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にっこり笑ってフリージャズ その10


オカルトと音楽

1970年代初頭、私が客〜アルバイト〜従業員として過ごしたジャズ喫茶アヴァンの常連に安達敏夫という人物がいました。私の一学年上で、理学部の学生。「ナマズと地震」が研究テーマのため教授から相手にされずなかなか卒業できない、などと言っていました。頭がよく弁も立ち、麻雀好きでした。ジャズや現代音楽に造詣が深く、ミルフォード・グレイブスの凄さを熱く語ったりしていたものです。

「私の一学年上」といえば東大入試が中止された年代、入学するはずだった3000人ぐらいの人たちが全国に散らばった訳です。学問優秀だけでなく酒や煙草、学生運動、そして恋愛まで一歩も二歩も先をいっていました。私がいた工学部の一学年上にも、後年レーザーディスクや世界最高峰のプラズマディスプレイ「KURO」を開発したエンジニア、状況劇場を仙台に何度も呼んだ挙げ句に劇団入りした人、など猛者がたくさんいました。東大闘争が意外な影響を及ぼしたことになりますが、安達もそんな一人です。いつの間にか卒業して上京したらしいのですが、彼の名前が(ペンネームで)雑誌の座談会に載ったのには驚きました。

『地球ロマン』6号(絃映舎 1977年8月)これが終刊号になりました

アルキメデスの中国語表記をそのまま漢字にして、読みは「あき よねと」、肩書が「異端運動家」ですからびっくりします。編集後記に企画、資料提供等協力者として「阿達敏男」の名が(たぶん誤記)。広告ページには半夏舎のミルフォード・グレイブス来日公演告知が載っています。これは次に紹介する『モルグ』(間章)と安達との関係がすでにあった、ということでしょう。

そして今度は音楽関係に登場。間章主宰の半夏舎が出した

『モルグ』マイナス1号(モルグ舎 1978年4月)

です。マイナス1は出版準備号の意味かも。表紙には「Tok Akim」とあります。

「阿基米得」名義で「極寒の音霊―デレク・ベイリー讃」が3ページ、奥付の編集人には間章と並んで名前があります。編集後記にある(T.A.)は本名の安達敏夫でしょうか。町田のカラヴィンカと渋谷のメアリージェーンの広告があります。

『モルグ』の表3にはPARCOの広告、裏表紙にはキティーレコードの広告、そんな時代でした。

その後『地球ロマン』を引き継ぐ雑誌が登場

迷宮第1巻第1号(白馬書房 1979年7月)

科学の分派への構想―異貌の寺田寅彦

執筆者紹介 阿基米得(あき・よねと) 1949年青森に生る。東北大学理学部地球物理学科卒。宗教業界紙編集長を経て、半夏舎の間章氏と共に『モルグ』を創設、現在は直感理学とその系譜の研究に没頭。地震予知協会の急進的イデオローグ。(原文ママ)

奥付に「スタッフ 安達敏夫」とあります。

迷宮第1巻第2号(白馬書房 1979年11月)

奥付に「スタッフ 安達敏夫」

広告ページには『フールズメイト』と『JAM』 改題して『HEAVEN』。ミニコミ同士のバーター広告でしょうか、ここにもオカルトと音楽の結びつきが。

迷宮第1巻第3号(白馬書房 1980年7月)

執筆者紹介 阿基米得(あき・よねと) アメリカのカリフォルニア文化圏に簇生する神秘主義ファッション科学に対抗して、日本的直感科学の簇生構想を模索中。明治以降からの日本の異端的科学文献に少しずつ目を通し始めているが、現在のサイ科学よりもはるかに高水準なものが多いことに感嘆。

座談会の肩書は「直感理学研究家」です。

この3号で終刊になったと思われます。太田竜と対談したのを見て仰天しました。

『地球ロマン』や『迷宮』といった雑誌は当時仙台駅前(西口)にあった八重洲書房に入荷していました。その八重洲書房については「にっこり笑ってフリージャズ その5」に書きましたので参照ください。

そして阿基米得名義の初めての単行本が発売されました。

 謎のカタカムナ文明―秘教科学の最終黙示 (徳間書房1981年5月)

「異端運動家」「直感理学研究家」の華々しいデビューだったのでしょうか。安達を知る私の友人たちは皆、この本を買っていたものです。このあと、オカルト系の雑誌に原稿を書いているという噂は聞きましたが、私は特に興味もなく読まずにいました。音楽関係に執筆する事もなくなり、阿基米得という名を目にする機会がなくなったまま現在に至ります。1970年代は政治、科学、宗教、などについて、対抗勢力やマイナーなもの、歴史に埋もれたものなど、ある意味再発見する風潮があったのですが、現在まで出現したさまざまなサブカルチャーにつながるものが、50年ちかく前にすでに地下深く広がっていたのでした。1970年代のUFOとかピラミッドとか、なんだか懐かしいです。

1970年代半ば、アヴァンの常連であったTという元大映の助監督が間章を仙台に呼んでレコードコンサートとトークをやったことがあります。原町(現在の仙台市宮城野区)にあった音楽喫茶で10人ほどが集まったでしょうか。ICPレーベルのエリック・ドルフィー未発表録音盤(『ラストデート』の別テイク、裏面はミシャ・メンゲルベルクとオウムの鳴き声のデュオ)がヨーロッパで発売されたばかりで、間章がそれを持ってくるというのが話題になって(私も含め)集まりました。安達敏夫が間章と接点を持ったのはその時ではないかと思われます。その関係が『モルグ』発刊につながるとは今にしてみれば驚きですが。余談ですが、間章は自分がライナーノーツを書いたLPを各種持ってきており、集まった聴衆にさかんに売り込んでいました。

最後に、手元にある安達敏夫の写真を。1973年。仙台市ジャズ喫茶アヴァンでのナウ・ミュージック・アンサンブル(NME)ライヴ後の打ち上げ風景。左から、NMEの藤川義明(現・藤堂勉)、安達敏夫、N.M.E.の角張和敏、コーディネート・司会の副島輝人。角張、副島、の二人はすでに故人。

持っているはずの『モルグ』の他の号や『謎のカタカムナ文明』が家の書棚に見当たらず、資料的には不充分な内容になったかもしれません。安達が執筆していたという雑誌『ZOO』も持っていませんし。新資料など出ましたら追記なり新しい記事などで補いたいと思います。

文中敬称略

締めはやはりこれでしょう、1977年のミルフォード・グレイブス初来日時のスタジオ録音『メディテイション・アマング・アス』


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