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なぜ「タメ口をやめてください」の掲示が歓迎されないのか

このポストの件である。

言葉には「表」の情報と「裏」の情報がある。


この場合、「表」の情報は読んで字のごとく
「タメ口での注文は料金を1.5倍にさせていただきます」である。

「裏」の情報は
「タメ口を利くことを絶対に許しません」
「あなたはタメ口を利いてくる可能性がある人とこちらは判断しています」
あたりだろう。
これは「この掲示は私に対して行われているんだな」と思う人が読み取る情報である。

SNSでは往々にして迷惑仕草として認知されている
「私に向かって言っているんだな」は
現実世界においては、比較的良識のある人が行う傾向にある。

なお、SNSで「私に向かって言っているんだな」が
迷惑仕草として認識されている理由は
「私に向かって言っているんだな+私を侮辱しやがって!」のセットで
攻撃的なコミュニケーションを取る人が可視化されていることが理由である。

「私に向かって言っているんだな」
で終わる人は可視化されていないのだ。
裏のメッセージを読み取る人が、必ずしも迷惑な人なわけではない。

「タメ口での注文は料金を1.5倍にさせていただきます」という掲示は
『自分の子供と近い年齢の店員さん相手に、ついタメ口が出てしまうかも』と考える人は遠ざけやすいが

「この私が店員さん相手にタメ口を利くはずがない!」と考える人
及び掲示を全く読まない人は
おおよそ平然と来店する。

こうした掲示で本当にカスタマーハラスメントが減るならば、誰も悩まないのである。

悪行は「悪行の自覚」なく行われる

「タメ口をやめろ」の掲示は必ずしも「タメ口を利いてくる人の排除」という結果をもたらさない。

なぜかというと
 ・「タメ口を利いている」という自覚なく、タメ口を利く人
 ・タメ口を利くことなどないと、自信に溢れている人
 ・自分なら許されると思っている人
 ・掲示を全く読まない人
などの
本当に店が排除したいと思っている人には何の効果もないからである。

では「タメ口をやめろ」の掲示がどういう人に効果があるかというと
 ・掲示を読める人
 ・自分が何かやらかしてしまうかもと思っている人
 ・こういう細かいことをあげつらう店に良い印象を持たない人
などである。

なぜ「タメ口を利く人ではない人」に効果があるのかというと
「そりゃ店員さんにタメ口はいい事ではないし、自分はやらないけど…
わざわざこうやって掲示されているのを見て
『この店を選びたい!』とは思わないんだよなぁ」
と考えるからである。

「許し」があること

わざわざ明言しない、掲示しない。ということは割と賢明なのである。
それは、「許し」がある余地を想像させる。
「タメ口利いたら料金を1.5倍にします」などと明示しないことにより
「この店でなんかやっちゃったらマズいぞ」という気持ちを抱く必要性がなくなる。
そして、不思議なことに何も掲示されていないにもかかわらず多くの客は常識的に振る舞う。

平気でタメ口を聞き、店員さんに対して失礼な態度を取る人間は、店が「タメ口をやめろ」と掲示していようがしなかろうが、態度を変えない。
タメ口を意図的に利くつもりなんてない人の方が「タメ口をやめろ」という掲示をちゃんと読み、行動を変える(そういう店を避ける)。

「タメ口での注文は料金を1.5倍にさせていただきます」という掲示に
「距離を感じる」
「言わんとすることはわかるが、こう掲示されてしまうと行きたくない」
「タメ口なんて利かないけど、そういう問題じゃなくなんか嫌だ」
と表明している人は良識ある人だろう。
「裏」のメッセージを読み取ることができる、所謂空気を読める人だ。

「表」のメッセージしか読み取らない人は、あまり空気を読むタイプではないだろう。
書かれていること、言われたこと。それをそのまま字面通りにしか受け取らない。
それだけならよいのだが、「裏」のメッセージを読む人に対して
「本当は店員にタメ口利いてるから、この掲示で行く気無くすんだろ!」
と言い出す人は本物の空気を読めない人だ。

明文化の光と闇

明文化することはメリットもあるが、デメリットもある。

例えば「物を盗んだら罰金です」という法律があったとする。
いたいけな未亡人から遺産と有金を盗み取った詐欺師と
空腹のあまりパンを盗んだ少年
どちらも「物を盗む」に該当するので、どちらも同等の罰金となる。

果たして、それで本当に良いのかと人々は頭を悩ませるだろう。
そして、法律があるからといって盗みという行為がさほど減らないことも目の当たりにするだろう。
「○○してはいけません」という明文化されたルールは、我々が思っているよりも良い方向に物事を進めてはくれないのだ。

例えルールが明文化されようがされなかろうが、盗みを働く人間は働く。
ルールが明文化されたから盗まないほうがいいな。と考える人間は明文化されなくてもやらない。
明文化されたルールは人間の本質を変える力までは持たないのだ。

明文化により秩序が生まれるが、それは人間の本質とは相いれない。
なのでどれだけルールを明確にしようが、厳罰化しようが、人間の行動を縛ることは出来ないのだ。
「こういうことはやめろと明文化すれば、迷惑な客は減るだろう!」
という、無邪気な理想通りに人間は動かない。

言葉は所詮、人間の作り出した道具に過ぎない。
冷静に考えてほしい。
言葉の生みの親たる人間を、人間の道具にすぎない言葉が縛れるわけがない。


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