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家族日帰り旅行

「もしもし、ちょっと落ち着いてきいてほしい 」大学院生の次女さんにこう切り出して電話している姿を動物病院の医局で見たのは8月初め頃だった。俺コソは、動物病院の医局が生活の中心なのだ。たまに裏庭や受付で寝転んでいることがあるが、病院での出来事にはかなり詳しい。
次女さんは、驚いただろう。元気に毎日働いて、日曜日は海の上で釣りをしている父親のイメージが強いので、とても病気と結びつけるのは簡単なことでは無いだろう。だから院長から「悪性腫瘍の可能性が高く、どうやら骨転移もしているようだ」と聞かされた時はおそらく冗談で言ってるのか?と思ったかもしれない。もし冒頭の「落ち着いて聞いてほしい」と言う前置きがなければ。
院長はよく喋り、冗談や親父ギャグなどもよく言う方だ。病院内でもスタッフの迷惑を顧みず一方的に話しかけていることが多い。多忙なスタッフは聞いているふりをしているが聞いていないという光景を見ていて哀れに思うこともある。そういう院長に似たのか次女さんは割とよく喋り、冗談やイタズラが好きである。あるエイプリルフールの時、副院長に「家賃を払い忘れてて今月で部屋を出ないといけない」と電話してきたことがあった。副院長はその言葉を信じて慌てふためいて院長に「どうしよう、どうしよう」と伝えたところ院長が「えーと、今日は何月何日?」と答え副院長がやっと嘘だと気づいたということがあった。院長は最初から分かっていたようだったが。
でも、今回の電話は冗談ではなかった。次女さんもことのシリアルさに言葉少なめだったようだ。「とにかくお盆には帰る」と伝えてきた。
この頃の院長はまだ正式な病名結果が出ていないにも関わらず、自分は死ぬのではないかという恐怖と寂しさと戦っていた。もし、本当に死が近いなら少しでも家族との時間を大切にしたいと思い、次女さんが、帰ってくるのを機に日帰り旅行を計画した。計画は割とすんなりと行き先が決まった。というのも院長の海好き魚好きと、長女さんの魚好き(海洋学部に在籍していた、魚に関しては院長より詳しい)孫の水族館好きという迷う事無き理由から他県の有名水族館にきまった。実は以前から家族で日本中の水族館巡りをしようなんて言う話も出ていたくらい水族館は既に何ヶ所も行っているのだが。
ということでお盆に帰省した次女さんを伴って他県へ5人でドライブしながら、目的の他県有名水族館を目指した。ドライブ中、娘たちが小さかった頃車でいろいろなところに連れていった思い出が蘇ってくる。全てが懐かく感じられる。そしてそれさえもなくなってしまう死に対する恐怖が改めて感じられたりする。複雑な気持ちを抱えて水族館に到着。院長は足と腰が、痛いのを我慢しながら運転してきたが、家族には何とかその痛みを誤魔化し、さらに孫を肩車したり、背負って歩いたり少しでも普通に楽しもうとしていた。孫が喜んでいる顔はやはり1番嬉しい。
お土産売り場で真珠のアクセサリーがたくさん売られていた。院長は今日の思い出に今日みんなと一緒にここに来たことを院長亡き後も覚えていて欲しいという気持ちから副院長、娘2人になにか買おうとしたが3人からは「これからもいろいろなとこに一緒に行けるから、そんな最後なものはいらない!」と拒否されてしまった。それはそうだろう。院長が勝手に死ぬと思い込んでいるだけで、3人はそんな気はぜんぜんしていないのだから。
帰り道のサービスエリアで娘2人が並んで座って買い食いしている姿に、何となく感傷に浸る院長であった。
次の日も、家族で一緒の時間を過ごすため、地元のレジャー施設の花火を海上から見るのに、自分の釣り船で行くつもりでいたが、あまりの腰痛のため歩けなくなり断念することになった。やはり体の中に大きな問題が起こっている。その不安はますます院長の気持ちに影を落として行くことになる。

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