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京アニ事件、初公判に寄せて

朝からヘリが飛び回っていた先週火曜日、京アニ事件の初公判が開かれました。

戦後最悪の殺人事件といわれるこの事件のことを考えると、当時現場にいた被害者が感じたであろう痛みや理不尽さや恐怖、遺族の怒りや苦しみが再生されて非常に辛い気持ちになるのですが、それでも考えることを止められないのです。

かつて僕はこの事件のことを「彼(被告)をほったらかしたのは誰だ」として、社会的包摂の無さが犯罪を育てるのではないか、という文脈でfacebookに問いかけたところ、加害者に寄り添うつもりか、と方々から叩かれたのでしたが、それでもなお僕は、罪は個人が生むのではなく社会が育てるのだ、というスタンスを崩したくないのです。

歴史や人類学的視点で見ると、個人の自由意志、能動性と責任の所在、社会集団の規模と法体系の発展、それぞれに相関していて、総じて集団から個人へ解体(アトム化)されるにつれ自己責任論が強くなる傾向にあるように思います。

個にまで分断され弱められるのにも関わらず、負わなければならない責任は相対的に多くなる。その上、愚痴を聞いて「バカなことを考えるな」と言ってくれる人が周りにいなかったとしたら、歪んだルサンチマンは肥大する一方です。
もしかしたら、社会システムのサイズに人間のプロトコルはそぐわないのかもしれない。

許されざる罪がそこにあるのは確かなのだけど、彼を極刑に処して何かが解決するのだろうか?

京都新聞の記事に遺族の方のコメントが載っていました。
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1103307
『裁判が始まる前から「現代社会の生きづらさ」が事件に影響したのでは、と考えてきた。「人は誰しも、心の闇がある。誰だって、青葉さんのような心境に陥る可能性があるのではないか」と語った。』
家族を失ったにも関わらずこのような言葉が出てくることに驚くと同時に、その途方もない優しさがどうか社会を照らしますようにと願うのでした。

じゃなきゃ、じゃなきゃ、嘘よね?

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