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全ては元の姿に戻るだけ

近頃の私はひたすら諸行無常を噛みしめています、などと大仰な発言ですが、残念ながらこれは真実です。

何せ、家の中で毎日のように色々なものが壊れます。
その原因は5ヶ月の子犬で、直近の被害を羅列すると、数冊の本に雑誌、カットソー、ワンピース、ハンカチ、フェイスタオル、カフェオレボウル、マグカッブ、卓上ポット、ベランダの苗木、リビングのラグに座椅子、とあっという間にバラエティ豊かなリストが作成できます。

それでも私などまだましで、中には80万円のソファーを破られたり、オーディオステレオのセットを破戒されたり、靴箱の扉を閉め忘れ全ての靴をかじられた挙句スリッパで出社した、という子犬飼いの体験談まで耳にしました。


もちろんどの場合も犬に悪意があるわけもなく、単に遊び心の行き過ぎや、事故的な接触によるものです。
叱ってみたところでどうしようもなく、人間はただ淡々と後片付けに励むよりありません。


それでも、なお未練がましく惜しむならば、私にとって最も痛手だったのは、数年前から愛用していたイタリア製のマグカップが割れたことです。

それは、透き通った白磁にごく控えめなフルーツ柄が散らされ、口縁こうえんをひと刷毛のローズマダー色が取り巻く上品なカップでした。

全体のプロボーションは寸胴の筒型ではなく、まるで古代ローマの建築でした。ギリシア建築から発展したイオニア式円柱を逆さにしたようなフォルムを持ち、底面から上部にかけては穏やかな広がり方です。

側面と把手には数本のフルート溝掘りがあり、把手の上部と付け根はこれもイオニア式の柱頭風に、繊細な渦巻き模様のモチーフが飾られていました。


そのマグカップのデザインを目にした瞬間、これはイタリア人デザイナーにしか作れない一品だと実感しました。

人間が生きる上で周囲の環境は多大な影響を与えるもので、色遣いや好み、お馴染みのかたちといったものやセンスも、自然とその人の内側に蓄積されます。

マグカップに古代ローマの建築様式を取り入れるなど、イタリアでなくてどこの国のデザイナーが試みるでしょう。
しかもそれは食器としての使いやすさを第一に置いているため、実用に少しの無理や不自然さもないのです。

店頭でそんな商品に出会えばもう財布を取り出す他なく、真夏を除くほぼ毎日、私はその芸術品のごときマグカップであらゆる飲み物を飲んできました。


けれどそれも、テーブルの上から片付けるのを怠った一瞬で、子犬がはたき落としてしまいました。
見事なほどに粉々に粉砕されてしまったそれは、あいにく期間限定デザインのため、二度と買い直すことができません。
そのため私は深い悲しみのため息をついたのですが、時間を戻せでもしない限り、致し方のないことです。


こんな時、私の頭に浮かぶのはある禅僧によるという一言です。
「茶碗は初めから壊れていた」

ものは全て形を変え、どんなものもいずれは朽ちて壊れてゆくため、頓着してはならない。その考えはよく知られていますし、割れてしまった茶碗がいずれは割れる運命だったのだのも、順当なことでしょう。

けれどその禅僧の発言は、それよりも先、あるいは奥に達しています。
茶碗は"初めから壊れて"おり、茶碗としての体を成して私たちの眼前にあったことがむしろ奇跡である、というのですから。


仏教大学に籍を置く大学教授の知人は、一人の高僧から、最新の科学を研究するよう勧められたことがあるそうです。
なぜかといえば、仏教、中でも密教は科学との親和性が非常に高く、たとえば空海の著作の内容は、物理学や量子力学と重なり合い、補完し合う部分があるからです。

量子力学の視点で見ると、この世の物質は素粒子と振動でできており、今その形を保っているものも、実はばらばらでないものは何一つ存在しません。
まさに"空"であり、これは仏教が数千年も前から唱え続けてきた真実です。

ですからいざものが壊れても、それは自然のことわりであることにも増して、そのものに対しての、これまで手元にあったことへの強い感謝の念が湧いてきます。
たとえつかの間であれ、側に留まり、日々に愉しみを与えてくれたのですから。


お気に入りの品であるほど、いつまでも変わらず側にあることが嬉しいに決まっています。
けれど今の私の生活環境でそれは困難なため、エネルギーに満ちた子犬がせめてもう少し落ち着くまで、最大限に対処をしつつ、諦観を持って暮らすしかありません。

そして”元の姿に戻ったものたち”に対しては、感謝の念でお別れを繰り返しているため、私は日々諸行無常を体験している、という冒頭の言葉となったわけです。


”元の姿に戻ったものたち"が私のもとを去ること、元気すぎる子犬にも、怒りや憤りはありません。

けれど建築雑誌やどこかのレトロ建築のファサードで、優美なイオニア式円柱を見かけた際、あの綺麗なマグカップを思い出して悲しい気分に浸るのは大目に見てもらいたいと思います。
だって本当に素敵で大好きなマグカップだったのですから。



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