90秒間の完全な世界
ちょっとこわい質問のひとつ。
「昨日のお昼、何食べた?」
たいてい私は言葉に詰まり、答えを探りながら自分の記憶力のなさに暗澹たる気持ちになります。
それでも、ごくたまに即答できることもあります。
「明日香村のお寺で精進料理をいただきました」
その日は頼まれ仕事で奈良県の山寺を訪れていて、ご住職の奥様が、腕によりをかけた料理を振る舞ってくださったのです。
その献立はといえば、旬物の芋茎の旨煮、高野豆腐の炊き合わせ、野菜の揚げ物、三度豆のチリソース和え、お香香、栗とさつまいもの炊き込みご飯と、地元の食材をふんだんに使った、稀に見る贅沢さでした。
ご住職や奥様も合わせ、テーブルを囲んだ人数は十名を超えたでしょうか。
なかなかの大所帯のため、会話は全体で進んだり、隣同士で交わされたりと、生き物のように変化します。
そのうちに、誰かがジル・ボルト・テイラーの名を口にしました。
ちょうど私は、全国に神宮がいくつあり、そのうちどこを訪れたかという話を隣り合った人と話していたため、どのような経緯でその著名な脳学者の話題になったかは知りません。
37歳で脳卒中を起こし、脳出血による言語機能の崩壊と回復を経験したテイラー博士は、自身の経緯を綴った『奇跡の脳』で、世界中にセンセーションを巻き起こしました。
私もその体験談に触れ、深い感銘を受けたことをおぼえています。
今から2年前には続編となる『WHOLE BRAIN』も発売され、そこでは新たな主軸である考え "4つのキャラクター" が紹介されました。
それをどう捉えるか、ということが話題に上がり、自分がどのキャラクターの特性を色濃く持っているか、皆で話し、笑い合います。
この "4つのキャラクター" について語るなら、まずはごく簡単に脳の知識のおさらいをするのが良いでしょうか。
大脳の表面にある薄い灰白質の部位、大脳皮質(思考中枢)は、高次の認知機能を担い、左右の大脳半球に分かれています。
その奥にある大脳辺縁系(情動中枢)は、情動や動機づけを司り、右脳優位の大脳基底核の一部や扁桃体、左脳優位の海馬の言語関連の機能を備えます。
それらの部位が4つの異なる人格を作っている、というのがテイラー博士の考えで、わかりやすく伝えるならば、左脳のキャラクターは "計画性" と "不安" 、右脳は "積極性" と "全体性" といったところです。
そのうち "全体性" は、テイラー博士が脳卒中の後、最も強烈に味わった感覚だといいます。幸福感、一体感、肯定感、ありのまま、世界や宇宙と一体であるという、大きな感覚であったそうです。
言語や価値判断を司る左脳機能を失い、昏睡から目覚めた博士は、常にこの状態にありました。そこまでいくと、ほとんど最高の宗教者の境地です。
いや、そんなものと自分は無縁です……と思われるかもしれませんが、私の解釈ならこの感覚は決して特殊なものではなく、昼食の席で上がった例も交えて上げると、たとえば鳥の声に聴き入る時、バイクにまたがり疾走する時、子どもが笑うのを眺める時、夕焼けの壮麗さにため息をつく時、誰かのために祈る時、温泉で身体が芯からゆるむのを感じる時、といくらでも身近なところに存在します。
特別なことではなくとも、自意識や価値判断が入る隙のない、何かに心から向き合える瞬間が持てたなら、それは "全体性" を生きているということです。
何の不平不満も、恐れもなく、穏やかさや喜びだけに包まれる。一日にたった数秒ずつでも、そんな体験を重ねたならば、必ずやいずれ人生の質そのものが変化します。
人は誰しも4つのキャラクターを持ち、一日のうちでも様々な状態を経験しているそうですが、テイラー博士の見立てでは、最近とみに左脳側の "計画性" と "不安" 、特に "不安" に支配されている人が多いそうです。
もしも自分のおなじみのキャラクターの割合が、左脳側の "計画" と "不安" で全体の半分を超えているなら、本気でバランスを考え直す機会かもしれません。
人生に備えは必要ですが、それでも不確定要素は決して無くなりません。
そんな中で、過度に綿密な計画を練り、不安に怯え、構えて暮らすことは、あまりに息苦しく不自由です。
"積極性" と "全体性" を欠いたままで生きてゆくと、生の喜び、またとない冒険や成功の機会も失ってしまいます。
この世界はとうてい完璧ではなくとも一方で完全であり、それは私たち一人一人もまた同じです。
このくだりを書いている今、私もまさに "全体性" を味わっていて、私たちは今この場で平穏で幸福になれること、安心して外の世界と一体になり、ものごとを前へ進めてゆけると信じられます。
『WHOLE BRAIN』での説によると、あらゆる感情は90秒間で入れ替わり、その90秒とは、あることを思い浮かべた際、脳の最深部の感情回路が刺激され、生理的な反応が起こり、収まるまでの時間です。
怒りや楽しさ、どんな感情も神経回路の発動によって生まれ、やがては90秒で消えていきます。
それ以上の長期にわたって続く感情は、何度も繰り返しその回路が刺激され続けることが原因です。
そうでなければ、本来ならどんなにポジティブ、あるいはネガティブな感情であれ、ただ90秒間待つだけで、全ては自然と洗い流され無くなっていくのです。
"苦しさ辛さも90秒間待てば消える" という事実を知っているだけで、むやみに自分の感情に振り回されず、たとえば強い悲しみに心を揺すぶられても、ああ、また脳のくせが出ているのだなと、感情回路に思いを馳せて冷静さを保てます。
やたらと "不安" に心を苛まれるより、"全体性" の中を歩むことは、ずっと素晴らしいに決まっています。
この90秒間、私は再びとても幸せだったため、このページを閉じてからも、なおそのサイクルが続くようにと願います。
こうして終わりまで読み、同じようにわずかでも "全体性" を感じてくださったなら、とても嬉しいのですが。