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悲しみの果てはあるのか

祖父の死の前後、私がもっとも難渋したことは、”悲しみの中和”だった。

祖父は去年の秋に施設内で転倒し骨折した。その骨折がきっかけで亡くなるに至ったのだが、入院中はせん妄がひどく、「敵が来る」「泥棒に襲われる」「戦わなきゃ」との発言を繰り返していた。状況を正しく脳が把握できず悪夢を見続けているような状態だったのだろうか。知らない部屋、知らないベッド、知らない人、痛い身体。祖父の不安、焦り、後悔、いろんなことを考えると遠くに住むこっちまで毎夜苦しくなった。

結局、超高齢であることや祖父の心身の負担を理由に積極的なリハビリを諦め施設に帰ることにした。戻った施設では見慣れた風景や顔馴染みの職員さんに安堵した様子だったという祖父の情報を伝え聞き少しほっとしたのも束の間、思うように動かない身体への焦りと認知面の低下は避けられず、坂を転げ落ちるように体力と気力を失い弱っていく祖父をリモート面会で見るだけの日々。大切な人の大変な時に、直接会って、手を握って、「大丈夫だよ」と言ってあげることもかなわない。結局、面会を許されたのは今際の際だった。

そんな状況でもなるべく自分も相手も悔いが残らないようにさいごのさいごまで行動したつもりだったけれど、後から思えばやはり後悔ばかりなもので。本当に今の状況ではなにもかもが「しょうがない」としか言いようがないけれど、やっぱりしょうがないことにはできなくて。でももういない人には何もしてあげられないのだ。

お葬式が終わり、それぞれの日常に戻っても、その日々の中に喪失と後悔が溶けて混ざっている。今まで見ていたはずの景色と、祖父を失ってからの景色が二重に重なってガラス越しに見えているよう。晴れた空、鳥の鳴く声、春の気配、綺麗な夕日、そのすべてに死が潜んでいる。ラジオを聞いてもテレビを見ても言葉が音になって耳元でわんわんと鳴っているだけ。悲しみから逃れたいのに、唯一隠れ蓑にしていた人は既に失われてしまった。もう何処へもいけない。

どこへ行けばいいんだろう。

生前から続いていた不安が今際にピークになり、死後はもっとひどく重い悲しみがずっとついて回る。一瞬たりとも解放してくれない。忘れたいとか無くなってほしいとは思わないけど、とりあえず一瞬でも、悲しみが薄まらないかな。遠ざけられないかな。…助けてほしい。だれか助けて。「もう無理もう無理。」と、スーパーの片隅で呟く自分に、アッ限界、と思ったとき思い出したのが、小説の一文だった。

辞世の句はなかった。悲しいフィナーレもセンチメンタルな音楽も、効果音やスモークもなかった。人はただ花が枯れ、虫が地に落ち、肉が腐るように死んでいく。真夜中、医師が死亡を確認したときには、ぼくは心底ほっとした。ー「逝年」石井衣良

それからふと「活字なら読めるかも」と走るように本屋へ直行した。普段は読みたい本なんかすぐ思いつかないのに、その時は吉本ばななの「キッチン」を思いつき(某氏がしきりに勧めていたのを思い出した)、手に取り、最初の数行を読んで、今まさに読むべきでは?!と即購入した。結果、小説を読むことで幾分か気が紛れ、なにか心に沁み行くものがあり、「助けられた」という実感があった。

小説の他にも、霧散しそうな自分を支えたものがいくつかある。ひとつは、祖父とのさいごの面会の日の朝に見た「日曜美術館 / 疫病をこえて 人は何を描いてきたか」だった。今よりもっと昔、正体の分からない「疫病」や「死」に対しどのように向かい合い、乗り越え、表現してきたか。目に見えない苦しみと逃げられない現実とどのように折り合いをつけるかという非常に興味深い話で何度も思い出した。

もうひとつは、もし祖父が同じ状況に面した時、「彼ならどうするか」という想像。なんだそれ。でも祖父なら、大好きな祖父なら、こんな時、どう言うだろう。どう前に進んでいくだろうか?

私の中の祖父は

「それでも生きてる人は、生きていかなくちゃいけないの。」

と、言った。


結局、時間が解決する部分がとても大きいけれど、小説と芸術は個人の悲しみに寄り添い、それを拒むこともせず、ただ一緒に考えてくれ、物陰に隠れた死の影を少し薄くするのに役立ったと思う。あとは祖父自身が、やはり私を元気付け、いつも側に居てくれた、ような気がする。

悲しみを忘れるでもなく、封じ込めることもなく、そこにあるものとして、いまはまだその形を遠くから眺めている。


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