解体の芸術

 街を歩けば、いつのまにか見慣れた景色も変化しつつあるのだと感じます。ふと思い出した大きなお店も少し見ない間に建物ごとなくなってしまいました。今のところ、その土地に新しい建物ができるようには見受けられませんが、いつかまた目を離している間に大きな看板を立てるお店ができあがっているかも知れません。私が注意を他に向けている間にも、身の回りの風景は変わっていくのだと分かります。何かが作られては壊されて、確かに思い返してみると、自分が行くところでは何かしらの工事の音が響いているように思います。時には私が歩く歩道に面した建物を大きな重機を用いて取り壊していることもあり、工事作業をする人───特に重機を操る人は私が何の気なしに歩いている側で緊張感を持ってお仕事をされているのだと思います。現代は人が密集する場所においては天空や地下に建物を作らないと、密度が高くなってしまうので、こういった作業をする時に、大きな建築物はより大変だろうと素人ながら想像しています。

 高層建築がその役目を終えて、取り壊される時、その取り壊し方に細心の注意が必要だと言います。高層建築を四角柱として考える際、空に向かって建物は伸びていくことになります。それを例えば、森林の丸太を切るように取り壊すとどうなるでしょう。木の倒し方にも色々とありますが、支えがなければ、おそらく一方の方向に向かって、凭れ掛かっていくようにして倒れていきます。もし、それを街の高層建築物にも適用した場合、周囲の建物に倒れて、それらは大きな被害を受けることになるだろうと想像できます。

 ある方法によると高層建築の解体の際には、爆弾を配置して、建築物の面積から瓦礫が崩れ出ることがないように計算をして、取り組むようです。私は高層建築の解体の様子を映像で観たことがありますが、一瞬の内に轟音と煙が巻き起こって、すぐその後には瓦礫が大人しく佇んでいるのでした。それは観ていて、とても爽快で気持ちが良いです。ついさっきまで力強く直立していた物が全体の関節を打たれて、力を失ってしまうのです。

 しばしば物を作り上げることには様式や作法があり、そういったものが美しいとされることもありますが、何かそれまで崩れることが信じられていなかった物が綺麗に崩された時には物を作ることと同じくらいの芸術性を私は認めてみたいものです。

 物事には作り上げることと同様に解体の様式や作法もあるのではないでしょうか。何かを破壊するのにもただ闇雲に粉砕しようとすればよいのではなく、然るべき手順があるのだと思います。もしそういったことを意識せずに解体するならば、壊さなくてよい物まで壊してしまうことになりかねないことを私は建築物の解体を通して知りました。また私はこれを一歩推し進めた観点から、自分にとっても、相手にとっても納得ある形で物事を解体することは感動を生むこともあり得ると考えています。もし人と人との間に大きな壁が立ち塞がったとして、それをただ壊したとしてもまた別の壁を作り上げることになるかも知れません。しかし物事の特性や質、重心などを見極めながら、解体するならば、もしかしたら二人を隔て悩ませた壁は瓦礫一つ残さないかも知れません。それは人と人との間に新たな結びつきを作り上げるという意味で解体の芸術なのだと思います。