カードバトルは終わりにしよう
よく「配られたカードで勝負するしかない」という言葉を耳にする。
おそらく人生に悩み、行き詰まった人達が考え抜いた末にたどり着く戒めの言葉だ。
しかし僕は、そういった人たちのお説教を聞く度に、「配られたカード」という表現に違和感を感じていた。何故だろうか。
彼らが言いたいことはなんとなく分かる。「配られたカード」とはつまり、「才能」であったり、「育った環境」であったり、自分ではコントロール出来ない領域の「生まれながら授かったもの」のことだろう。「配られた」と表現するのだから、恐らく先天的な要素に限られる。
そう、僕が違和感を覚えるのはここだ。
「天からの授かりもの」でしか勝負できないのだと言い切ってしまうところ。
「では、カードが少なかったらどうすればいい?カードが弱かったり、数が少なかったりしたら、その時点で自分の人生は諦める(様々な意味での死)しかないのか?」いつも思うのだ。
日常において、会社の上司や先輩、同年代の友人たちよるお説教の中では、おおよそ、そういった「現実を認めて相応の人生を歩め」という諦めに近いニュアンスが含まれている。果たしてそれは、この警句の本質なのだろうか。
この言葉の意味を理解するためには、もう少し咀嚼が必要だ。
まず、今日日多くの人は、「配られたカード」以外にも様々な「カード」を持ってはいないだろうか。
持っているはずである。なぜなら現代日本においてほとんどの人は学校を出て、社会に出て、生業をもって生活をしているのだから。
「カード」。たとえばそれは「常識」や「知識」「処世術」であり、「趣味・特技」、学生だったら「部活動」、進路選択や就職活動の際の「志望動機」や「自己PR」、社会人なら「仕事のスキル」や「役職」といったものの中から見出すことができる。
寧ろ生きていく中で、そうしていくつもカードを持たなくては学校を卒業も出来ないし、稼いでいくことも出来ないのが社会というものではないだろうか。
つまり人は「先天的カード」を持って生まれ、今までの人生の中で得た「後天的カード」を蓄え、それを併せ持った状態で生きているのだ。恐らく生まれながらの才能と環境だけを頼りに生きている人間などはいない。いるとすれば、余程の財力と才能の持ち主でない限り、それは社会や福祉の助けが必要な人間だろう。
そうなると、いま人生の道半ばを生きる世代が言いがちな、「配られたカードで勝負」という表現はいささかおかしなものに思えてくる。言葉選びを間違えているのではないだろうか。正して言えば「集めてきたカード」ではないか。なんなら「勝負」という表現もやめたほうがいい。そもそも人生はカードゲームのように単純ではないし、たとえ負けといわれる状況に陥ったとしても、死んでしまわない限りは終わってくれない(別にカードゲームを批判したいわけではないのであしからず)。少なくともそうして悩んできた人間はそれを嫌というほど味わっているはずである。
積み重ねてきた手札は、質や量はどうであれ今日までの自分を作り上げてきた要素、いわば「個性」と言える。一方で「勝負」とは、優劣を付けることだ。昨今、流行とはいえ「多様性」なんていう言葉が散々叫ばれる世の中で「個性に優劣を付けましょう」なんて諭されるのはなんとも矛盾した話ではないか。
では、どうすればいいのか。
悩んだ末に答えにたどり着いたはずの彼ら/彼女らは、「カードで勝負」するわけにはいかなくなってしまった。
僕はこう考える。「勝負などはしなくても良い」と。
これは決して脳死の平和主義的な志向によるものではない。
学歴・年収や恋愛、SNSや“推し活”などにおいても、すぐに競いたくなってしまうのが人の性(さが)だが、他者と比較することは何よりも不毛だと言えるからだ。
こういうと、よく「現実的に、例えば経済活動の場ではそうはいかない」とか「スポーツは競争そのものだ」とか反論されるが、あくまで個人の内面で行われる価値判断の場においての話だ。簡単に言ってしまえば「自分が納得していれば良い」ということになる。ゆえに切磋琢磨というものについても、それは自己満足のシナジーであって強いられるものではないと言える。
それでも敢えて「勝負」という表現を用いるなら、その相手は自分自身ということになる。
結論として、僕は冒頭の警句を再解釈し、
「あらゆる手札を使って生きていく」と表現しようと思う。
その際に、手札の数や優劣については自己に決定権があり、他者には適用出来ないものと考える。足りないと思えば補強し、いらないと思えば捨ててしまえば良いのだ。そして決断と努力、先天的カードとの相性によっては、社会の中で通用する(お金や名声になる)手札を増やすことも可能である。
確かに「先天的カード」の数や質について嘆きたくなる気持ちはよく分かる。しかし、それは結局のところ他者との比較により発生した価値観によるものとも言える。だからこそ、多くの人が「才能や環境に恵まれていない」という現実の中でも「今の自分は恵まれている」と感じられる人が存在しているのだ。
中には「そもそもどんな手札をもっているかわからない」という人がいる。
そんな人こそ、好きなこと・ものを探すといい。そこから得られた哲学や思想は、手札となり得る。
別に経験やスキル、財力だけが手札ではないのだと思っている。
そうしてこれまでに得てきたものを、自身の手札として認め、社会で通用するものに育てること。
それが世に言う「自己肯定」であり「成功」なのではないだろうか。
世の中の諸先輩たちよ、「配られたカードで勝負するしかない」という言葉の本質を「自己の肯定」とするのなら、是非「あらゆる手札を使って生きていくのだ」と表現を改めて啓蒙して欲しい。
不毛なカードバトルはもう終わりにしよう。
逆に考えると執拗に「勝ち・負け」という言葉を使って他人の生き方に口出しをする行為は、多くは相手を導きたいという善意によるものではなく、他者と比較し、今日までの自分の人生を肯定したいという欲求の表れなのかもしれない。
そんな無責任で身勝手な言葉に、いちいち耳を傾けて一喜一憂することが、僕やあなたを「幸せ」にしてくれるとは到底思えない。
まあその行為の価値を決めるのも、「人それぞれ」なのだが──。
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