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インスタントの天使

あるアメリカ人作家が書いていたエッセイに、こんな印象的なものがあったのを憶えています。

その人が車を運転していた際、ラジオから古いカントリーソングが流れてきました。
初めはただ聞き流していただけでしたが、歌の途中で車を路肩に寄せて、エンジンを切らねばならなくなります。何故か涙が止まらなくなったからです。

その曲を聴くまでは、その日はとてもいい一日でした。何もかも問題ない、いつも通りの平穏な日。
そんな風に考えていたのに、その曲に心をえぐられたのは、失ってしまった機会、もう会えない人、無くしてしまった愛するものについて歌われていたからです。

歌の中の深い喪失感が自分の心にも入り込み、それがきっかけで、無意識に軽視していた、自分自身の経験や人生とも向き合わざるを得なくなった、と作家は書いていました。


それほど劇的ではないにしろ、思わぬ瞬間にふと訪れる"メッセージ"に心を動かされた体験は、誰しも持っているでしょう。

私の場合なら、数日前に地下鉄で聞いたアナウンスがまさにそうです。

風が強い、気温も平年を下回る寒い日でした。午後8時過ぎのためラッシュのピークも終わり、ほとんどの乗客はシートに座っていましたが、会話を楽しむ声もなく、皆一様に疲労感を漂わせた顔つきです。

私もそんな一人であり、予期せぬ予定の変更に振り回されて疲れ切り、まだ夕食も食べていません。
それでも空腹を感じないのは、明日に控える用事の算段で頭が目まぐるしく動いているのと、すでにプレッシャーを感じ始めているからです。

おかげで、もう電車を降りなければと気がついたのは、次の停車駅を告げるアナウンスの直後でした。
急に現実に引き戻され慌てつつ、手袋を取り出そうとバッグの中を手探りしている最中、穏やかな声で、また車内放送が響きました。

「皆様、今日も寒いなか大変お疲れさまでした。
明日も、どうか皆様にとって良い一日でありますように。
ご自宅までお気をつけてお帰りください」


思わず車内を見回したものの、今のアナウンスへの感動を顔にあらわしている人は見つけられず、皆スマートフォンに視線を落としていたり、耳にイヤホンをつけていたり、眠っていたりという人ばかりです。

それでも、全員が無関心だったとは思いません。
反応を表に出さないだけで、きっとひそかに元気づけられていた人もいたでしょうし、たとえ一人もそんな人がおらずとも、私は車掌さんに感謝を伝えたい気持ちでいっぱいでした。

そのねぎらいと祈りの言葉は、その時の私に必要なものだったからです。
忙しい一日をどうにかやり過ごし、それを平気なように思っていても、やはりとても神経が立っていたこと、明日の心配で頭が混乱していたことを、そのアナウンスは改めて気づかせてくれました。

それがなくても一日は暮れ、明日も何事もなく訪れたでしょうが、やはりその一瞬があったかどうかで、大きく違うのは確かです。

顔も名前も知らない地下鉄の車掌さんが発した、職務の遂行や乗客の安全とは関わりのない"余計な言葉"が、どれほど優しく響き、私にとって慰めになったことか。
大げさに言えば、そこに含まれる善意と、人の心に触れたと思えたことが、純粋な癒やしとなり心をほぐしてくれました。


分断されている、独りぼっち、という意識ほど人の心を沈ませダメージを与えるものはありませんし、誰かに気にかけてもらっている、自分が"輪"の中にいる、という思いほど心をあたため勇気づけてくれるものもありません。

それは一対一の顔の見える関係性や、深い付き合いの外であっても可能です。
地下鉄のアナウンス、ラジオのDJとリスナーのやり取り、SNSで触れたメッセージ、偶然居合わせた誰かとの会話、立ち寄ったお店でのほんの短い雑談でも。

ほとんどすれ違いのような一瞬の出会いであっても、それがどんな大きな効果をもたらす、救いのようなものになるかはわかりません。
そんな風に考えると、どんな何気ない出会いや機会も、ないがしろにしてはならないと感じます。


私たちは見知らぬ誰かから救われることがあり、あるいは時として自分が誰かを救い、互いが束の間の天使として、知らずに相手をもてなしているのかもしれません。
こんなイマージュは未熟で夢見がちなものだとしても、それが方々で起こったならば、どんなに素晴らしいことかと思わせます。

この広大な世界では、悪意や害をなすものに簡単に行き合う一方、いつどんなところで、自分にとって宝石のように貴重なものを拾えるかもしれません。

もしも私のように、そんな小さな奇跡に期待をかけて日々を過ごすならば、いかなる時にも目を開き耳を澄ませ、貴重な恵みを拾い落とすことのないよう祈ります。



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