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『体育教師を志す若者たちへ』 第4章    保健の授業作り


 市では将来の人口増加による水道水の不足を予測し、川の上流にダムを造りました。下流に作った浄水場へ常時一定量の水を流すことができ、水道水量の確保を考えたのです。そして市民の自慢だった美味しい地下水井戸の多くは不用になりました。この写真は下流にある浄水場の取水口です。この水に含まれる有害物質を考えることから水の授業は始まります。結果的に市の人口は増えず、市民の半分の人は川の水を飲むことになりました。地域の水の歴史を学ぶことから保健の授業作りは始まります。                                   

 今回は第4章、保健の授業作りです。 

第4章 授業研究の面白さ 保健の授業作り

1 水を調べてみよう

 中学校、高校時代に読者が受けた保健の授業はどうだっただろうか。興味が沸き、ためになるものだっただろうか。保健の授業は体育の実技と違って教科書があるので、教師はその内容を教えなければならない。したがって授業の進め方も教科書を中心とした知識の詰め込みになりがちだ。これでは授業を受ける方も教える方もつまらないだろう。
 しかし考えてみよう。保健は受験教科ではない。教科書の内容に準じつつも、教師の裁量で楽しくてためになる授業が自由に創造できるはずだ。保健は自分自身の健康に関わることだから本来は受験教科よりももっと重要度が高いと考えるべきだろう。そんな保健の授業を生徒たちにとってはもちろん、教師側もわくわくするようなものにしていきたい。ここでは保健の授業づくりの魅力について語っていく。

◇赴任地でまずやること
 教師になって新しい学校に赴任したら、まずはその地域の水について調べてみよう。水の問題は中学校3年生の保健「健康と環境」単元に出てくる。調べるといっても学校のある日は多忙だし、翌日の授業準備もあるからそんな余裕はない。従って休日や長期休業中にやるしかない。夏休みの自由研究のつもりで挑戦してみよう。
 読者は自分の家の水道水がどこから来ているか知っているだろうか。生徒たちに聞いてみると知らないと答える生徒がとても多い。毎日自分の体に入れている水だ。自分の健康に直接影響を与えている身近な問題なのに知らないのはおかしい。職場の先生方に聞いてみよう。やはり知らない人は多い。新しい学校に赴任したら、まずは水を通して地域のことを学んでみるといい。
 教育の世界では地域を学ぶことの大切さがよく言われる。それには二つの理由がある。ひとつは身近なことで自分に直接関係があるから大事ことだし、学習に対する興味が沸くということ。そしてもうひとつは、地域の問題は実は日本や世界の問題と繫がっていて、地域を学ぶことは日本や世界の問題を身近な問題としてとらえることに繫がるからだ。実は後者のことまでつなげて授業作りをしている教師は必ずしも多くない。

 まずは赴任した市町村役場の水道局へ行ってみよう。授業で水のことをやりたいからと言えばいろいろな資料を提供してくれる。まずは水源地図。この地域は川の水を水道水にしているのか、それとも地下水なのかをチェックする。湧き水を使用しているところもある。それぞれ水道水にするための浄水の方法や投入する薬品も違う。地域の水道の歴史をパンフレットにしている市町村もある。水の大切さは地域の人こそよく知っている。最近では各地域の水道局がその地域の水源や浄化方法などについてHPでも公開もしている。
 次に休日を使ってその水源地図を片手に水源地や浄水場をまわってみよう。地域の様々なことを知る機会になり、楽しいドライブにもなる。川の水を使っている地域はその取水口の場所まで確認して写真をとってくる。こうした写真はスライドにして授業に使う。地域によっては地下水と川の水の両方を水道水に使っていて、ある家までは地下水、道を隔てた向こう側からの家は川の水ということもある。ただし、基本的にはそれを混ぜることはしない。なぜだろうか。そのことは遠い昔、古代ローマ遺跡の水道橋の写真からも分かる。人が通る橋ではなく、水道水が通る橋だから水道橋という。その橋には何本かの水源の違う水道が、何段かに分かれて流れている。そのことによってどこかの水源が汚染されたときに他の水道水に影響を及ぼさずに済むのだ。『水道の思想』(岩波新書)という本に書かれているので是非読んで欲しい。
 

浄水場の取水口には監視カメラが設置されていた

 地下水の場合はどの程度の深さの地下水なのかということも重要だ。その理由は後で話そう。地下水は浄水作業の必要性はほとんどなく、水道法で定められた最低限の塩素投入だけで済むことが多い。一方で川の水を浄水することは大変だ。これは浄水場へ行けば詳しく説明してくれるし、パンフレットなどももらえる。まずは自分の目で川の水の取水口を見て、この水の中にはどんな有害物質が含まれている可能性があるか想像してみよう。そして説明された浄水方法でどれだけきれいになるのかを考えてみよう。
 あまり想像したくないことだが、原子力発電所が攻撃されたら大変なことになるのと同様、水源地や浄水場に毒物が混入する事態にでもなったら、それはそこに住む地域の人たちの命に関わる。だから水の問題は大昔から特に大切に考えられてきた。これが「水道の思想」なのだ。
 水に関わる地域巡りをする際に携帯していきたいものがもうひとつある。それはプール管理で使っている水質検査キットだ。塩素濃度と水素イオン濃度(PH)が分かる。プールのない学校でも保健室にはあるはずだ。浄水場の取水口付近の酸性度を調べてみよう。日本の山岳地帯から流れる水は酸性水が多く、水道水にするには中和するために大量の薬品を投入しなければならない。  

◇健康問題とつなげる
 じつはここまでの地域の水道に関わる学習は小学校の社会科や総合の学習で取り組まれていることが多い。小学校では浄水場へ社会見学に行ったりもしている。しかし、それらは保健学習として行われているものではない。保健学習に結びつける作業が必要なのだ。
 現代はネット社会なのでネットからの情報も欠かせない。地域の水問題を考えている民間団体があり、そこから情報を発信していることもある。この情報は「民」からのものであり、役場などの「官」からの情報とは異なる考え方に出会うことがある。こうやって地域の水の歴史を調べていくと、過去に地域で起きていた健康問題を発見することこともある。

◇地下水汚染問題の例
 私の勤務していた中学校の学区内にある富士通旧工場跡地の例を示そう。2012年、旧工場跡地の地下水がPCBに汚染されているという問題が地元新聞で大きく取りあげられた。中学校から200m足らずの場所に位置し、多くの生徒たちの通学路沿いにある工場だ。汚染の原因は1960年前後の時期、絶縁性の高いPCBが広く電気機器に使われていたことによる。当時の工場では、不要になった電気機器を社内の敷地に埋めていたのだという。まだカネミ油症事件(1968年、食用油の製造過程でPCBが混入した事件)は起きておらず、その後PCBの毒性が明らかになった1970年代に使用が全面的に禁止された。カネミ油症事件でどんな健康被害があったのかは読者が調べてほしい。これは過去の問題ではない。現在でも被害者の方たちは苦しんでいる。
 旧工場では汚染源らしき電気機器をだれが敷地内のどこへ埋めたのか。その場所や深さが特定されていないだけでなく、汚染が発覚するまでに敷地内の建物は二度改築されてしまっていた。問題の電気機器を埋めたのは50年以上前のことなので、当時の従業員はかなり高齢になっているか、あるいはすでに亡くなっているだろう。敷地内では深さ10数㍍を流れる地下水(観測井戸)から環境基準を上回るPCBが検出されているという。この地下水の流れの下流方向200mに位置する地元高校ではプールの水を地下水で賄っており、急きょ水道水に切り替えた。その費用は富士通が負担することになった。
 私は新聞でこのニュースを知り、地元住民への説明会があるというので出かけて行った。行ってみると、驚いたことに参加者が意外に少ない。地元住民が大勢押しかけて怒りの声もあがるのではと予想していたが、発言者も少なく、静かな説明会で終わった。
 なぜ地元住民は静かにしているのだろうと考えた。それはこれまでの日本の公害問題の歴史を振り返ってみると予想できる。どの公害問題も、住民へ健康被害が明らかになってからようやく地域が動き始めるということが多かった。ところが今回の汚染はppm単位(ppmは100万分の一)。計算してみると分かるが、学校のプールに小さじ一杯に満たない毒物が溶けている程度なのだ。それを飲んでもすぐに体調が悪くなる訳ではなく、味も臭いも感じない。実感がわかないのだろうと思った。しかし、この微量毒物の汚染が現代では様々なところで問題になっている。

◇水問題の授業作り
 さて、読者ならこういう事態を知ってどう授業にしていくだろうか。水問題だけで4~5時間くらいの授業作りができるはずだ。しかしここでは私の実践をあえて示さず、こうした水質汚染に関連して次のキーワードが授業作りに重要になってくることだけを示しておく。
 〇食物連鎖による生物濃縮  
 〇ホッキョクグマの体内から高濃度のPCBが検出されている 
 〇環境ホルモン   〇動物の中性化=種の絶滅危機 
 〇カネミ油症事件   〇マイクロプラスチックの吸着機能

 そして地域の問題は日本や世界の問題につながっていく。富士通は汚染地下水の流れを止める対策として、敷地内の地下9~25mの深さに長さ50mにわたる幅2mのコンクリートの遮水壁を作った。しかし地下水の流れを止めれば上流から次々と流れくる水はあふれ出す。富士通ではあふれ出る汚水処理施設を敷地内に作り浄化作業を始めた。
 

 2012年11月、正面突き当たりが旧富士通工場跡地で、地下水汚染が問題になった観測用井戸のある地点。緑のシートの建物内で何かが行われている。(小山撮影)                 


 2013年1月の同地点。白いフェンスで囲まれてしまった。この中で地下9~25mの深さで長さ50mにわたる幅2mのコンクリートの遮水壁を作る工事が始まっていた。その様子は左手に見える里山の中腹に上がると上から覗き見ることができた。こんな工事が行われていることを地元の人たちはほとんど知らない。                                        

 ここまで話すとこれはどこかの問題と同じだと気づかないだろうか。そう、福島第一原発の汚染水処理問題と同じなのだ。福島原発の場合は遮水壁を凍土壁で作った。しかし原子炉周辺に流れ込む地下水を止めることはできず、そこで生じた汚染水が貯蔵できなくなり、海洋放出という大問題になってきている。地下水というものはどこをどう流れているのか今の技術でも明らかにできないのだという。したがって人の力で完全にコントロールすることはなかなかできない。
 富士通の場合不幸中の幸いだったのは、地下水が地下10数㍍の流れだったこと。この市内の飲料水は地下水が多く使われているが、その深さはどこも100m以上になる。ここで地域をまわって地下水の深さを調べてきたことが生きてくる。市が飲料水として汲み上げている地下水と富士通付近の汚染地下水の流れとは別ものの可能性が高い。地下水をプールに取り入れていた地元高校では、どの程度の深さから汲み上げていたのだろうか。それは当該校の問題なので私は調べてない。今回の地下水問題は、現在では汚染濃度がゼロに近づいているが、PCBの環境基準は、「ゼロ=検出されないこと」とされている。これに限らず、市町村では環境汚染の問題について定期的に検査をしてHPで公表している。

 同様の地下水の汚染問題として、最近は有機フッ素化合物PFOA,PFOSによる汚染問題が、沖縄、東京の米軍基地周辺や大阪などでも起きてきている。2022年1月に出版された『消された水汚染』(諸永裕司著、平凡社新書)では、今回授業で取り上げた地下水汚染と同様にその解明の難しさが描かれている。これからの水問題の授業作りに取り上げていくべき内容ではないだろうか。

2 放射能汚染の授業作り

◇広島・長崎から学ぶ
 2011年の東日本大震災に伴う福島第一原発の事故は放射能被害の深刻さを私たちに見せつけた。そしてこれを機に保健の教科書にも放射線のことが記載されるようになった。また、文科省からは「中学生・高校生のための放射線副読本」が国内全ての中学校に全生徒分送付され、これまで2回改訂版が出されてきている。その費用は莫大なものだろうが、原発を再稼働し、原子力政策を推進したい政府と、それに反対する国民のせめぎ合いがこの改訂版を作らせてきている。
 しかし、国民の批判を受けて何度改訂されても、「放射線は自然界にも存在しており、様々なところで利用されている」、「原子力は怖くない」(→再稼働すべき)という線は崩せていない。改訂版になってから、「除染」という言葉は出てきたが、私たちやマスコミが当たり前のように使ってきている「汚染」という言葉はいまだに一切出てきていない。こうした状況の中で、読者は「放射能汚染」の問題をどう授業にするだろうか。
 2022年ロシアのウクライナ侵攻で、原発の問題のみならず核兵器まで使用される危険性が出てきてしまった。唯一の被爆国日本は何をすべきかが問われているし、体育教師としては、保健の授業で原発事故や核の脅威、放射能汚染といった問題をどう扱うかが問われているように思う。

 私たちが放射能問題を授業として扱う際、まずは広島・長崎の被爆者から学ぶべきだろう。先の副読本の初版「知ることから始めよう放射線のいろいろ~中学生のための放射線副読本~」(2012年)ができた時、私がまず驚いたのは、この中に広島・長崎の原爆投下とそれによる被曝についての記述が一切ないことだった。そして現在の改訂版においては、「放射線が人の健康に及ぼす影響については、広島・長崎の原爆被爆者の追跡調査などの積み重ねにより研究が進められてきており、放射線の有無ではなく、その量が関係していることがわかっています」と記されているのみで、広島・長崎の被爆者が放射線被曝によってどんな悲惨な目にあってきたか、そして今なお苦しめられている状況などは取り上ようとしていない。それは副読本の次の記述からも察することができる。
「100 ミリシーベルト以上の放射線を人体が受けた場合には、がんになるリスクが上昇するということが科学的に明らかになっています。しかし、その程度について、国立がん研究センターの公表している資料によれば、100 ~ 200 ミリシーベルトの放射線を受けたときのがん(固形がん)のリスクは 1.08 倍であり、これは1日に110gしか野菜を食べなかったときのリスク(1.06倍)や高塩分の食品を食べ続けたときのリスク(1.11~1.15 倍)と同じ程度となっています。さらに、原爆被爆生存者や小児がん治療生存者から生まれた子供たちを対象とした調査においては、人が放射線を受けた影響が、その人の子供に伝わるという遺伝性影響を示す根拠はこれまで報告されていません」(副読本より)
 副読本の大半を、放射線は自然界に存在し、様々なところで人工的に利用されていることを説明することに費やし、被曝については一定限度内であれば不安になる必要はないという説明に終始している。そして復興が着実に進んでいる様子を示しながら、いわれない被災者へのいじめについては戒めている。

◇放射線の人体への影響
 保健の授業であれば、放射線の人体への影響をまず取りあげるべきだろう。ここでは読者が授業で扱う上で必要な放射線被害の歴史、「放射線副読本」には書かれていない内容について簡単に触れておきたい。
 1895年、レントゲンが世界で初めて放射線(X線と命名)を発見した翌年には、発明王のエジソンがニューヨークでX線の公開実験をしている。骨が透けて見える透視実験は話題を呼んだが、実験台となった助手には癌が多発、そのため透視に繰り返し使われた両腕は切断せざるを得なくなり、38歳の若さで亡くなっている。放射線の恐ろしさに気づいたエジソンは、その後放射線に関わることをやめる。レントゲンもある事情から研究生活をやめたので、この2人の科学者は放射線の被害に遭うことなく済んだ。しかしその後の研究に没頭したキュリー夫人やその兄のキュリー夫妻、そしてベクレルは放射線障害で亡くなっている。まだ放射線から身を守る必要性さえ認識されていなかった時代、放射線に関わった人々の体に何が起きていたのかを考えてみたい。そしてその後の原爆製造と広島長崎の惨状へと繫げていきたい。
 ここで広島・長崎の被爆に言及する前に、その後起きた純粋な「被曝」事件について触れておきたい。広島・長崎の「被爆」被害は、熱線・爆風・放射線の3つが複合した爆弾被害なので「被爆」と書くが、純粋に放射線のみによる被害を「被曝」と書いて区別している。日本人がこの純粋に「被曝」のみに遭った事例は、①広島・長崎原爆で熱線・爆風による傷はほとんど受けずに「黒い雨」などで放射能被害に遭った例、②1954年に起きた第五福竜丸事件(ビキニ環礁における米国核実験で「死の灰」を浴びた)での被曝、そして③1999年茨城県東海村の核燃料加工施設で起きた臨界事故などが挙げられる。 

◇核燃料加工施設での臨界事故
 1999年に起きた③は、ウラン燃料の加工作業中に核分裂連鎖反応が突如起きてしまったことから「臨界事故」と言われる。その作業にあたっていた3人は100%死に至るとされる8シーベルトの放射線線を一瞬にして浴びてしまった。爆発があった訳ではなく、熱線を浴びたのでもなく、純粋に中性子線のみが体を突き抜けた。外傷は全く見当たらず、嘔吐してしばらく意識を失ったものの、その後は普通に会話もできたので、医師たちは当初は助かるのではないかと思ったという。しかし強烈な放射線を浴びた全身の体細胞は細胞分裂を停止ていった。皮膚細胞もしだいに崩れて血だらけになり、内臓は多臓器不全。83日間苦しみ続けて死に至ったその様子は、NHK「東海村臨界事故取材班」による『朽ちていった命-被曝治療83日間の記録-』(新潮文庫2006年)にまとめられている。強い放射線を浴びると人体にどのような変化が起こるのかということが初めて医学的に詳細に明らかにされた事例だ。

◇「折り鶴の少女」の事例から学ぶ
 1945年8月6日、当時2歳だった佐々木貞子さんは爆心地から1.7kmの自宅で被爆した。爆心地から1.2km圏内ではその日のうちに半数の人たちが亡くなったとされている。貞子さんは奇跡的に助かり、外傷もなく元気だったという。その後順調に育っていくが、10歳の時に突然白血病を発症し1年後に亡くなる。回復を願って折り続けた折り鶴の話は日本中に広まり、1958年、広島平和公園に「原爆の子の像」が建立された。それは「折り鶴の少女」の話として中学3年生の英語の教科書でも取り上げられている。
 貞子さんはずっと元気だったのに、なぜ10年も経ってから発病したのか? そのことを体育教師であれば保健の授業の観点から調べてみたい。そう考えていたときに、貞子さんとは一つ年下で、貞子さんの家の近くで同様に被爆した女性の方が私の勤務校のある市内に住んでいるということを偶然知った。そのAさんに何とか連絡をとることができ、当時の様子や現在までの健康状況についてお話をお聞きすることができた。Aさんは中学生当時、原爆の子の除幕式にも参加していたという。
 その後Aさんには平和学習として私の勤務校に来ていただいてお話をお聞きしたが、私は保健の授業の放射能汚染の問題として、佐々木貞子さんとAさんの状況を比較しながら授業作りを進めた。  
 表にあるように、貞子さんが爆心地から1.7km、Aさんは1.1kmで被爆している。ともに幼少期で当時は家の中にいて吹き飛ばされはしたものの、母親に守られて火傷を追うこともなかった。ただし、貞子さんはその後「黒い雨」を浴びている。黒い雨については、井伏鱒二の小説『黒い雨』は読んでおきたい。様々な人たちの被曝の病状が綴られている。
 貞子さんもAさんも爆心地近くで被爆しており、相当な放射線量の被曝をしていることになる。ともに家族は火傷、嘔吐、血便などの症状が出て命の危険性さえあったが、当人たちは元気だったという。
 

 なぜ貞子さんは亡くなり、Aさんは70代後半になる現在まで生きてくることができたのか。それはAさんから直接お話をお聞きし、被曝の「確定的影響」および「確率的影響」という考え方を学ぶことで理解することができた。さて、この事例から読者ならどんな授業作りをするだろうか。
 Aさんも18歳の時に発病している。けっしてずっと元気だったわけではない。それどころか常に頭痛や体調不良に悩まされて今日まで生きてこられた。発病時、Aさんは入院を勧められたが、当時は入院すると退院せずに亡くなる方が多く、学生だったAさんは怖くて家族にさえ発病のことを話せなかったという。家族には内緒の通院と服薬だけでなんとか悪化することなく済んだ。

 生死にかかわる癌細胞ができて増殖してしまうのか、それとも何とか食い止めることができるのか、それは確率の問題になる。したがってAさんもいつかは貞子さんのようになるのかもしれないという不安の中でこれまで生きてこられたのだ。強い放射線を浴びたことで細胞の遺伝子が破壊され、細胞分裂ができなくなってすぐに髪の毛が抜けたり、内出血をしたり、あるいは血球が急激に減少したりなど、ほとんどの人に起こる状況を「確定的影響」という(1999年の核燃料臨界事故はその例)。それに対して、その時には異常は見られないが、その後何年かして異常細胞が発生してくる状況を「確率的影響」という。
 Aさんは被爆者手帳を持ち、現在でも定期的に健康診断を受けているが、その時々の医師によって違った診方をされるという。被曝治療専門の医師に診ていただける時は、「50年60年経ってから悪さをする放射能もあるから気をつけなさいよ」と言っていただける一方で、「今では誰もが3人に2人が癌になる時代、放射能の影響は関係ない」という一般の医師もいるという。

◇何年も経ってから発病する理由
 なぜ何年も経ってから発病するのだろうか。それはp53遺伝子という、異常遺伝子が発生した時に修復の役割をする遺伝子の問題なのだ。37兆個もある人体の細胞は日々細胞分裂を繰り返して生命を維持しているが、そこでは毎日のように異常細胞が発生しているという。しかしそれらは免疫の働きやp53遺伝子の働きで増殖せずにいる。
 しかし、修復に関わるp53遺伝子が被曝によって傷つき、そのままで受け継がれていったとき、何年も経ってから出てきた異常細胞への修復が効かないこともあり、それが増殖してしまう可能性が出てくる。それはちょうど自動車の修理工がたくさんいれば整備が行き届いて交通事故が起こる確率は減るが、修理工の数が減って仕事が十分にできなくなると、整備不良の車が出てきて交通事故が起こる確率が高まるようなものなのだ。その確率は統計的に見れば必ずしも優位ではないかもしれないが、p53遺伝子の発見によって理論的には明らかになってきている。(『内部被曝の真実』児玉龍彦著 幻冬舎新書参照)
 チェルノブイリ原発事故で多発した小児甲状腺ガンはヨウ素131によるものだが、この半減期は8日しかない。数週間でほとんど体内から消えてしまうのになぜ何年もたってからガンが発生するのかはこのことから説明できる。
 低レベルの放射線被曝も、この確率的影響の問題になる。福島第一原発事故で多くの人がすでに被曝している。今大丈夫だからもう大丈夫だとは言えない。また、現在も増え続けている福島第一原発の汚染水は(人体に害がないレベルに処理されているとして、政府は「処理水」と言っている)、いよいよ海洋放出の準備が始まってしまった。薄められたとしても食物連鎖による生物濃縮の問題はクリアーされるのだろうか。あるいはまた、地域の土壌に対する除染も進められてきているが、関東甲信越地方においてさえ、いまだに山菜の出荷が制限されているところもある。授業で扱いたい環境汚染問題は身近なところに多々存在している。

 次回は、「第5章 授業作り論」です。


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