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表現の価値はどこへ行く

こんにちは、今日もこれからの撮影の事に思いを馳せるアイザワです。
2019年秋から本格的に写真にのめり込み早いもので3年半。まだまだ表現などと安易に言える活動ができておらず悶絶しています。
そしてさらに数年後の自分はこのnoteを振り返り悶絶するのでしょう。

先日も少しnoteで触れた続きのようなタイトル。
多くのフォトグラファーが悩む命題でしょう。
今日は「今」の自分の思いを固定化しておく意味でもこのタイトルについて考えを残しておきます。

表現の評価とその失墜

今巷には多くの写真が溢れていてまたそれらを定量的に評価する指標も多く溢れています。
表現の入り口に立つ時、最初何が素晴らしいもので何が良く無いものなのか、この良し悪しを見極める審美眼のようなものが曖昧になります。そこで写真投稿サイトやインスタグラム、Twitterといったイイネとフォロワー数という分かり安い指標が表現の評価だと思いやすい(思いたい)スパイラルに陥る事があります。私もそれは違うと思いつつ安易な評価に自己肯定感を爆上げていた時期がありました。

昔は情報の伝達、伝播はメディアも限られた範囲であった為ある種の判りやすさがありました。反面既得権益が守られるあまり逆に新しい若いエネルギーが封殺される時代でもあったと思います。

現代はWEBを通じて誰もが簡単に発信を行う事ができるようになり、審美の基準も多様化してきました。
それにより既存の価値観が壊され、逆に既得権益を守り続けてきた側が情報がオープンになる事で商業的にも権威的にも脅かされる時代が到来したのです。

恐らくSNSを中心とした発信の場がなければ私もここまで写真にのめり込む事はなかったと思います。なぜなら表現とは何かしらかの感情、思想の発現であり誰かに伝えたいものです。今までなんの表現も行ってこなかった私が簡単に評価を貰える。何かをはじめたばかりの頃は誰かの反応がモチベーションになります。
SNSの反応と拡散は非常に相性が良く誰にでも一定の肯定感を与えてきたと思います。

ところが簡単に反応、評価がもらえ、目に見えた数字であるフォロワー数などによる自己肯定感の影響でまるで自分が物凄い芸術家になったような勘違いを起こしてしまい間違いだらけの評価が蔓延し、評価者の失墜とまではいかずとも霞がかかるというような現象が起きているのでは?と思うのです。

誤解を与えないよう補足させていただくとSNSなどのフォロワー数は多い程「正義」だと思います。
何をするにも今の世の中インフルエンスできる力は正義です。問題なのは審美の基準をSNSのパフォーマンスに依存する事が問題だと考えているのです。

写真新世紀の終わり

2021年を最後に日本の代表的な写真評価の権威の一つであった写真新世紀が終わりました。
お恥ずかしながらこれがどういうものでどんな影響力があったものなのか2019年時点では理解していませんでした。最後の写真新世紀で佳作受賞者であった遠藤文香さんの Kamuy Mosirを東京のKITTEで見た時の感動は凄まじいものでした。

写真新世紀の受賞者は過去に中村ハルコ、奥山由之、オノデラユキ、蜷川美花、鈴木心と当時まだ若手のエネルギーあるフォトグラファーが名を連ねていました。彼彼女らの表現を見た時如何に自分が無知で浅はかだったのか恥ずかしい気持ちになります。

また写真新世紀が素晴らしかったのは評価という裁定を下す立場の人間が素晴らしい審美眼をもつ方達で構成されていたことも一因としてあると思います。

ところが先程のような時代の流れとテクノロジーの進化とともにこの若手写真家の登竜門ともいえるこの素晴らしい評価ステージも幕を閉じるのです。
恐らく一つの役目を果たした事、また開催投資額に見合う後の商業的価値を見出す事ができなくなったからでしょう。

表現は自由、そして芸術には価値がある

そもそも私がこんな心配をしなくたって本当に力のあるフォトグラファーやカメラマンは新しい表現を世に問うてくるし価値ある芸術は残っていくと思います。 逆に価値観は時代と共に変わるべきだとも思うしそこについていけなくなったら潔く道を開けるべきとも思います。

ただ最近一時よりは落ち着いたものの
未だに狂った審美のままの表現を至高とする風潮やブランディングが目立ちます。

私は以下の引用文で指し示されている力がとても人生を豊かにするものだと信じています。

「芸術的価値とは、時を経ても色あせることなく、見る人に感動を与える力のことです。 作品と向き合ったときに得られる豊かな時間や、その時の幸福感がどれだけ大きいかによって、芸術的価値は決まります」※引用元:翠波画廊

安易な価値基準により本当に価値ある物を生み出せる逸材が埋もれ安易な評価が価値あるものとして認定される。それはなかなかに耐えがたいのです。※話はそれますがこれは車、時計、服、靴、家具などのプロダクトにも同じ事が言えると思っています。

私は反面ネガティブともとれるこの気持ちを大切にしながら人に感動を与えられるようなフォトグラファーとしての活動をしたい。そう心に留めています。
嘆くよりもまずチャレンジ、まだまだ日本でも写真新世紀に変わるような素晴らしい審美眼を持ったコンテストの場が残っています。そこへ向けて行動を続けていきたいと思いまず。※それらの話はまた後日。

なんだか今日はとっても小賢しいnoteになってしまったので次はライトな内容や撮影Tipsにしようと思います。

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