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カルトーラ①

リオのカーニバルで有名な、サンバ(Samba)。
今回ご紹介するカルトーラ(Cartola)は、サンバの草創期から活躍する名作曲家です。
浮き沈みの激しかった、彼の人生。
なんと、カルトーラが自身のアルバムを録音する機会を得たのは、人生の晩年のことでした…

カーニバルに参加するサンバ・チームは、「エスコーラ・ジ・サンバ(Escola de Samba)」、日本語に直訳すると「サンバの学校」と呼ばれるのですが、現在、特に有名な「エスコーラ・ジ・サンバ」が4つあります。

この4つのうち最も古くから続く「エスコーラ・ジ・サンバ」であるマンゲイラを、カルトーラが親友とともに創ったのは、1929年(20歳)のことでした。
本業は左官として建築現場で働きながら、音楽を楽しむ場であったマンゲイラ。
ただ、リオのカーニバルが有名になっていくのにつれて、「エスコーラ・ジ・サンバ」はどんどん巨大化していきます。

巨大化していくに従って、複雑になってくる人間関係、そして音楽の方向性での意見の相違。
カルトーラは、自分が作った曲がカーニバルで歌うには複雑で難しいと却下されたことをきっかけに、1949年(40歳)、愛着のあるマンゲイラから離れていきました。

その後も、料理が上手な愛妻(ドナ・ジカ:Dona Zica)と一緒に、二人の名前にちなんで名付けた「ZiCartola(ジカルトーラ)」という食事やサンバを楽しめる店を開いて、有名歌手も来店する名店となったり、友人たちに大判振る舞いをしすぎて、店はつぶれてしまったりと、浮き沈みは続きます。

そんな中、1970年代に入って、転機が訪れました。
リオのカーニバルでは主役である、彼ら黒人サンビスタ(サンバ歌手・奏者・作曲家)たちですが、ブラジル音楽界の流行の中心地からは、少し外れたところにいました。
(彼らサンビスタが人気歌手に曲を提供することはよくありましたが、サンビスタたち自身が注目されることは、あまりありませんでした。)
時代の流れとともに、ついに、彼らサンビスタたち自身に注目が集まるようになったのです!

その流れの中で、1974年(65歳)、カルトーラにとって初のアルバム「Cartola」も制作されました。
このアルバムの成功によって、本来の自分の実力に見合った注目を浴びるようになったカルトーラは、本領を発揮するのです!
1980年(72歳)に亡くなるまでの僅かな期間に、4枚ものアルバムを創り、いずれもブラジル音楽史上に残る名盤となっています。

心地よいリズムに、綺麗なメロディ…
そして、人生経験に裏打ちされた深みのある歌詞…

このnoteにご紹介することを良い機会として、ポルトガル語は全然分かりませんが、CDの歌詞カードや翻訳機などをたよりに、歌詞もじっくりと味わいながら、カルトーラのおススメ曲を今後ご紹介していきたいと思います!

まず今回、1曲ご紹介しようと思うのですが、その曲は、最後のアルバム「Cartola 70 Anos(1979年)」に入っている「O Inverno do Meu Tempo(わが人生の冬)」です。

Surge a alvorada
(夜が明け)
Folhas a voar
(枯葉が宙を舞う)
E o inverno do meu tempo
Começa a brotar
A minar
(私の人生の冬が、芽を出し、広がってゆく)

Já não sinto saudades
Saudades de nada que fiz
(私はもう、してきたことにサウダージ(郷愁)を感じない)
No inverno do tempo da vida
(人生の冬を迎えて)
Oh! Deus! Eu me sinto feliz.
(神よ、私は幸せです)

クラリネットの音色でしょうか。
カルトーラの歌声と溶け合って、本当に綺麗ですね…

(今回の記事は、以下の本、CDのライナーノーツを参考にしています。)



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