出来が悪いから人より頑張らないといけないけど出来が悪いので人より頑張れない

「努力は誰にでも出来る」

この考えはめちゃくちゃ間違ってて、そんなことはない。努力を継続することは、一種の才能なのだ。そして、自分みたいな出来の悪い人間は、それが特にできない。

小学5年生の頃、自分はいつも他の子たちとの"違い"を感じていた。

彼ら彼女らは、スポーツが得意な子や勉強が得意な子、みんな何かしらの得意分野があった。でも、自分はどれをとっても平凡だった。

いや、平凡で済むならいい。

足は遅くて小学校の花形スポーツのドッジボールでは何一つ戦力にならなかったし、テストの点数もいつもクラスで下から数えた方が早かった。

住んでいた地域が大阪という土地だったので、「面白かったら全部チャラ」という一発逆転の共通価値観があったのだが、幼少期は比較的活発に遊んでた姿は見る影もなく、小学5年生になる頃には仲の良いグループ外の人と話す時、「アノョ…ソニョ…」となってしまうような子供だった。サッカーが苦手なブラジル人のように、自分は社交性がない大阪人として地元で肩身の狭い思いをしていた(サッカーが苦手なブラジルの人が別に肩身の狭い思いをしていなかったらすみません)。

弱冠11歳で勉強、スポーツ、人間関係の壁にぶち当たり、「あぁ、自分ってダメなんだな」と、この頃から不出来な人間という自覚をするようになった。幼稚園の鬼ごっこで自分が弱すぎて鬼が変わらないから「○○くんは鬼を辞めたくなったらいつても辞めれる」という特別ルールが導入された時とか、もっと早くに気づくチャンスはあったのだけれど。

中学生になると、小学校の高学年の頃にはうっすらあったスクールカーストという残酷な序列制度が本格化し、何の能力も備わっていないメガネ陰キャの自分は、勉強も部活も恋愛もうまくいかない逆進研ゼミ宣伝漫画みたいな学生生活を送ることになる。

「メガネだからダメだったんだよな!メガネ外したら俺も一軍の仲間入りや!」と裸眼で高校に入学するも、中学で二軍半所属だったヤツが「メガネを外しました!」の一本槍で多感な高校生活に通用するはずもなく、それどころか中学の頃より扱いが酷くなり、非常に苦しい思いをした3年間だった。いくら「みんなが主役です!」「ゴールテープは一緒に切りましょう!」みたいな教育をしてても、子供たちの間で資本主義の社会が形成されていて、バカで見てくれも悪い自分は、辛酸を舐め続けた(本当にバカなので資本主義の使い方が合ってるのかイマイチ分かっていない)。

高校を卒業して以降もだ。マジで何にも出来ない人間だし、不出来な人間として非常にぞんざいな扱いを受け続けてきたので、「自分が何かをやると迷惑をかけてしまう」という意識が働くようになり、逃げ続けた結果、社会が怖くなり過ぎて、現在無職。めちゃくちゃバッドエンドだ。北野武作品なら「バカヤロー、まだ始まっちゃいねぇよ」って返されるとこなのだが、正直、ほぼ詰んでいると思う。

こういう出来の悪い人間が一発逆転を狙えるシステムが「努力」だ。努力をすれば、どのような人間だろうと、何にでもなれてどんな夢を叶うという説を唱える人もいる。少年漫画でも、凡才の主人公が努力を積み重ねて強大な敵に勝利するのは定番のシチュエーションだ。

でも、この「努力」って、なんか出来の悪い人間のための救済システムみたいに思われてるところがあるけれど、出来の悪い人間ほど積み重ねるのがめちゃくちゃ難しい。

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