好機は準備の出来た者の下にのみ舞い降りる
「君は切ったら何色の血が出るんだい?
……
誰か、包丁を持っておいで」
◇◇◇
「どうしよう。もう駄目かもしれない」
いつもは気丈な友人が、珍しく気弱な声で電話をかけてきました。
ふだん強気な人だけに、いったん落ち込むとかえって暗い方へ傾いてしまうようで、何やら不穏な単語を繰り返しています。
よくよく話を聞いてみると、仕事で頼りにしている人から音信が絶えたのだといい、もう見限られてしまったのでは、と真剣に悩んでいるようでした。
いつも無理な依頼や相談ばかりしていたせいだ、と嘆く友人に、でも次の仕事の約束も取りつけてあるのだから、連絡がつかなくても気長に構えてみては、と私は笑って話します。
友人の仕事相手はその分野では特に名を知られた人のため、まさしく引っ張りだこで、皆がその人との仕事の順番待ちをしているというのが常だからです。
そのため友人に連絡がないのも、決して疎まれたり蔑ろにされているのではなく、ただ単に多忙によるものに違いありません。
友人は私のそんな説得にひとまず納得はしたらしいものの、今度は、ではそのあいだ自分はどうしていたら良いのだろう、と悩み始めます。
早く仕事にかかりたくてたまらないのに、ただ悠長に待っているのは辛すぎる、とも。
今は先方の体が空くのを待つ他はない、この時間を有効に使い、いよいよという場面に備えては、などと定型文めいた話をしてもつまらず、友人も聞き入れる気にはなれないでしょう。
それに、私に相談してきたあたり、もっと違った答えを求めているはずです。
そうとあれば、私もそれに応えなくてはというものです。
「面白い話があるんだけど、聞く?」
「聞く」
「美輪さんが江戸川乱歩と初めて会った時の話なんだけどね」
私はかつてそれを本で読み、トークショーでご本人の口から聞いたおぼえもあります。
終戦から6年後、銀座に〈銀巴里〉というシャンソン喫茶がオープンし、そこは文化人のたまり場ともなっていました。
歌手の美輪明宏さんは若い頃にそのお店で歌手として働いており、ある日、来店した作家の江戸川乱歩と対面します。
著作はほとんど読んでいる、明智小五郎も大好きだ、と話す美輪さんに乱歩は相好を崩し、明智小五郎ってどんな人、との質問に一言で答えたといいます。
「切ったら青い血の出るような人だよ」
「へえ。でも、何だかわかる気がする」
微笑む美輪さんに、乱歩は尋ねました。
「わかるのかい?そうか。ところで、君は切ったら何色の血が出るんだい?」
「はい。七色の血が出ます」
「それは珍しい。おい、誰か、包丁を持っておいで」
二人を囲んでいた人たちの間でざわめきが広がりました。乱歩は何とも人を食ったところがある上、言い出したら後には引きません。なおかつ店に多くのお金を落とす名士とあっては、誰も強く意見などできないのです。
美輪さんも、この男は本当にやりかねない、こんな場で刃物なんて持ち出されてはたまらない、と感じたそうで、わざと落ち着き払って乱歩に告げました。
「およしなさいまし。切ったら傷口から七色の虹が出て、お目が潰れますよ」
その答えに、乱歩は美輪さんをしげしげと見つめて訊いたそうです。
「君、いくつだい」
「16歳です」
「16でその台詞かい」
それから乱歩は美輪さんをご贔屓にし、ますます足繁く銀巴里に通ったといいます。
これ自体が小説になりそうなやり取りですが、美輪さんが人から散々言われた、こんな言葉が存在します。
「いいな、あなたばかり有名な人と親しくなれて。自分にはそんなチャンスなんてなかったのに」
けれど、と美輪さんは反論します。
「乱歩と会った時、私たちは二人きりじゃなかったんですよ?その場には、20人ほどの人がいたんです。みんな、乱歩に"会って"はいるんです。
ただ、私以外の全員が、あの人を流行作家だからって有難がっているだけで、本なんて読んでもいないし、明智小五郎に興味も無かったんですよ。
それだけのことです。それが乱歩と"ただ会った"だけの人と私の違いです」
友人は電話口の向こうで感心した声を上げ、納得しかない、とため息をつきました。
「たとえ接点は持てても、それを活かす術がなければそれまで、ってことね」
「だよね。美輪さんは住む場所が無い時代でも、芸事を習ったり文化を"仕込む"ことにはお金を惜しまなかったっていうから。それが活きたんだと思う」
「わかったよ、なんでこの話をしてくれたのか」
友人の声に笑みを感じ、同じく私も笑います。
「それは何より」
「美輪さんを見習って、仕込みに励む。いざに備えるよ」
「プロ級の台詞まではなかなか吐けないけど?」
「それは器量の違い」
友人からは電話の最初の頃の、生気を失った様子もすっかり無くなり、それから少し雑談をして、私たちは電話を切りました。
私は美輪さんと乱歩にまつわるこのエピソードが大好きなため、それが思わぬところで友人の役に立って良かったと思います。
友人が感じ取ってくれたように、このエピソードそのもの、そしてその後の美輪さんの言葉の中には、深く考えるに値するものが詰まっています。
私も美輪さんや友人同様、いざという時のため、仕込みを怠らないようにしなければとあらためて感じます。
いつどんなところに思わぬ出会いが転がっていて、それが次の展開へつながっていかないとも限りません。
そんな時に相応しい振る舞いをし、粋な台詞のひとつも口にできれば、まさに運命すら変わるかもしれませんから。
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