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にっこり笑ってフリージャズ その16


仙台出身のベーシスト安斉久さん(1948〜2002)

安斉さんについては、これまで何度か名前を出しました。今回はウェブや書籍、雑誌など活字媒体に載った活動の記録を紹介したいと思います。人となりや私との付き合いなどは別の機会に。東京時代はいつも下駄を履いていたため「ゲゲゲの鬼太郎」にかけて「キタロー」と呼ばれていました。こちらの名前の方が音楽関係では有名だったかもしれません、「ベースのキタロー」。

日本のジャズ情報ウェブサイト「JazzTokyo」に先日亡くなった沖至さんの追悼記事が載ったのですが、そこに安斉さんの名前が。

「8/15沖至パリに死す」(執筆は編集部名義)

副島輝人さんの『日本フリージャズ史』が引用元になっています。

「1970年には富樫雅彦 (ds) と佐藤允彦 (p) による双頭グループ「ESSG」(実験的音響空間集団の略)に高木元輝 (ts)と参加。自己のトリオ(翠川敬基 cello、田中保積 ds)を結成、このメンバーで1970年に録音したのが『殺人教室』(Jazz Creators)である。副島輝人著『日本フリージャズ史』(青土社、2002年)によると当時は「抽象的な空間創造に余念がなかった」という。やがてジョー水木 (ds) が加わってカルテットになり、その後メンバーを組み替え、片山広明 (ts)、安斉久 (b)、山川均 (ds) に、そして宇梶晶二 (ts, bs)、徳弘崇 (b)、中村達也 (ds) で活動」

副島輝人『日本フリージャズ史』(2002年4月20日 青土社)の安斉久さんについての記述

p.162

沖はほとんど一年毎に、自分のグループのメンバーを組み替えた。最初は翠川と田中、次はカルテットにして大阪からアクティブなドラマーのジョー水木を呼んだ。それから片山広明(ts)、安斉久(b)、山川均(ds)。最後は宇梶晶二(ts/bs)、徳弘崇(b)、中村達也(ds)である。それから日本を離れていった。七十四年夏。

p.172

他に二人のヴィブラホーン奏者を入れた橋本静雄(b)カルテット、箏の桜井英顕、新人の安斉久(b)等がニュージャズ・ホールの常時出演者だったが、特に山崎弘のアクティブなドラムワークは強烈な印象として残る。彼はコンポーザーズ・オーケストラや、阿部薫とのデュオでもフリージャズ・ドラマーの才を発揮していた。片山広明(ts)もまた国学院大学二年の時、沖至カルテットのメンバーとして、何度かニュージャズ・ホールのステージに立ったことがある。

p.194〜195

その他のプルチネラ出演グループとしては、NMEのメンバーでもある角張和敏、今はウォン・ウィン・ツァンと名乗る江夏健二(本来はピアニストだがプルチネラではピアニカ等を演奏した)、当時は芸大生だったYas-Kaz等が中心となった『白がらす』があった。ここもメンバーを固定しなかったから、山本公成(ss)、森泰人(b)、安斉久等が随時参加し、坂田明や宇梶晶二が客演したこともある。初期フリージャズ特有の重量感を嫌うように、明るい軽さで近未来に向かって飛翔しようとするようなサウンドだった。

(冒頭の画像は、この『日本フリージャズ史』の索引ページです)

『阿部薫覚書(1949−1978)』(1989年12月31日 ランダムスケッチ)には1971年のライヴ情報が載っています。「安斉久 3」のメンバーが誰だったのか気になります、そして高木さんや沖さんのバンドメンバーに安斉さんが入っていたのかどうか。

最近見つけた日本のジャズ史を記録した膨大な情報量のウェブサイト、その中に「渡辺貞夫と日本のジャズ 1965年―1977年」というのがありました。スイングジャーナル誌などのコンサートやライヴハウスの出演者情報を丹念に拾って編集したと思われます。(下のURLは埋め込みできませんでしたのでクリックして開いてください)

http://smjx1969.starfree.jp/watanabesadao1965-1977.htm

1972年

沖至tp4 片山広明as 安斎久b 山川仁ds

高木元輝ts3 安斎久b 田中穂積ds

1973年

高木元輝ts3 安斎久b 山川糸二ds

中村誠一ts3 安斎久b 古沢良治郎ds

加藤久鎮ts4 横山憲次p 安斎久b 小原哲次郎ds

安斉さんは沖至さんや高木元輝さんたち「フリージャズ第一世代」のグループで活動していました。山下洋輔トリオを脱退した中村誠一さんのトリオにいたのは意外ですが、山下トリオの中村さんの後任が坂田明さんで、安斉さんが加わっていた「細胞分裂」のリーダーでしたから、つながっていたのですね。ちなみに、ドラムスの古沢(澤)良治郎さんは安斉さんと同じく仙台出身で、歌手の三上寛さんと3人で「三上寛と青葉城」というグループで活動していた時期がありました。残念ながら音源は残っていないようです。

※ドラムスの山川さんは「均」「仁」そして「糸二」(誤記?)と表記されていますが「ひとし」という読み方で同一人物と思います。

『JAZZ』誌1975年9月号のインタビューでは「細胞分裂」について坂田明さんが説明していて「ベースは安斎という高木元輝さんと演っていたベースで、ドラムは山川という富樫雅彦さんの弟子だった人」とあります。

こちらは新聞記事です。宮城県の地元紙「河北新報」に掲載された副島輝人さんの原稿。

1973年11月28日付

『動き出した仙台のジャズ界』サブタイトルに「公演矢継ぎ早」「高い水準」「徐々に眠り覚ます」とあって、持ち上げすぎでは、と思いますが。この記事には「にっこり笑ってフリージャズ はじめに」で紹介した「インスピレーション&パワー in 仙台」のことも書かれています。

安斉さんの名前が出ている部分と最後の部分を画像で。

記事に出てくる角張和敏さんは仙台出身、佐藤康和さんは仙台の南の亘理町出身、二人とも仙台一高を卒業して上京しています。角張さんは高校在学時にジャズ研を創設、「にっこり笑ってフリージャズ その10」の最後の方に若いときの写真があります。上の方で引用した副島さんの文章(p.194〜195)に書かれている「当時は芸大生だったYas-Kaz」というのは佐藤さんです。土方巽さんの他に山海塾などの舞踏音楽を担当して有名になりました。

高校時代にフォークソングのバンドでベースを担当していたという安斉さんが何を目的に上京したのか、本人から聞いた記憶がありません。そして、ウッドベースを誰かに習ったことがあるのか、なぜフリージャズを演奏するようになったのかも謎です。きちんと聞いておけばよかった。1970年頃には東京のジャズ/フリージャズのシーンにベーシストとして登場し演奏を始めていました。私は「アヴァン」のマスター森さんと一緒にピットイン裏の喫茶店で安斉さんと待ち合わせて会ったことがあります。1973年頃でしょうか。そして彼が仙台に戻ってきたのは1974年か75年でした(記憶曖昧)。

締めには安斉さんと縁の深かった坂田明さんを。『センチメンタル通り』(はちみつぱい)から「月夜のドライブ」。坂田さんの初録音で「ジャッキー・マクリーンから始めて最後はアルバート・アイラーに」というディレクションがあったとか。フリー・ジャズではありませんが印象的なアルトサックスのソロが聴けます。


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