1G(ワンジー)の話(5/13の日記)
散歩でもしてやろうと、1万歩歩くことを目標に部屋を出た。本屋さんに寄ってまた本を買い、いつも通らない道をぐるっと遠回りして部屋に帰った。途中で日の当たらない道のヘリに見たことの無いキノコを見つけた。
帰ったキッチンで黒い影が動いた。そっちを見たら、結構大きな黒い影が、私と目が合ったように動きを止めた。思わずヒィィィィ声をあげてしまった。力なく、情けない声だなと思った。
「1G」とはつまりそいつのことだ。
10数秒こうちゃく状態にあったと思う。部屋に奴が出るのはこのたびが初めてだったので、特に武器や防具を持っていなかった。手頃なものが無かったので、目に付いた制汗スプレーを吹き付けたら、電子レンジなんかを置いたラックの下に入り込んでしまった。
ここまで読んで気分が悪くなったらそっとこの日記を閉じてほしい。もうしばらく続く。
夜中でもう退治グッズを売っているお店はどこも閉まっていたので困った。「困り」より大きく「恐怖」が覆い被さっていた。「畏怖」と言った方が正しいかもしれない。
ビクビクしながら家族にLINEを送った。母親が「退治した?」「今度スプレーとホイホイ買いに行きなさいね」と遅くまでやりとりに付き合ってくれた。私の部屋まで奴を叩きにきてほしかったけど、そういうわけにはいかないと分かっていた。「私に殺生は無理」と返信してため息が出た。一人暮らしが嫌になった。生活の全部が段々嫌になってきた。
椅子の上でじっとしていたら奴がもう一度姿を現した。見つめ合ったりスプレーを噴霧してみたり、触覚をぴこぴこさせるのを見たりしたけど、やっぱり私には叩けそうになかったので諦めた。
恐怖が少し落ち着いてきたのでちょっとずつ近寄ったら奴は玄関まで歩いて行った。どうかそのまま動かないで、と思いながら靴をどかしてドアの鍵を開けた。奴のために道筋を作ったら、お行儀良くそれに従ってドアの外に出て行ってくれた。客人じゃん、と思いながら急いで鍵をかけ直した。今晩はとりあえず休めそうだと思った。本当にそうか…?とも思った。布団に入ったけどしばらく眠れなかった。一冊小説を読み終わってしまった。時々奴や、奴の仲間のことを考えて文章と別のところに意識が飛んでいた。
明日は散歩のついでに絶対にスプレーとホイホイを買いに行こうと計画を立てた。結局行かないのだけどそれはまた別の話だ。
私はこういう畏怖だって忘れるポンコツなのだ。いい気味だ。
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