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永瀬と藤井とカレーライス

藤井聡太の過密日程もようやく一区切りつきそうだ。棋聖を獲得、王位に挑戦して2連勝、王座戦と竜王戦は敗退した。再開後の2ヶ月で14勝3敗。期待以上の好勝負、想像以上の好手に満ちた幸せな2ヶ月だった。中でも素晴らしい戦いとなったのが棋聖戦挑戦者決定戦、永瀬拓矢二冠との初手合である。

6月4日(木)。夕食はカレーライスと決めていた。らっきょう、福神漬、セロリも買った。いつもはレシピと首っ引きだが、カレー定跡なら詰みまで指せる。

17時。反撃の手番を握った藤井が慎重に時間を使っている。残りは30分少々。それでも考え続けるということは、ここが勝負どころなのだ。私はABEMAを眺めつつ仕込みを始める。浴槽を洗って湯をためる。炊飯器をセットする。じゃがいもの皮をむく。

17時18分。△3六銀。

分かりにくい手を指したものだ。強いて表現すれば、先手玉の肩先に重石をのせるような感触。私は人参の皮をむき、乱切りにする。もう一度局面を見てみるが、まともに読みが入らない。茫洋とし過ぎていて、先後どちらをもっても方針が立てにくい。気がつけば、まだ玉ねぎに包丁が入っていない。

永瀬が考えこんでいる。彼にとって幸運だったのは、この手の重みを吟味するための時間がたっぷり残っていたことだった。そして、局面を凝視すればするほど、3六銀が不気味に重みを増してくる。そのずっしりとした感触は、やがて画面越しにも伝わってきた。

私はセロリの筋取りに入る。2、3度包丁を入れたところで、ふと、なんで筋取りをするんだろう、と手が止まる。いつもやっているが意味を考えたことがない。局面を見て、3六銀を見つめて、再び手元のセロリを見つめて、とやっていると、妻が帰ってきて「まだそこなの?」と文句を言う。子供たちを急き立てて風呂に行かせる。そのとき、永瀬がマスクを半分外し、

水を飲んだ。ひと呼吸置いて、もう一口、飲んだ。

実にうまそうに飲んだ、という以上に何と表現したらよいのか分からない。ただ私は永瀬の顔にわずか1%表れた満足の笑みを見逃してはおらず、感情を通じた確信があった。1つ、案外いい手じゃないか。2つ、そうこなくちゃ。俺はこの手応えを求めていたんだ。

永瀬は対局中、感情が顔に出ないタイプだ。勝勢の局面で上気する様子もなければ、敗勢の局面で悲嘆にくれていることもない。いつも冷静、冷徹に指し続けてきたその永瀬が、実にうまそうに水を飲んだ。

野菜と肉を炒め、水を入れて沸騰させる。アクをとり、タイマーをかければ後は並べ詰め。妻に任せて将棋に戻る。ひと涼みしたところで、永瀬が玉を引いた。思わず「ほぉ~っ!」と声が出る。妻は「またかよ」という顔をする。

藤井、2分考えて飛車を打つ。永瀬、ノータイムで▲3九金打。長考の結論は自分らしさを貫くことだった。「永瀬ワールド」が始まる。妻がルウを割り入れる。ほどなくとろみとコクがついてくる。傍らに立ち、レタス、きゅうり、トマトのサラダ。局面は佳境を迎え、食卓には家族4人と幸せな夕食が揃った。

食事中にテレビは見ない。でも藤井聡太は例外だ。いただきますと唱和したものの、ソフトの評価は互角が続いている。この将棋、一手を争う終盤に至っても均衡を失わない。「名局」という最近安売りされがちの言葉があるが、こういうときに満を持して口にしなければならない。ついに消費時間が並び、両者残り5分。はて、いつからカレーの香りがしていたのだろうか。らっきょうと福神漬をまだ入れていない。

「玉の早逃げ八手の得」、これを逃した罪が重かった。ソフトの評価が全てではない。しかし栄ちゃんが言った。これは危ない、と。龍2枚に桂2枚、彼の攻めはほどけない。

1分将棋、受けなしに見える局面で▲4四馬! 馬をタダ捨てして凌ぐ最後の勝負手。二冠王永瀬は諦めずに最善を尽くし、本物の名局を作り上げた。19時44分、新記録誕生。

娘は「ぱんちくり~ん!」と寝転がる。「藤井君は天才だね」と息子も寝転がる。『ブラック・ジャック』を手にとって。お父さんは知っている。その巻には有名なセリフがある。「ボンカレーはどう作ってもうまいのだ」と。

いい将棋を見て冷えたビールを飲むことは基本的人権である。「お父さんずるーい! ジュース、ジュース!」と子供たちがうるさい。頼むから黙っていてくれ。今は、彼の声が聞きたい。

(観戦記の慣例に従い敬称略)

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