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これまでのお願いと、これからのこと

これまでに様々なお願いをしてきました。
そのお願いの象徴としてマスクの着用ということがありました。

何の不安も症状もない健康な人までもが、社会を少しずつ機能させる過程におけるしばらくの間の応急処置として、「うつらない」ではなく「うつさない」という考え方でマスクを着用するということが広まったことは、間違いではなかったと今でも思います。

しかし、その応急処置が長引いていつのまにか「人を思いやる」という、人のそれぞれが大事にしてきた気持ちと置き換えられてしまうことに対しては危惧がありました。そのことによって、マスクをしない=思いやりがない、という図式が成立してしまうことは、決して良いと思えないのです。
それでは、思いやりのある人がいつまでもマスクを外すことが出来ないではないか、ということが問題なのではありません。では、何が問題なのでしょうか。
「思いやり」という、もともと形のないはずの、しかしそれだからこそデリケートなものとして大事にしていかなければいけないことを表現するのに、常に行動で示さなければいけないという傾向が出てきてしまうことが問題だと思うのです。

「こういう人間でなければ、思いやりがない。」
そうしたことを既成事実として認めてしまうと、社会はとたんに危ういものになってしまいます。何が危ういのでしょうか。思いやりを形で示さなければいけない社会、そのような社会は窮屈だ、というだけの意味ではありません。
そのような社会は、暴力に対して、もっといえば戦争に対して無防備になってしまうといえば、何か思い当らないでしょうか。

ここで戦争というのは、いま実際に戦闘機が飛び交い、銃撃が行われているところの地域での出来事だけを指すのではありません。
それぞれの人にとって必要でないはずの「何か」を獲得するために、それぞれの人に「思いやり」の行動を強制するのが、ここでいう戦争です。

戦争は常に「良い事」として発生し、それが「良い事」であることを多くの人に認めさせようとし、ついには認めることを強要するようになります。
社会がそのようになってしまうと、人それぞれが「戦争はいけない」という意識を持っていたとしても、その社会は戦争に対しては脆弱であると考えています。

ですから「良い事」ひいては「思いやり」を常に画一的な行動で示さなくてはいけない社会は、危ういと思うのです。

と、ここまで来ると、じゃあマスクの事はどうするのだということになります。ノーマスク運動でもするのかといえば、そうではありません。

というのは、自分のことを書くのですが、以前には少し疲れたり体の弱った時に良く分からない熱が出たり、なぜだか風邪をひいてしまったりと1年間に最低でも一度は寝込むことがあったのが、この3年弱の間は一度もそうしたことがないので、不意に訪れる良く分からない病気の予防にはおそらくマスクと手洗いが有用だろうという意見に自分がなってしまっているからです。
人との接触が減ったからとか、あまり働かずに良く食べているからとか、他にもいろんな要素があるとも思いますし、専門家の意見を聞いてはっきり納得したというわけでもありません。でも、いわばお守りのような気持ちでマスクをつける…というと変かもしれませんが、気持ちとしてはそういうことになっているのだと思います。

ここでいいたいのは、「思いやり」でのマスクの着用をお願いするというのは、やめにしたいという事です。これは科学的な意見ではなく、いま実際に起こり、場合によっては広がりを見せかねない戦争に対して、自分が暮らしている社会がそれを受け入れやすいような状態にしておくことに加担するのは忍びないという気持ちからです。
戦争は、大抵の人にとっては「する・しない」ではなく、否応なく巻き込まれるだけのものです。社会がそれに適合してしまえば、自分は巻き込まれてしまうだけなのだと思います。2020年の3月、あの状況を受け入れることは戦争を受け入れることと同じだと覚悟をしました。でも、それはまだそこに戦争そのものがなかったからこその覚悟ではあったのです。しかし、今は状況が決定的に違います。2022年の2月にロシアの侵攻が始まったとき、自分の暮らす世の中がこのままでは、戦争を受け入れるしか選択肢がなくなってしまうのではないかという強い危機感を覚え、実際にそちらに向かいかねない兆候を見て、大変なショックを受けました。
このままでいいはずはないと思うのです。
それ以来、自分だけのことにしても、マスクをするときはそれが自分にとって必要だと思うからであり、必要がない時には「思いやり」がないと思われようが、外すことにしたいと考えるようになりました。カフェ・モンタージュでのマスクの着用についても、この場所で必要と私が思う限りにおいて、皆様にお願いをしていきたいと思います。

実際の現場における問題として、皆様がお互いのことを気にせず舞台に集中できるように、ある程度の画一的なお願いをすること、つまり鑑賞マナーともいうべきものを劇場としてどのレベルで保っておきたいのか。それは常に難しい問題なのですが、皆様にお任せをするという範囲を今よりは多くしていきたいと考えています。

考えを書くという事では、これまでと少し違うことを書きました。しかし、実際の行動という面では、これまでとあまり変わりがないかも知れないということも最後にお伝えしておかなければいけません。

基本的なマスクの着用はまだお願いしたいと考えています。その基本のお願いをしなければいけないケースとは、お互いに誰が誰と認識できない程度に不特定多数が同席し、会話が無数に発生する可能性がある場合だと考えています。

コンサートにおいては
①ご入場の後、演奏が始まるまで
②終演後、先に帰りたい人が会場の外に出てしまうまで

具体的には以上の二つの時間帯において、マスクの着用をお願い致します。

※2023年3月現在、マスク着用についてのお願い事はしておりません。

そして、追加でお願いしたいのは①と②のマスク着用の間も、出来るだけ静かにしていただきたいということです。話をしないで欲しいというのではなく、静かにしていただきたいということで、これはここまで書いてきたこととはあまり関係がないかも知れないのですが、その方が雰囲気が良いと私自身がなんとなく思っているからです。予兆と余韻、音楽を聴く前と聴いた後、その時間もカフェ・モンタージュの舞台の一部として捉えたい。
そのようなことをお願いしてもいいのか… とも思いますが、お願いします。
勝手なことですみません。

カフェ・モンタージュを運営している中での実感として、騒動が起こってから3年が経とうとする今、病気そのものが世に憚られるということはなくなり、そのことを隠したりする必要もなくなったようです。公演前に体調が悪かったり濃厚接触者になってしまったりということについては、舞台側も客席側からも率直に連絡をしてくださるようになっています。
公演の会場にいる全員が健康であるとみなせること、そのことによってすでにリスクが十分に軽減されているとみなすことは、それほど的外れではないと思います。それでも無症状の人がいたり…ということが、なぜか未だに解消されないので、①と②のお願いはまだ残しておくというのが劇場としての今のところの判断です。このことによってリスク軽減の最低限を確保し、あとはこれまでの3年間で全ての人のそれぞれが積んできた経験から、①と②以外の場面でのマスクの着脱の判断はそれぞれにしていただけるはずと信じることが、極端な性善説や楽観主義であるとは思いません。

「黙食」のように「黙聴」という言葉を使ってもいいのですが、そのようなお願いをせずとも演奏中に話をする人がその場にいるはずがないので、演奏が始まってからの事はここでは書きません。
いつも通りに、自分自身にとって楽な形で、それぞれの思いで舞台をお楽しみいただくことが出来ればと思います。

最後になりますが、「思いやり」を形にしようとすることは、人の行動としてもっとも高いところに位置することのひとつだと考えています。それだけに、とてもデリケートで難しい事でもあると思うのです。そのような難しいことを、画一的に人に求め続けることの是非を問うています。
はっきりと答えが出るわけではないところに身をおきながらも、音楽は、芸術は、問いかけをやめるべきではないと考えています。

さて、2023年はどのような年になるでしょうか。
舞台はますます力強く、未知の世界へと進んでいきます。
どうか皆様に楽しみにしていただけますように。
皆様のご来場を心よりお待ちしております!

カフェ・モンタージュ 高田伸也

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