け入れがたく思うこともあります。しかし、それらは全て同じく冗談なのではないかと私は考えつつあります。私は少なくとも悲しみや苦しみを伴う冗談は避けたいです。楽しい冗談だけがあれば良いと思っています。ですが、それらも全て冗談なのだと現実に感じる時がいつか私には来るだろうと思います。私は身の回りにありふれている冗談によって物事にどのように接すれば良いのかわからなくなるときがあります。真剣に受け取ることも愚かで、軽く扱ってもその後に後悔してしまうような現実に私はどのような態度で向き合えば良いのでしょうか。このように考えても、現実にはあまり意味がないかも知れません。これまで誠実に生きてきた日々もいつか冗談のように感じられる時が来る───けれども、ただ今はこの現実の重ね絵を見つめていたいと私は思います。