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無限に走りゆく列車の中で


「クロイツェル・ソナタ」の物語は、すべて一人の人間が汽車でみた夢の中で語られているといえなくもないような、幻想的な筆致で書かれている。
同じく旅の幻想であるワーグナーの「ベートーヴェン参り」をも連想させるその筆致は、新たな幻想旅行を彩る音楽をヤナーチェクに書かせることになった。

車輪の音、反転する時間、自己をうつす鏡が乱反射してまばゆい光を放つ中、強烈な汽笛が鳴り響く… 1923年の作品とは信じられない鮮烈な音響について誰も説明をしていない事象を前に、これは「クロイツェル・ソナタ」を読むしかないと思い、そのためにはまず「アンナ・カレーニナ」を読むしかないと覚悟を決めた。
そして、この二つの作品の関係の中に、トルストイのみならず、芸術作品が生まれ不滅の光を発し続けることの、心理描写がなされているのではないかという仮定をたてた。

音楽のプログラムの中で、時代を隔てた作品を並べ、それらが反射しあう光が、いつから始まりどこまで続くのか果てのないこの世の心理を照らし出す。ヤナーチェクの作品をベートーヴェン作品と組み合わせることで、そのような感覚を呼び覚ます企みは、それがただの直感と言ってしまうには忍びないと考えた。そして、同じ方法で「アンナ・カレーニナ」と「クロイツェル・ソナタ」を並べて、そこに映し出されたものに、ヤナーチェクの音響について語ってもらいたいと思った。

「クロイツェル・ソナタ」と「アンナ・カレーニナ」から抜き出した部分を交互に並べるというのは、それほど難しいものではなかった。
不思議なほど、この二つの作品は互いに言葉を投げあっているように見えた。かつて音楽が生まれ、いまも呼吸を続けていることは、どういうことなのだろう。トルストイはそこで生き続けること不可能であることを理解し、しかし実際には息をし続けている自分と戦い続けて、一生を終えた。

ヤナーチェクの音響が、何を照らし出しているか。
今日の公演で明らかになることを、少しでもお伝えすることが出来ればと思います。

カフェ・モンタージュ 高田伸也

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長い旅。わたしは汽車に乗っていた。

さまざまに人の出入りがある中、出発の地からずっとこの汽車に乗っているのは、わたしとあと数人だけだった。

車両の中では、愛についての議論が延々続いていた。

老人が「男は馬鹿だ」といったとき、車掌が入ってきて切符を請求した。

何人かの人がいっせいに話し始めた。

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わたしのうしろで、引きちぎったような笑い声か、それともすすり泣きとも思われるような声がした。いつの間にか、男が私たちの方へ寄ってきたのであった。

「真の愛という言葉を、どう解釈したらいいのでしょう?」

男が話をはじめた。

「そうだ、万事終わったのだ。」と一つの声がこうわたしに囁くと、もう一つの声はまるで反対のことを告げるのでした。「これはお前が何かに憑かれたのだ。終わったなど、そんなことがあるはずはない。」

わたしは暗闇の中で寝ていると、息が詰まりそうになったので、ぱっとマッチをすりました。すると、黄色い壁紙を張ったこの小さな部屋の中にいるのが、なんだか恐ろしいような気がするのでした。

車掌がはいって来た。わたしたちの蝋燭が燃え尽きたのを見て、別に新しいのと取り換えもせずに消してしまった。

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「死だ!」アンナは思った。と、彼女は異常な恐怖におそわれ、自分がどこにいるのか納得がいかず、震える両手でマッチを捜しだすことも、燃え尽きてしまったろうそくのかわりに、新しいのをつけることも、ながいこと出来なかった。

「いいえ、やっぱり、生きてだけは行かなくちゃ!だって、あたしはあの人を愛しているんですもの。あの人だってあたしを愛してくれているし!こんなことは一時的のことで、みんな過ぎ去ってしまうんだわ」アンナは声明を取り戻した喜びの涙が、両の頬を流れるのを感じながら、心の中でつぶやいた。

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わたしたち二人はかつて以前「君僕」の間柄だったので、彼は「君」と「あなた」の中間くらいな言葉をつかいながら、「君僕」の関係を維持しようと努めましたが、わたしがいきなり「あなた」調で始めたものですから、彼はすぐそれに従いました。

わたしは、彼がヴァイオリンを棄てたという話を聞いたが、それは本当かと訊ねたのです。彼はそれどころか、今は以前より盛んに弾いていると答えて、わたしが以前弾いていたことなども追懐しました。わたしはそれに対して、自分はもう弾かないけれど、妻はよく弾くと答えました。なんたる不思議なことでしょう!

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「アンナはモスクワへ行ってから、すっかり変ってしまいましたのよ。なんだかおかしなふうになって」アンナの女友だちがいった。

「その変ったいちばんのところは、アレクセイ・ヴロンスキーの影を連れてらしたことですわね」公使夫人が口をはさんだ。

「グリムには影のない男、影をなくした男なんておとぎ話がございますよ。それはなにかの罰でそうなったんですが、いったい、なんの罰なのやら、あたしにはどうしてもわかりませんでしたわ。でも女の身として影がないってことは、きっと、いやなものでしょうね」

Aber für eine Frau muß es ohne Schatten unangenehm sein.

「そうね、でも、影をもった女は。たいてい、終りが良くありませんわ。」アンナの女友だちはいった。

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二人はベートーヴェンのクロイツェル・ソナタを弾いたのです。あなたは最初のプレストをご存知ですか? ご存知ですって!? ううッ。
あのソナタは実に恐ろしい曲です。殊にこの初めの部分が‥‥それに全体として、音楽というやつは恐ろしいものです!一体あれはなんというものでしょう?わたしは合点がゆきません。ぜんたい音楽とはなんでしょう?音楽とは一体何をするものでしょう?またなぜ現在しているようなことをするのでしょう?

少なくとも、わたしにはこの曲が恐ろしい作用を及ぼしました。わたしはなんだか、今まで少しも知らなかった新しい感情や、新しいpossibilityが開示されたような気がしました。「ああ、これなんだ。今までおれが考えたり生活したりしていたのとは、まるで別なのだ。なるほどこれだ。」と、そういう声がわたしの胸の中で聞えました。この新しい心境の意識たるや、実に悦ばしいものでした。すべての人が、まるで別な光に照らし出されたような気がしました。

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列車が停車場へ近づいたとき、アンナはほかの客の群れにまじって、外へ出た。そして、人びとをよけながら、プラットフォームに立ち止まると、自分はなんのためにここへ来たのか、なにをするつもりだったのかと、しきりに思い出そうと努めた。前には可能だと思われていたすべてのことも、今では考えてみることさえ困難に感じられ、とりわけ、彼女にいっときの平安も与えない、こうした騒々しい醜悪な人びとの群れの中では、なおさらであった。

「ああ、あたしはどこへ行ったらいいんだろう?」アンナはプラットフォームを先へ先へと進みながら、考えた。そのはずれまで来て、アンナは立ち止まった。

と、貨物列車がはいって来た。プラットフォームは震動しはじめ、アンナはまた汽車に乗っているような気がした。

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「ああ、きっとあれは懺悔がしたいのだろう」とわたしは考えました。「赦すべきだろうか?そうだ、あれはもう死にかかっているのだから、赦してやってもいい。」努めて寛大な心がけになろうとして、わたしはこう思いました。

彼女はやっとのことで、わたしの方へ眼を上げました。そして、苦しそうに、吃り吃りいい出すのでした。
「とうとう本望を達しましたね。わたしを殺して‥」

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「あそこだわ!」アンナは列車の陰とまくら木の上にこぼれていた石炭まじりの砂を見つめながら、心につぶやいた。「あそこだわ、ちょうどあのまん中のところへ飛びこむのよ。そうすれば、あの人を罰して、すべての人から、いえ、自分自身からも、のがれられるんだわ」

アンナは赤い手さげ袋を投げだし、首を両肩の中へすくめて、両手をついて車の下へ倒れた。そして、まるですぐ起きあがる用意のためかのように、身軽な動作でひざをついた。すると、その瞬間、アンナは自分のやったことにぞっとした。「あたしはどこにいるんだろう?なにをしているんだろう?なんのために?」アンナは身を起して、うしろへ飛びのこうとした。だが、なんともしれぬ、巨大な容赦ないものが、アンナの頭をひと突きし、その背中をつかんでひきずった。「神さま、あたしのすべてをお許しください!」アンナは抵抗のむなしさをかんじながら、口走った。

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「なぜこんなことになったのだろう?なぜ‥‥」
「赦してくれ。」とわたしはいいました。
「赦せですって?そんなのみんなつまらないことですわ!‥‥ただわたし死にたくない!」彼女は叫んで、半ば身を起しました。

「いやどうも失礼しました‥」彼はわたしから顔をそむけて、毛布にくるまりながら腰掛の上に横になった。わたしが、下車しなければならない駅へ着いたとき、わたしは彼の傍へ別れを告げに近寄った。けれど、寝ていたのか、それとも寝たふりをしていたのか、彼は身動きもしなかった。

「さよなら。」とわたしは手を差し出しながらいった。彼はわたしの方に手を伸しながら、ほんの心持にっと笑った。けれど、その笑いがいかにもみじめで、わたしは泣き出したいくらいであった。
「いや、失礼しました。」と彼は自分の長物語を結んだ時と同じ言葉を、もう一度繰り返した。


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早春のことであった。わたしたちはもう二昼夜も旅行をつづけていた。

短距離旅行の人は、汽車をでたり入ったりしていたが、わたしのように汽車の出たところから乗り通しているものは、三人しかなかった。


出典
「アンナ・カレーニナ」(トルストイ著 木村浩訳 新潮文庫)
「クロイツェル・ソナタ」(トルストイ著 米川正夫訳 岩波文庫)


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2020年12月12日(土) 20時開演
エンヴェロープ弦楽四重奏団 - vol.13

ヤナーチェク:弦楽四重奏曲 第1番 「クロイツェルソナタ」
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第13番 変ロ長調 op.130


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