パリのカルチェラタンで今村昌平を観る

パリジャンがパリからいなくなる時期が今年もやってきた。ニュースはコロナウイルス第二波の話で持ちきりだけれど、それでもみんな南や西や海岸目掛けて出発していく。オフィスでも、「あなたは来週から?」「僕は明日朝の電車で南に行くよ」「じゃあ次に会うのは9月ね」といった会話が飛び交う。7月最後の金曜日の今日、パリにパリジャンの気配がない。

そんな7月の最後の華金に、カルチェラタンで今村昌平監督の『黒い雨』(1989年)を観てきた。パリのオデオンにあるFilmothèque du quartier latinでは、いま今村昌平監督特集がやっている。特集といっても、『うなぎ』や『楢山節考』などフランスでも知られた作品はラインナップにはない。やはり監督特集を見るならシネマテークしかないと思った。とはいえ、金曜日の夜に観客も40名くらいはいただろうか、道を歩いてもパリジャンにすれ違わないこの時期にしては、結構凄いことかもしれない。

『黒い雨』はもちろん井伏鱒二の同名の小説をもとに製作されたもの。原爆投下時に広島で放射能を浴びた夫婦そして姪の3人が、二次被曝に苦しみつつ、戦後それぞれの生活を営もうとする姿が描かれる。

田中好子の可憐さ、女性らしい柔らかさがこの映画の画面を救っているように思えた。そして何より、途中から登場する近所の悠一との会話を通じてお互いが再生していく様子に、心が嬉しくなる。

フランス人の目にはどう映ったろう。こうした上映を続けていくことにどんな意味があるのだろう。そこに日本の税金を投入して、文化交流や文化外交を続けていくことにどれほどの政策的意味が今あるのだろう。それは日本にとって良い結果を着実に生むのか。それとも国家的な考えではなく、そもそも文化の多様性がパリという街で担保されていることが国際的に見て望ましいことなのか。それは前者か後者かではなく、前者であり後者、前者の理屈を使って予算を取り、後者のような「素敵な」機会を提供することなんだろう。予算の取り方、機会の提供の仕方、それぞれとっても広いテーマになりそうだ。これからも思考は続く。

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