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雇われグセと「不満」の正体。

働く場所でたちの悪いストレスを抱えたり、更にはストレスを自家発電してしまう事が、社会では多く発生しているのではないでしょうか。
それらを解決する思想で、カフェトリエをはじめました。


会社に所属すると、雇用契約=業務量や責任範囲のルールが発生します。
これは大きな組織をスムーズに、そして一定の納得感をもって動かす上で非常に重要な取り決めです。

一方で、「組織に雇用される」のではなく、「自立した自らの事業を営む」上では、「自分の事業」と、「ルール」というものは、どのような関係となるのでしょうか。

まず、
業務の責任範囲を定める「ルール化」は、主体性の無いやらされ仕事が前提となる考え方です。

当事者であれば、ルールは不要。自分でやるしかない。責任範囲は無限。

そして、自分で自分を律することができていれば、自分自身へのルールさえ不要。
これは目覚まし時計無しでも二度寝しないような強靭な精神のことです。

業務量の約束や、ルールを課すと、「そこまでやれば、責任を果たした」事となります。
これは、
「責任を手放せる領域が生まれる」
という事。

まさに、雇用されて自分の時間を売る行為(定時思考)や、結果出せば時間は如何様にしても良いという流行りの結果コミット思考と同様の思想。いずれも、大きくは自立とは反する「雇用思考」。

一方で、
「自分のお店」「自分の事業」には、責任の範囲に限りはありません。自立思考。

非自立な、雇われグセがついている人は、この「責任の境界線」を強く意識し続けており、雇い主や自らが含まれるものに対して「不満」というものが発生します。自分ではどうもできないと考えるから、不満がうまれるわけです。

そして、その不満を発散する事で、同類との繋がりを深め、同類からの承認を得たりしながら、「自らを縛る組織が作った無機的なルールによって派生した不満」を解決していく、あまりに狭い世界の中に、自分の存在意義を感じていってしまうケースも散見されます。

会社への不満、国への不満。
個人的には、特別な事情がある場合を除いて、大切な自分の人生を、そんなにどっぷり会社や国におんぶしてもらわなくても、良いのでは。と思ったりもします。

自立している人は、「不満」がありません。
自分を含む存在、例えば学校、会社、国などに対して、手段が目的になる程に優先順位が逆転する大きさの、不満や怒りを感じることはありません。

自分の生きる世界や未来を「自分で」定義し、自らその自分の世界の全て背負い、その中で自分が設定した最善を尽くしていくからです。

自分でどうにでもできるから、「不満」は存在しないのです。

責任範囲が無限だから、全て自責だから、「不満」のない世界で生きていける。

小さな世界での「不満」から解放されて、広い自らの世界で生きていける。
(文脈はズレますが、会社組織では自分の仕事に範囲を作らず「上司の仕事をどんどん奪う人」が昇進します)

これは見た人にしかわからない、晴れた景色です。

実際に今の仕事で雇われていようが、いまいが、関係ありません。
自分の生きる世界の責任範囲について、自責で「自立しているか」どうかだと思っています。

物事がうまくいかなかった時、わずかでも「他責(組織や他人やルールのせいにする)」にするのか、「自責(自分の責任、自分で解決可能とする)」なのか

雇用されていようが、ルールの中に居ようが、自立した人の振る舞いは、輝いています。

自分の事業を営む。
「自立した事業」の、チーム
自立する事で、もうタチの悪いストレスから、解放されて良い。
カフェトリエの根本となる思想です。

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