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「ASD/ADHDの息子と母」としての1年を記録する

去年の6月、こんな記事を書いた。

今読み返すと、ずいぶんと感傷的な文章だなぁと苦笑してしまう。
当時のわたしの文章が大げさだとか、自分に酔ってるとかそういう自己分析ではなく(多少そういうところはあるのかもしれないけど、人間だもの、そういう風にしないと乗り越えていけないことなんていくらでもある)、これを書いた当時のわたしには、この感傷に浸る期間が必要だったし、それしかできなかったというだけのことだ。

当時のわたしは、夏休み明けにしか諸々動かないと言われ、他にできることがなかった。
できることといえば、大学で学んだ知識(わたしは大学で臨床心理学を専攻していて、学科の必修科目で児童心理学や発達心理学も履修していた。しっかり覚えていたわけではないと痛感するけど)をもとにネットで情報収集を行うことぐらいだ。
発達検査もまだだから、「グレーゾーンかもしれないから発達障害系の本を買うのは時期尚早かも」と思って専門書の購入もためらう。

さてどうしよう、と思っているうちに、入学前に3ヶ月かけて一人で登校する練習をしていたおかげで毎朝一人で登校していたのが「お母さんに一緒に来てほしい」と門の前まで一緒に行くようになった。
それが次第に、玄関前まで、靴箱のところまで、教室の前まで、と付き添いの距離が伸びていく。
帰ろうとすると教室から飛び出してくるので、落ち着くまで様子を見るようになった。

やがてプールが始まった。
「担任の制止をすぐに聞くことができない」ため、保護者の付き添いを依頼された。
最初のうちは、午前休や午後休を組み合わせ、母にも協力してもらいながらプールの付き添いが始まった。一緒に入るわけではなく、保護者が付いてるだけでも教師の言葉を聞くことができるから、ということで、プールサイドに日傘を差して立っているだけだ。
プールの時間だけだったはずが、息子の離れ渋りがひどくなり、わたしや母が学校から帰ったあとに追いかけて外に飛び出したりなど、学校側で安全を確保することができなくなってしまったため、午前中だけでも教室の外で見守りをするという流れに変わった。
わたしも仕事があるので、最初の2週間ほどは母に頼んでいた。
でもそれも、ただ見ているだけとはいえ教室の外、廊下のところで椅子に座って見守る、というのは結構疲労が溜まる。
母も疲労から、家で息子やわたしへの当たりが強くなってきた。
人間の負の感情は低いところ、弱いところに流れていく。
両親のイライラはわたしに向けられ、ときには息子自身にも向けられた。
わたしも、気をつけていても息子にイライラして怒鳴ってしまうことが増えた。

これはいけない、と思っていた頃に、職場のリーダーから「リモートさせてもらえないか聞いてみようか」と打診があった。
上司に相談してみたところ、理解を示してくれ、学校にノートPCと会社支給のモバイルルータを持ち込んで、廊下で息子の見守りをしながらリモートで業務をさせてもらえることになった。
週に1回出社し、その日は母が学校の付き添いをする。
毎日から週1回になったことで、母の様子も少し落ち着いた。
息子は相変わらずだったけれど、わたしが学校での様子をすべて見ることができたことで、両親や担任へのフォローバックができるようになった(と思う)。

夏休みに入るまで学校付き添いは続いたが、7月の中頃、そろそろ夏休みだ、と心待ちにするわたしの体に違和感が出始めた。
廊下の一角に座って仕事をしながら息子の見守りをしているのだけど、どうにも背中が痛くてかなわない。
出社したときに、会社の福利厚生であるマッサージルームを利用して、背中から腰にかけてをほぐしてもらうのだけど、軽くなってもすぐに鈍い痛みを感じるようになる。
その数週間くらい前から、ちょくちょく胃酸が上がってくるようになっていたし、胃のあたりも痛む時があったので、自覚症状をグーグル検索すると「胃潰瘍か十二指腸潰瘍の可能性があります」と出た。
マジかよ〜ウケる〜〜〜と言いながら、あまりに背中の痛みがひどく、空腹時に胃痛が増してきたので最寄りの胃腸科内科を受診したら、胃カメラを飲む羽目になり、見事に十二指腸潰瘍の診断が出た。
ピロリ菌の除菌も必要だと言われて、いろんな薬をもらって帰った。
食事も、母が作る家族分とは別で自分用に消化にいいものを作り、毎日飲んでいたカフェオレもやめた。
薬がなくなった頃には、身体の不調も治まってきていて、医師いわく、除菌の確認は半年後以降に検便で行うとのことで、とりあえず半年は禁酒することにした。飲めないとなると飲みたくなるのがカフェインとアルコールだ。妊娠中もそうだった。
※なお、検便出すのが面倒で、除菌薬を飲んでから1年1ヶ月経つがまだ検査に出していない。最近また背中痛と胃酸過多、ちょくちょく胃痛も出てきているのでやべーなと思っている。

夏休みは、生活リズムを崩さないようにと、がんばってラジオ体操に通った。なんなら普段の学校の時よりも早起きして過ごした。
なんか色々あった気がするけど、もう覚えてない。毎日ちゃんと日記書いておけばよかった。
ラジオ体操のことはnoteにも書いていたから思い出せるけど…。
父が連れ出してくれて、家族でプールに行った記憶もある。夏休み中だったか夏休み明けだったか覚えていないけど…。

夏休み明けに息子と一緒に登校したら、クラスの子の一部から冷たい目を向けられた。
「まだお母さんと一緒に来てるの?」
という目だ。
担任の先生からも、お母さんと離れるのが寂しいけど頑張ってる子たちが多いので…とフォローにもならない情報共有がされた。
夏休み前と比べても、授業中に他の子がしない「やったらいけないこと(授業中の離席や、教員のPCを触る、黒板にチョークでなにか書こうとするなど)」をしてしまう上、ひとりで学校にも来られない子、みたいに、全体的に「できない子」扱いをするクラスメイトが増えてきた。
息子の「できない」は能力的に不可というわけではなく、能力的には可能で理解もしているが、それを状況に合わせて「やらない」方向に制御することが「できない」のだ。
なので、息子の「できる」を周りの子たちから否定されるようになる。
次第に、なにか揉め事が起きた時に寄ってたかって責められたり、ちょっとできないと飛んできて「また○○が✗✗してる〜!!」とお知らせしてくる子が増えてきた。

それでも息子は、気の合う友だちがいるので「学校行きたくない」とは言わなかった。
ただ、わたしがいることで「ずるい」という気持ちから悪い意味で息子をかまいにくる子がいることも良くないなと思った。
その頃には、特別支援コーディネーターの先生だけでなく、ヘルパーの先生や教頭先生、校長先生とも話をよくしていた。
教室前でなく別室(体育準備室など)で仕事をさせてもらい、どうしてもわたしの顔を見て気持ちを落ち着けたかったら担任に許可をもらってからそこに来ること、という約束をして、少しずつ離れられるようになった。
それから、まだヘルパー利用の申請はしていないものの、息子の学校生活にはヘルパーが必要と判断してくれたので、時折ヘルパーの先生がついててくれるようになった。
それで、夏休み明けからは「水曜日以外は家でお仕事するから、学校から戻ってきてから学校でのお話聞かせてね」に切り替えた。
正直、仕事も子どもの様子を見ながらやるのはきつかったというのもある。
学校付き添いが始まってから、変な姿勢でのPC作業で肩こりや頭痛がひどくなり、頭痛薬を毎日のように飲んでいたこともあって十二指腸潰瘍になったのだと思う。

息子からは結構な抵抗があったけれど、夏休み明けからは朝の登校付き添いと、出社日以外は家で対応することができるようになった。

10月には発達検査と面談があった。
結果は、離席が多く集中して取り組むことができなかったが知能検査で小3相当、情緒面は5才児相当というものだった。
これだけ差があると、発達にデコボコがあって本人も大変だと思います、と検査してくれた先生は仰っていた。
そうだよなぁとわたしも思った。頭で理解できても、情動を抑えることが難しいのは本人にとってもキツイだろうと思う。

12月には、6月の記事を書いたあたりで予約していた小児精神科で診断を受けた。
学校での発達検査の結果で、翌年度から支援級在籍の普通級への通級、という形で申請はしていたけれど、しっかり診断をもらうことで両親にも説明しようと思ったのだ。
大学病院の先生は、息子ととても楽しそうに話をしてくれ、共感的にわたしの話も聞いて、お話をしてくれた。
「できないこと」にばかり着目しがちだったけれど、先生とお話することで、息子が「できている」ことがそんなに当たり前でもないことに気づくことができた。
そして、わたしができる範囲でできることをしようと取り組んでいたことを、よくやっていますねと褒めてくれた。
もちろんできない時もあるので、十分とは言えないし、プロの支援者から見るとまだまだなところだらけだとは思う。
ただ、この受診で診断書をもらい、これを持って役所で特別児童扶養手当の申請をしたらいいと教えてくれた。
児童デイサービスの利用についても教えてもらったので、その日のうちにあちこちに電話をかけた。
児童デイサービスもあちこちいっぱいで、電話した3箇所目でやっと面談の予約がとれた。

年末は父の提案で7泊8日の旅行だった。
わたしは年末30日の移動日に体調を崩して、移動先の岡山で救急にかかった。胃腸炎だった。
大晦日も1月1日もホテルの部屋で寝て過ごした。
息子と両親は、広島から来てくれた弟夫婦と岡山観光をしてきた。二人きりの旅行じゃなくてよかったと心底思った。

1月〜3月のあたりはもうあんまり記憶がない。
仕事も忙しかったし、息子の7歳の誕生日もあった。
児童デイサービスの利用手続きや面談、市役所への書類等の提出などもあって、とにかくバタバタしていた。
3月の頭くらいに、息子と一緒にデイサービスの体験に行った。
楽しそうにしていて、また行きたいと言ってくれたので、そこの利用が決まった。

4月になり、息子も2年生になった。
普通級の担任は、去年度支援級の担任をしていた先生だった。
支援級の担任の先生も、とてもよく理解してくれ、わたしたち母子へのヒアリングも細やかで、ふんわりした雰囲気の癒やされる先生だった。
児童デイサービスの利用も始まり、学校でも開級式前から支援級でサポートしてくれるようになった。
毎朝教室まで一緒に行くのは変わらないけれど、放課後はデイサービスのスタッフが迎えてくれて、終わり次第家まで送ってくれるので、仕事に集中できるようになった(それまではもうものすごくバタバタして、すべてのエネルギーを仕事と息子対応のマルチタスクでミスしないように、の一点に使っていたので、毎日息子と21時に寝ても寝たりないくらいだった)。

診断書を添えて申請していた特別児童扶養手当も支給され、これを貯めていけば、来年の夏には実家から出てわたしたち親子のペースで生活と療育を両立させていける目処がたったぞ、と思った。
支援級でのサポートのおかげで、自宅でのパニックも自傷行為もずいぶん減ってきた。
このままいい方向に進んでいけるといいな、と思っていた矢先、7月に入って支援級の担任の先生が体調不良で休みがちになった。
交流級(普通級)や他の支援級でサポートしてもらいながら夏休みに入るまでなんとか過ごしたけれど、先生は結局しばらく休職されることになった。
子どもたちは(うちの息子だけでなく、同じ支援級の子たち)先生が大好きだったので、不満を言いつつもよく話を聞いて、それぞれの環境で頑張っていた。
頑張っている分、家では疲れた〜とダラダラすることが増え、やらないといけないとわかっているけど気が進まないことをしないといけない、という場面で「足が痛い」「頭が痛い」と心身症様の症状を訴えるようになった。
パニックになりやすくなり、しなくなっていたのにまたブランケットを口に含むようになった(そのせいでアレルギーでひどい結膜炎状態になり、毎月のように眼科にお世話になっている)。

夏休み中は、デイサービスを利用できて本当によかったと思う。
年々、息子の対応に手間がかかるようになってきている気がするからだ。
両親の言うことは一方通行の命令(本人たちは依頼しているつもりで自覚がないから面倒くさい)が多く、息子が納得して動くことができない。
本人の意識をまずこちらに向ける、テレビ等の音量を下げるか消すなどして、集中して話を聞ける環境に整えてから話をする、などの手順を踏むときちんと聞けるし、理解できているので応用すら見せてくれることがあるのだけど、育児当事者ではないからか、年齢のせいか、息子が時と場合によっては「とてもよくできてしまう」からか、両親は息子を相手しきれなくなっている。
息子も、じじばばだとわかってもらえないと思っているらしく、前よりもわたしにべったりになっていて、夜じじばばに子守を頼んで友達とお茶やお酒を飲みに行ったり、会社の懇親会や勉強会に参加することも難しくなってきた。

あげく、父の昨年度の所得が制限を超えたらしく、特別児童扶養手当も支給停止になった。
これが貯まれば引っ越せる、親とも適正な距離で接していける、と唯一の希望だったのに。

そして今年度は仕事の上でも正念場だ。
わたしは契約社員で、すでに3回更新しているので、法律上次の更新はできない。
正社員化に向けて去年から動いていて、上司もそれを後押ししてくれているけど、正社員になれるかどうかはわたしの設定した目標を達成できるかどうかが鍵になる。
正社員になって、今携わっている業務をもっといい感じにしていきたいと思っているのだけど、正直保証はないなと思っている。いや、頑張りますけども。頑張りますけど、背水の陣を敷くにはちょっときっついな〜というのが正直なところだ。

来年の夏、実家から独立しているかどうか。
来年の夏、今の会社で正社員として仕事しているかどうか。
来年の夏、息子と今よりも気楽に笑い合える関係でいられてるかどうか。

もう少し頻繁に記事にしてまとめていけたらなと思う。

2019年8月26日、備忘録。

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