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朝活で前世を生きる

たとえあなたがどんな夜を過ごしたとしても私に話さないで。
苦しみに満ちた話で私の朝を汚さないで。

───エミリー・ディキンソン


前話からのゆるい続きのようになりますが、子犬がやって来てから変わったことのひとつが、日常生活のリズムです。

夜はどうしてこんなに早く時間が過ぎるんだろう、まだ眠らずにあれこれしていたい。こんな風に考えていた日々はもう彼方で、今の私は日が落ちると眠くなり、頑張っても午後10時まで起きているのが精々です。


その原因は起床時間にあり、最近は日の出が見られる午前4時台には起き出しています。
とにかく早い子犬の朝に付き合わざるを得ないためです。

日が昇りかけ、ようやく窓の外が明るくなるのに合わせるように、寝床で丸まっていた子犬はのびをして立ち上がり、水を飲み、部屋の中を歩き回って、誰か自分と遊んでくれないかとそわそわし始めるのです。

そうなるとこちらもその気配で自然と目が覚め、それを悟った子犬にじゃれつかれているうちに、もう起き上がるよりなくなります。


半分寝ぼけて用意を終え、犬連れで外に出るのが午前5時過ぎ。
ドアの外には、冷えた空気と、昼間とは別の顔を見せる街並みが広がります。

歩いている人は数えるほどで、車もほんど走っていません。手に持ったリードを伸ばして歩いても誰に気兼ねすることもなく、嬉しげな子犬とともにいくつかの公園を巡ります。

ほとんど無人の街を歩くのは不思議な気分で、見慣れた風景にもかかわらず、次第に遠い場所を旅しているような気がしてきます。


公園のグラウンドで運動をする元気のいい人たちともすっかり顔見知りになり、お互いに挨拶を交わします。
スーツ姿や制服で自転車に乗っている人を見かけると、こんな時間から大変、行ってらっしゃいと心の中でつぶやきます。
スーパーの前には大型トラックが停まり、ドライバーさんが大量の荷物を下ろしています。
猫が路地の奥へゆっくりと歩いていき、別の公園の池では先月生まれたばかりの鴨の雛たちが固まって眠っています。

それらの眺めと静けさ、空気の澄んだ冷たさを味わううちに、眠気も完全に覚めてきます。


この満たされた感覚は他では決して味わえるものでなく、一日がこんな具合に始まることは、とても美しいことのように思えます。

あまりに早い朝の時間は、他の時間とは切り離された場所に浮かんでいるようで、どこか現実味がありません。
特に夏の盛りなど、午後のうだるような暑さの中で、ふと明け方の森閑とした空気を思い出す時、まるで別世界の出来事のように感じられてくるほどです。
別の日、あるいは遠い年月の記憶のようで、前世の出来事と言われても不思議はないほど。

朝の空気とその特別さは、いざその時が過ぎればやにわに遠ざかって揺らぎます。


そんなに貴重な朝の一時ならば、散歩以外のもっと有意義なことに当ててみては、と言われたら私は断固として反対します。

今はもうブームを超えて日常の中に定着した感もありますが、どんなものでも”朝活”の対象にするムーブメントが存在しました。

朝ごはんをしっかりと食べることから始まって、ウォーキングにランニング、ジムにヨガ、英会話に資格試験の勉強まで。
数万円払って著名人との朝食会に参加し、業界の最新情報と人脈を一気に獲得しようという試みまでありました。

脳科学的にも朝は最も生産性と独創性が発揮されやすい時間帯だといい、早朝の成功体験を重ねることで、より前向きになれるのかもしれません。


きわめて有効で魅力的にも思えますが、やっぱり私は遠慮しておきます。
それでなくても、瑣末な用事に仕事、するべきことのリストに追いまくられているのです。早朝の時間くらいは、慌ただしい一日のどこにも属さない特別な時として置いておきたいと思います。
 

それに、特に何かの役には立たず、何らかの技量が向上するわけではない”役に立たない”時間だって貴重です。

ただ早起きをして散歩に出、日の出を見たり、遠くの山並みや雲に目を向けたり、咲き始めた季節の花と朝露を観察したり、声の正体を知るため梢に鳥の姿を探したり、という行為は何よりの充足をもたらすからです。

そんな時間をいくら過ごしてもどこかの講座のように修了証書は出ませんが、私にとっては欠くべかざる重要な時間です。


成果主義に対するカウンター、などと意気込むつもりはありませんし、朝の時間をどう使うかはその人次第です。
トレーニングウェアに身を包むのも、異業種交流会に向かうのも、贅沢なキッシュにかじりつくのも、掛け布団にくるまって2度目の眠りに落ちるのも。
全てが自由で、何が正解ということもありません。


それでも、もし余裕のある平日や休日に思いがけず早く目が覚めたら、ともかく戸外に出てみることはおすすめできます。その際は、思いもかけない景色や空気を味わえること、新鮮な感覚に包まれることも請け合います。
前世とまでは言わずとも、別世界の端っこくらいには触れられるかもしれません。




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