かつてプラナリアを飼っていた
プラナリアという生き物をご存じだろうか。
多少の生き物好き、あるいは理系の人間ならおなじみの存在かもしれない。
あるいは、「切断しても死なずに、切断した箇所から頭が映えてくる生き物」と言えば、記憶の片隅に埋もれてしまった、あのうねうね生物を思い出すかもしれない。
それでも知らない方のために一応wikiを貼っておこう:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%A2
チキンは、プラナリアという生き物に通常の人間の何十倍か思い入れがある。
というよりは、忘れられずにいる。
チキンの中で哲学そのものになってしまった、私のプラナリアの思い出話を、また今日も思い出したので少し聞いてほしい。
捨てプラナリアの親になる
チキンがプラナリアを初めて手にしたのは、高校3年生の時だった。
それも恐らく、卒業近い頃だっただろう。
どこかで「理系クラスがプラナリアを生物の時間に使ったらしい」とかなんとか、そういう噂を聞いたのだ。
恐らく進路も決まりつつあり、特に授業で教えることもないから生物の先生の趣味だったんだと思う。
チキンはこれでも結構生き物が好きで、かねてからプラナリアを見てみたいと思っていた。
それで、そこそこ仲の良かった理系クラスの優等生にそれとなく問いかけてしまった。
「プラナリア使ったって聞いたけど……それってそのあとどうするの?」
これが「私も切ってみたい」というサイコパスじみた好奇心からくるものだったのか、
殺されようとしている動物を救いたいという菩薩じみた同情からくるものだったのか、
残念ながらチキンはもう覚えていないが、優等生は何のこともなく「水道に流す」とかなんとか言ったように覚えている。
それで、何匹かもらってしまった。
それからというもの、私の青春には一定期間、プラナリアの影が落ちることとなる。
かわいい愛しのプラナリア
同意してくれる人間も少なくないと思うが、実際プラナリアは結構かわいい。
ぷっくりした体に、つぶらな瞳、というのは全く持ってカピバラだとか、ハムスターだとか、そういう愛玩動物としてのポテンシャルを大いに秘めている。
私はプラナリアをそれなりに愛していた。
たぶん、1度か2度、切断してみたと思うが、あまり覚えていない。
チキンの脳裏に焼き付いているのは、プラナリアたちのゆったりした泳ぎだ。
私はプラナリア入りの瓶を勉強机の上に置いて、勉強の合間に動きを眺めたり、鶏肉にかぶりつく様子を観察したりして楽しんでいた。
当然だが、彼らは懐かない。
名前も付けようがない。
恐らく意思もなく、瓶の底を他の誰か(あるいは自分だった他人)にぶつかるまで漂い続けるだけだ。
「飼っている」という実感には欠けるが、焚火を見つめるような妙な癒しがあった。
ある程度の時が流れると、自然とプラナリアの存在感は自分の中で小さくなっていく。
それでも、餌をやることは決して忘れず、週に1回の食事をしっかり食べているか観察し、元気に泳いでいる姿を見ては、
「私が見ていない間も、この小さな生き物は瓶の中を何万回も、自分と自分だったかもしれない存在と一緒に這いまわったのだろうな」
などと生きることへのある種の寂寞を抱いて、そっと瓶に蓋をする。
チキンは青春最後の一時を、そうやって過ごした。
プラナリアとの二人暮らし
やがて、チキンは進学した。
知っている人は知っているだろうが、八王子の山奥にある某大学である。
実家は都内だったものの、通学には片道2時間かかる。
そして何より、親元を離れたいという堅いチキンの意志で、大学近くのアパートで人生初めてのひとり暮らしを始めることになった。
引っ越し当日、積んだ荷の中にはプラナリアたちがいた。
「両親がプラナリアをちゃんと育ててくれる気がしない」というのもひとつの理由だったと思うし、
「完全にひとりはなんだか寂しい」というのもひとつの理由だったと思う。
それに、愛着も愛もあった。
チキンは家賃3万・六畳一間の部屋の隅に、プラナリアの瓶を置いた。
初めて行った近所のスーパーで鶏肉を買ってはプラナリアに分け与えて、
勉強の合間に変わることのない彼らの動きを見つめては、少しの寂しさと達観と癒しをもらいながら、大学デビューを果たしたのだった。
いずこへ、愛しのプラナリア
すぐ前の一文で、「変わることのない彼らの動き」と書いたが、実は変わったことが一つだけある。
それは、数だ。
ある日、餌やりをしながら、チキンは思った。
「あれ、明らかに譲ってもらった時より数が多い……」
言っておくが、チキンは暴力的行為は働いていない。
切断したり、頭を半分に割いたり、教科書に載っているありとあらゆる邪智暴虐なる行いは断じてしていない。
正直この辺になると、「かわいそう」よりは「もう知ってるし面倒だからいい」という気持ちが先に立ってるからであるが、チキンの慈悲によるものとしておこう。
とにかく、奴らは勝手に増えていた。
もらった頃は5~6匹だったと思うが、瓶の中にはもらった時より小さなプラナリアが10程度はいた。
チキンはグーグル検索をし、「餌をあげすぎると増えてしまうらしい!」という知見を得た。
なるほど、栄養分が有り余っていると分裂して増えてしまうとのこと。
だがこれ以上プラナリアが増えても仕方がないので、これからは餌をあげすぎないようにしようと決意。
慣れないメイクで大学に行き、アニメーション制作サークルに入り、授業をしっかり受けながら、チキンは餌の量と頻度を減らした……。
そして、数週間後。
プラナリアは、増えていた。
いや、なぜだ。
ちゃんと餌を減らし、水も綺麗にして、増えないように生活していたではないか。
チキンは再度グーグルに質問を投げかけた。
そして返ってきたのが、以下の答えである。
「プラナリアは、飢餓状態になると分裂する」
もはや無理ゲーである。
プラナリアが増えれば増えるほど、私のプラナリアへの愛情は減っていく。
新生活が忙しくて楽しかったのもあって、やがてチキンは「どうやってこの無限プラナリアを手放すか」ということばかりを考えるようになった。
プラナリアとの別れ
だがチキンは、ここまで育ててきたプラナリアたちを、水道に捨てるようなことはできず、
かといって、永遠に無限プラナリアを置いておく気にもなれず、餌をやるたびに悶々とした日々を過ごすことになった。
時折、一番長いヤツに「プラちゃん」案とか適当な名前を付けてかわいがることがあったが、
次に見た時、その「プラちゃん」はいないかもしれないのだ。
分裂してしまった「プラちゃん」は、まだ私の「プラちゃん」なのか。
そして「プラちゃん」だったとして、小さなプラナリアたちのどれが「プラちゃん1」と「プラちゃん2」なのか。
もしかしたら、「プラちゃん」自身もまた、元「プラちゃん」から生まれた個体で、「プラちゃん」は「プラちゃん」ですらなかったのかもしれないとか。
そういうことを考えるのに、私はほとほと疲れ果てていた。
そして彼らが「哲学」になる時がくる。
いきなりだが、チキンの一生にはかつて彼氏と呼べる人間がひとりだけ存在していた。
詳しい話は本筋に関係ないから割愛するが、中原中也と三島由紀夫を足して2で割ったところにダダイズムをタピオカよろしくトッピングして中二病をふりかけた人間を想像してもらえば大体彼になる。
当時出会ったばかりの我々であったが、ふと、「彼ならプラナリアに興味があるのではないか」という直感がした。
端的に言えば、プラナリアに興味がありそうな顔だちをしているのだ。
「プラナリア、飼ってみない?」
答えは当然、YESだった。
突然そう言いだした私にも大して動じず、YESだった。
そんなわけで、プラナリアがうら若き日のチキンのロマンスを彩ることになったのだ。
チキンは早速、帰ってプラナリアたちに鶏肉をあげて、その動きを見つめた。
「これが見納めになるかもしれない……」そう思うと、やはり少し寂しかったが、早くプラナリアの呪いから解放されたい気持ちの方が大きかった。
「明日、ばいばいだからね……」
そう語りかけても、もちろんプラナリアはなんの反応も返さない。
私の気持ちなんて関係なく、ただ、ず~っと永遠に、瓶の底を分裂しながら這い続けるのだ。
自分だったかもしれない者と触れ合いながら、孤独に。
プラナリアの運命と、生き物の一生についてを考えて、ふと悲しくなってしまう。
だけれど、「これもきっと最後になるだろう……プラナリアがダダイズムの彼の創作意欲を掻き立ててくれますように……」そう祈りながら、最後に水を換えた。
彼とプラナリアが初めて出会った時の印象が悪いと、プラナリアの哀しい一生がもっと哀しくなってしまうかもしれないから。
ここで無事に終わっていれば、私は今頃、かつてプラナリアを飼っていたことなんてさっぱり忘れて、プラナリアの呪いから解放されていただろう。
わざわざこんなnoteを書くこともなかったに違いない。
だが約束の朝目覚めると、プラナリアはきれいさっぱり消えていた。
瓶の中には、ただの水が入っているだけ。
あれだけいたはずのプラナリアたちが、跡形もなく消えていた。
(そういえば、水道管の工事をしたって通知が来てたっけ……。)
プラナリアは、綺麗な水がないと生きていけない。
私のプラナリアは、溶けてしまったのだ。
とてもショックだった。
せめてあと1日、昨日私が水を換えていなければ、彼らはダダイズムの彼と楽しい生活を送れたはず。
動くもののない透明な瓶の底に、鶏肉かプラナリアか判別のつかない残骸のようなものが漂っていた。
だが、悲しんでも、溶けてしまったものは仕方がない。
それに、私はいつからかこうなることを望んでいた。
水の入った瓶をシンクに置いて、「やっと呪いから解放された」と思いながら、排水溝に瓶を傾けかけた時、つい考えてしまった。
―――この水もまた、私のプラナリアなのか?
そのあと、結局当時の彼とは少し付き合いの真似事をした後に疎遠になり、大学を卒業し、オーストラリアを経てニュージーランドで暮らし始め、
今のチキンはプラナリアとは縁もクソもない生活を送っている。
だが、手を洗う時、シャワーを浴びる時、皿洗いをするとき、かつて飼っていた私のプラナリアたちをふと思い出すことがある。
そして、この水はあのプラナリアたちだったのではないか、なんて思う。
プラナリアは、飼わない方がいいです。
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