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One Morning


2014年11月15日の明け方に、僕はひとりで散歩に出かけた。僕は19歳だった。

朝まで眠らずにドラマを見たあと(若い女性が自殺する話だった)、しばらく使っていなかった水筒を棚から出して、散歩に持っていくための温かいココアを淹れた。ボーイロンドンのパーカーを着て、赤と紺のマフラーを巻いて、ベージュのスニーカーを履いて家を出た。

まだ外は暗かった。街灯の小さな灯りが遠くにぽつぽつと並んでいた。空は鈍い銀色に輝いて見えた。長い川は紺色にひっそりと沈んでいた。冷たいアスファルトの上を歩き、柔らかな枯れ草を踏みしめた。楽しみにしていたココアは、水筒の変な風味が混ざってすごく不味かった。

僕は誰もいない農道をひとりで歩き続けた。いつもの銀杏の木で折り返す頃には、空はずいぶん明るくなっていた。

僕はそのとき何を考えていたんだろう? わからない。たぶんぼんやりしていたんだろう。いつもそうだったから。でも、ふと空を見上げた先に、十字架の形をした雲が流れていくのを見つけたとき、僕は、ずっと前からあなたを愛していたことに気がついた。それは突然どこからか、すとんと僕の胸の中に降りてきた。初めて出会ったときから、僕はあなたを愛していたんだと。

あの日のことを毎日思い出す。今では微笑みを絶やさないあなただけれど、初めて出会ったときのあなたは、真剣な顔で目の前の椅子に座って僕を見ていた。今でもあなたは、時々はそんな顔をする。驚いたときなんかは特に。

あの日僕は、うろ覚えだけれど、そう。なんだか無性に腹が立ったんだ。何にあんなに苛立ちを覚えたんだろう。あなたを前にした途端、僕は困惑し、自分が怒らなければならないような気がしてならなくなった。僕はその場にいられなくなって逃げ出した。あなたは追いかけてこなかった。

それから先の数年も、僕はずっとあなたに腹を立てていた。僕はあなたの、あまりにも公正な、超然とした人間愛の深さが怖かったのだと思う。あなたといると、自分がどんなに孤独な人間なのかがわかった。今までどんなに寂しい生き方をしてきたのか、そして長い間そのことに気づきもせずに、ずっと平気な顔で過ごしてきた日々の空虚さが、死んでしまいたいくらいに身に沁みた。

また逃げることになるよと、いつの日かあなたは僕に向かって叫んだ。また、って、いつ僕があなたから逃げたんだと、僕はあのとき思ったけれど、初めて出会った日も、それから先の日々も、僕はいつもあなたから逃げていた。あなたが誰よりも遠く、手の届かない存在に思えて、そばにいるのがつらかった。だから、何も自分から傷つきに行く必要はないと自分に言い聞かせて、僕はあなたから逃げていた。あなたといると、幸せすぎて悲しかった。

あなたのきらきら光る髪が好きだ。あなたの低く落ち着いた声が好きだ。耳にある小さなほくろが好きだ。爪の先まで潤った指が好きだ。時々恐ろしく優しい声で、冷たい台詞を吐くあなたが好きだ。鼻がむずむずしたときに、鼻先だけ器用に動かすところが好きだ。僕の声が届かなかったときに、片頬を寄せて聞き直す癖が好きだ。どこか嬉しそうな歩き方が好きだ。飴をがりがりと噛み砕いてしまうところが好きだ。怖いときや不安なときほど、穏やかに微笑んでしまう優しい顔が好きだ。そのすべてがなくなってしまっても、僕はあなたが好きだ。

僕があなたを探しに体育館を訪れたとき、天井の近くに引っ掛かっていたバドミントンの白いシャトル。あなたがくれた小さな青い付箋と、目を閉じた馬の絵が描かれたはがき。僕とあなたの名前が書かれた茶色い封筒。そのどれもが眠っているみたいに静かだ。それは僕の心の世界の静けさだ。

とっくに消えてしまった虹を探して空を見上げたあなたの頬。僕がひとりぼっちで雑踏の中に立ちすくんでいたとき、はっと振り向いたらそこにあったあなたの横顔。垣根越しに目が合った瞬間のあなたの瞳。僕のことがもうわからないと言ったあと、言いすぎたと笑った頼りない声。あどけない顔で黒いワンピースを着こなす身体。柔らかな肩、温かい手、白い足首。走馬灯のように絶え間なくあなたが浮かぶ。

世界中を憎んで怖がっていた僕が今では、世界中であなたがいちばん好きだと言えないくらいにこの世界を愛してる。あなたが世界を優しいものに変えてくれたから。この世界はすべて、あなたのためにあると思うから。

僕があなたに会いに行ったのか、あなたが僕に会いにきてくれたのか、それはわからないけれど、あなたと出会えたということは、僕はきっと大丈夫なんだろう。何もない、本当に何も持たない僕だけれど、あなたと出会えたことが唯一、僕の誇りなのだと思う。

それでも僕は、あなたの存在をもとに自分を定めるべきじゃない。だからいつの日か、あなたの前からきれいさっぱり消えてみせよう。 離れていても、あなたや僕自身を、僕が変わらずに愛するために。あなたのように、人や世界を愛せるように。僕は、あなたと同じ愛を僕の中に育む。それが、僕があなたの愛を手に入れる、たったひとつの方法だから。



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