形のない偶像

 薄暗く狭い部屋の中に寝転がって天井を見つめる───暫くその体勢を維持していると、その天井はまるで物言わぬ人の顔のように見えてくる───私は自分の思考が行き詰っているのを認めて、それを解きほぐしていきたいと願い、枕に頭を載せて、目を閉じて、ゆっくりと呼吸することを試みる───横たわって目を閉じてみると、自分がそれまでどれだけ気張っていたのかが良く分かる───手のひらを開くと自然と身体全体の力が抜けていくように感じられる───。


 私は自分の方法にもう少し意識的になれたならと思うことが少なくありません。私の随筆はこれといって形式などは気にせず自分の思いを綴っているに留まるものであり、体系的な構築性などは最初から度外視しています。これには自由な発想がのびのびと表現できる強みがありますが、同時にしっかりと自分の感情に自覚的でないと、それをいつまでも引きずっていってしまうことになりかねないと私は自分の経験から思います。私が体系性を意識していないようでも無意識の内に自分の固定観念が働いていて、それに気づくことができない状態を続けてしまうのです。


 私は生活の様々な場面───職業、食事、衣服、趣味などにおいて自分の中で無意識にこうでなくてはならないという漠然とした抽象的な偶像を仰いでいて、そこから離れられません。少し理性を働かせれば、そういったことが自分の思い通りに進展することなどごく稀であり、過去を振り返ってみても、それが叶ったことなど多くはないことはわかりきっているはずです。しかし私はその偶像を捨てられないでいます。それは私のこだわりと言っても良いものだと思いますが、意味や理由については明快に答えられない抽象的で不可思議で強迫的な謎です。


 思うに私は自らで無意識に基礎づけてしまっているものの上に自らの存在を確保してしまっているのですが、それに逆らうにしても、根底に形のない偶像を崇める感情があるので、何か自分の固定観念から離れてみようとすると自分自身を否定することになってしまい、どこかしこりが残ったり、自分に合わないことをしたりしているように感じられてしまうのです。


 それは一方から言えば、真実ではない状況に甘えているということなのですが、私にはこれから抜け出す方法がわかりません。自分のことであるはずなのに、自らが漠然と想像する抽象的な偶像に身を委ねてしまっていて、自分自身を放棄してしまっているのです。一般的な意味での偶像とは形のないものを自己の私利私欲のために思い通りの形にして、占有する行為だと思いますが、私にとっての偶像とは形のないもの───つまり観念であり、自分自身の中で思い描いている像から逃れられないということなのです。自分で作り上げた形のない偶像に強迫され、それに苦しみながら、崇め従うことは滑稽でしかないと私自身でも理解しています。どうして強迫してくるような偶像を崇めているのか、と───。しかし、その偶像を破壊しようにも、それには形がないので私にはどうにもなりません。あってないような自分自身のあるべき姿を自ら作り出し、崇拝する循環となってしまうのです。


 結局のところ、このような文章を書いたところで、何も変わるはずがないのだけれど、今日のところは私の率直な思いを文章として記しておきたいです。そう願い、この文章を書きました。同じ感情を繰り返すことがあっても、一度書き記すことで、もう同じ文章を記さなくて済む───私はいつでも自らの文章を読む人でありたい───私が偶像に強迫されることから逃れられないとしても、そのように考えることで、また一つの視座が私自身の内にあって欲しいと祈ります。