見出し画像

謎の女流棋士

女流名人リーグの意外な展開

第2次藤井フィーバーに沸く将棋界であるが、藤井二冠の絡まない棋戦ももちろん進行している。その中で私は、ある棋戦の勝敗にやや意外な印象を受けた。女流名人戦である。

現在では、ヒューリック杯清麗戦(優勝賞金700万円)、マイナビ女子オープン(同500万円)、リコー杯女流王座戦(同500万円)という高額賞金棋戦があり、これらの方が格上とされているものの、女流名人戦はもっとも長い歴史を持つ格式ある女流棋戦である。そして女流名人戦の特徴は、挑戦者決定リーグの存在である。リーグ参加者は全10名。前期タイトル戦五番勝負の敗者1名、前期リーグ戦2~6位の5名、そして高い競争率の予選を勝ち抜いた4名が総当たりで争う。「当たり」の運・不運がないため、このリーグで好成績を上げることは女流棋士にとって名誉なことである。

その女流名人戦リーグが進行中で、昨日(8/24)5回戦がすべて終了し、6回戦が始まったところである。ここまでの星取りは以下のようになっている

(タイトル保持者:里見香奈女流名人)
5勝0敗 加藤桃子女流三段
5勝1敗 伊藤沙恵女流三段
4勝1敗 ???
3勝2敗 鈴木環那女流二段
2勝3敗 香川愛生女流三段、渡部愛女流三段、山根ことみ女流二段
1勝4敗 室谷由紀女流三段、上田初美女流四段
1勝5敗 千葉涼子女流四段

リーグ入りしているのは普段よく勝っている女流棋士ばかりであるが、この中で4勝1敗、3番手の位置につけているのは誰だか分かるだろうか。西山朋佳女流三冠ではない。彼女は奨励会員で、この棋戦の出場資格を有していない。


正解は、加藤圭女流初段。本棋戦の予選を突破し、女流1級から女流初段に上がったばかりなのだが、リーグでも4勝1敗と快走している。

さて、コアな将棋ファンならプロの名前は全員知っているので、「加藤圭」という名前は聞いたことがあるだろう。しかし、この女流棋士について名前以上にどの程度ご存知だろうか? 

私が加藤女流初段の快走に気付いたのは、3連勝の時点だった。かなり意外に思った。なぜなら、加藤女流初段は20代後半に入ってからようやくプロ入りしたと承知しており、はっきり言って、近い将来タイトル戦線に絡むホープとは見ていなかったからである。プロ入りが遅い者はなかなか勝てないのがこの世界の常識である。昇段履歴と年度別勝敗を調べてみると、以下のとおりであった。

(昇段履歴)
2018年2月1日(26歳) 女流3級
2018年6月21日(26歳) 女流2級
2019年10月11日(28歳) 女流1級
2020年3月16日(28歳) 女流初段

(年度別勝敗)
2018年度 8勝10敗
2019年度 13勝7敗
2020年度 5勝3敗

初年度負け越したのであまり目立たなかったが、2年目は一気に盛り返して6つ勝ち越している。今年はリーグに入って相手が強化されたにもかかわらずやはり勝っているので、どうやら棋力自体が上昇基調にあると言ってよいだろう。非公式のレーティング計算サイトを見ると、ここ1年のレートの伸びは全女流棋士の中でダントツである。遅いプロ入りだが健闘している。

さて、このような客観的なデータ以外に私が何を知っているのかというと、実は何も知らない。「女流棋士の知と美」というイベントで記録係をやっているのを見たことがある程度だ。本八幡の「加瀬純一七段 将棋教室」などいくつかの場所で指導対局に来るらしいので、交流のある方はもちろんよくご存知なのだろうが(謎でも何でもないはずだが、ご容赦を)、私には直接の情報がない。どんな人なのか、なぜ勝つようになったのか分からない。『将棋世界』誌でも手元にある分ではうまく記事を見つけることができなかった。そこでネット上でいろいろと調べてみたところ、あるインタビュー記事が見つかったのである。

驚くべき経歴

何はともあれ、以下の記事を読んでほしい。日刊現代DIGITALの連載記事「喜怒哀楽のサラリーマン時代」で5回にわたって取り上げられている。2018年10月掲載の記事で、女流2級に上がったころのものである。これが、よくこんな面白い経歴の人を見つけたな! という驚きの内容である。

加藤圭さん<1>臨床心理士の夢がぐらついた思い出の名人戦
加藤圭さん<2>女流棋士を目指しつつ学童の契約社員に応募
加藤圭さん<3>発達障害の子供に噛まれたときは驚きました
加藤圭さん<4>将棋があったから上司の忠告も聞き流せた
女流棋士加藤圭さん<5>学童での経験が棋士活動に役立った
(日刊現代DIGITAL「喜怒哀楽のサラリーマン時代」より

将棋以外の仕事については記事を読んでいただくとして、棋歴だけを抽出してまとめてみたい。

1991年8月
出生
2001年~2002年ころ?(小4~5)
マンガの入門書を読んで将棋を知り、約1年間、ゲーム、ネット将棋などでひたすら指す。ゲームでは四段のレベルに達するが、急に熱が冷める。
<この後、10年以上のブランク>
2014年4月(大学院1年生)
羽生 vs 森内の名人戦を見て感動。「将棋倶楽部24」でネット将棋を再開。
2015年3月
アマ女王戦出場。初めて盤を挟んで人と指す。同年9月頃、女流アマ名人戦3位入賞をきっかけに、加瀬純一七段将棋教室に通うようになる。
2016年8月(24 or 25歳)
関東研修会(D1)入会。なお、女流棋士希望研修生は25歳以下でなければならず、また23歳以上はD1クラスに合格しなければならない。
2018年2月
女流3級(プロ入り)

いったいどうなっているのだ、というような珍しい経歴である。

まず将棋を始めるきっかけであるが、女流棋士の場合、父親が有無を言わさず教え込むか、兄がやっていたのでその影響でルールを覚えた、という例が多い。しかし記事に書いてあることが全てであれば、加藤女流初段は最初から全て自走である。親どころか、ネット上の対戦相手以外は他の人間も絡んでいない。マンガ、ゲーム、ネット将棋。ゲームとはいえ1年でアマ四段のレベルに達するとはよほどの才能か、よほどの熱中ぶりか、その両方か(ちなみに筆者の場合、アマ初段に達するのに約4年かかっている)。

そして10年以上が経ち成人した後、名人戦の将棋に感銘を受けて再開する。またもやネット将棋。アマ女王戦に出場するまでは「人と(盤を挟んで)対局したこともない」という徹底ぶり。1人で急成長、長いブランク、唐突な再開とプロ志望。将棋界の常識が全く通用しない棋歴である。

どんな将棋を指しているのか

経歴に関して判明したことは以上である。あとは将棋の内容だ。現在、「将棋連盟ライブ中継アプリ」では加藤女流初段のデビューから現在までの将棋全46局のうち、8局の棋譜を見ることができる。これを並べてみた。

戦法面では居飛車も振り飛車も指しているが、対抗型または相振り飛車であり、相居飛車の将棋はなかった。振り飛車では中飛車がほとんど、囲いは居飛車・振り飛車問わず穴熊が多い。中盤の戦い方では、大駒交換などの派手な内容になることが多い。大駒交換の前後に細かい工夫を入れて可能な限り得をするよう努めているが、局面が落ち着いた時点で損をしている状態だと、そのまま押し切られていたりもする。そんな内容である。

ところが、1つだけ全く内容の違う将棋があった。それこそ最も新しい掲載局、女流名人リーグ2回戦の山根ことみ女流二段戦である。

この将棋で加藤女流初段は「右四間飛車+エルモ囲い」という流行型を選択する。山根女流二段は、振り飛車党らしく、居飛車の角を成らせた上で捌きを狙ったが、この後の加藤女流初段の指し回しが丁寧だった。じわじわと馬を活用し、相手の捌きを防ぎながら大きな駒得を達成。最後は自玉に危険が及ばないことを見切り、一気に寄せての快勝である。

私はさっぱり分からなくなってしまった。派手な大駒の捌きが得意なのか、今回のような地味にリードを広げる将棋が得意なのか、将棋の内容が変わったのか。実質的な棋歴が短い棋士なので、まだまだ棋風変化の余地も、伸びしろもあるだろう。今年度から少し棋風が変わったのかもしれないが、この一局だけでは判断できない。既にリーグで4勝もしているという事実は、何かが変わったということを示唆しているような気もするが……。

本日、加藤女流初段は香川愛生女流三段とリーグ6回戦を指している。残念ながら棋譜中継はない。持ち時間(午前10時開始、双方2時間)からするともう決着しただろう。香川女流三段は奨励会や立命館大学将棋部で鍛えられており、女流棋士の中でもとりわけ厳しい将棋を指す棋士である。どちらに乗るかと言われれば香川乗りと言わざるを得ないが、ひょっとするとひょっとするかもしれないと思わせるのが今期の加藤女流初段である。

当面、加藤女流初段の棋譜や人柄について知るためには、女流名人戦の観戦記が掲載されるスポーツ報知でも買うほかなさそうである。ちょうど8月31日から9月6日まで、リーグ3回戦・上田初美女流四段 vs 加藤圭女流初段の観戦記が掲載予定である。スポーツ報知、コンビニで買うには適している。アダルト面やアダルト広告も廃止しているので、家に持ち帰っても気まずくなることがない。

謎の女流棋士、これからも目を離さぬようにしておきたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?