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星製薬大阪工場の親切第一稲荷神社

兵庫県と大阪府の境界に聳える妙見山。その大阪府側からの参道(本瀧道)脇に廃寺『法華經寺』の残骸がある。かつての境内にはまだ稲荷の社が建っていて、傍らには縁起が刻まれた石碑がある。参道を歩くハイカーは多い筈だが、この祠について言及している者は僅かである。
このまま朽ちるに任せて忘れ去られるのも忍びないので、少し調べてみて分かった事を並べてみた。※なお以前にmixi の日記に書いた事と内容としては重複している。

石碑に刻まれた全文は次の通り、

 親切第一稲荷神社鎮座之記
大正十三年一月星製薬株式会社社長星一先生小西喜兵衛氏等ト
相謀リ此之地ニ世界的模範工場設置之議成リ同年三月工ヲ起シ
テヨリニ歳餘今ヤ其之基礎事業タル石鹸大工場ヲ始メ化粧品工
場之一部竣成ヲ告グ此之時ニ当リ曩(さき)ニ本社ガ本社之守護神トシ
テ大崎工場ニ親切第一稲荷神社ヲ鎮座シタルニ倣ヒ全国ニ散在
スル星全家族及本社関係者ヨリ之寄進ニヨリ社殿之建立ヲナシ
御霊ヲ本社ヨリ移シテ此処ニ盛大ナル鎮座之式ヲ挙グ
為後此処ニ当稲荷神社之由来ヲ誌ス
 大正十五年四月 星製薬大阪工場職員一同建之

星製薬大阪工場の所在地は大阪市大正区船町1-1、中山製鋼所の高炉やコークス工場が在る辺り(炉は休止後解体された模様)。
株式投資年鑑(経済情報社)の1936年末時点で事業所の一つとして星製薬大阪工場の存在が確認できる。ただ、全国工塲通覧(商工省)では1931年末時点の情報が反映されている昭和八年版を最後に掲載されなくなっている。
これは通覧の掲載条件である生産に従事する職工が5人以上を満たさなくなったか、操業を完全に停止していた事を意味する。 
通覧では操業は大正十三年九月と書かれている。主要生産物は石鹸。

大阪工場地図

旧一万分の一『柴谷』大正十年測量、昭和四年修正 より船町の東側部分
建物の棟が判る図ではあるけれど、この中に稲荷の社が含まれているかは不明。

星製薬のメインの工場は五反田界隈の大崎工場で、敷地内に非常に立派な稲荷神社が在った。この祠はそれを分祀したもの。

現在、祠の在る住所は大阪府豊能郡能勢町野間中147-1
元々は野間中の集落の住人による共同所有の土地であった。
宗教法人法発布後、日蓮宗系の単立宗教法人法華經寺を設立。共同所有者の一人が代表役員に就いた。ある時、共同所有者の土地を買い取った上で、この宗教法人で墓地経営を始め移転(妙見山の反対側の山麓、ここは現役で稼働している)。しばらくは移転先とこことの二拠点で運営が為されていたが、ある時期に代表役員が解任され、その人物と土地・建物が宗教法人とは何の関係も無くなり、残された建物は朽ちるに任されているという状況。
現在の土地所有者はこの解任された元代表役員の子息と思われる人物。
法華經寺の建物(堂宇他2棟)は宗教法人設立以前の共同所有時点から在った。

星製薬大阪工場から祠がここに遷座した時期、理由は不明。

小西喜兵衛は道修町の薬種商、小西喜商店店主。代々喜兵衛を襲名する家系の六代目。大日本製薬の監査役、資生堂の取締役等も兼ねていた。※同時代に同業の同姓同名が2名他に居るので混同注意。
店の在った場所に今は田辺三菱製薬大阪本社ビル(田辺製薬本社)が建っている。
この小西喜商店は星製薬の製品の関西(もしくは西日本)の代理店であったことが(新聞広告から)判っている。

星一及び星製薬に関する文献として第一選択となる『人民は弱し 官吏は強し』星新一 では星製薬大阪工場、小西喜兵衛についてどちらも言及がない。

以下は個人的な妄想、
1924年の文献で大阪工場に触れた『星一とヘンリー・フオード』京谷大助には需要増に対応するために大阪工場の建設を始めた云々と希望に満ちた未来が語られているけれども、1932年時点の大阪の各種工業の概況を説明する叢書の内『大阪の石鹸工業』大阪市役所産業調査課 にて、星製薬の石鹸事業上の失敗が述べられている。
1930年からの昭和恐慌で需要が縮小し、生産調整の為の人員整理や賃金切り下げが原因で各所で労働争議が起きており、当時の新聞記事から判断するに星製薬でも大崎の本工場だけでなく大阪工場ででも労働争議が起きていた様である。おそらく、まともにラインが稼働していた時期は相当短かったので、工場は建てたが思うようには行かずという状態で、黒歴史になってしまったのではないか。
大阪工場の稲荷の社は大正十五年四月に建之という状態であったから、1932年以降の操業が停止しているか大幅に縮小されている時期から1937年に中山製鋼所が土地を譲り受けるまでの間のどの時点であってもまだまだ新しいと言え、これを毀のは忍びなく引き受け手が居たのだと思われる。
なお、船町の件の土地は大阪市所有の借地でしかないので星製薬から中山製鋼所へ使用者が移った正確な時期は登記簿には記録が残らず、判らなかった。

『目で見るマルホ七十年史』マルホ株式会社 では木場栄熊(創業者)と安楽栄治(星製薬常務、星一の米国滞在時の日本語新聞事業の共同経営者)とに縁戚関係が有ること。木場栄熊が1910年~1915年の間小西喜商店で貿易を担当していたことが書かれており星一と小西喜兵衛の面識は有った筈なのだけれど、碑文以外の文献情報で他に小西喜兵衛との関係に言及したのものを見付けられていない。
星製薬の製造したモルヒネの取引が有ったことは広告から判るので、『人民は弱し 官吏は強し』では麻薬関連の人脈として省かれてしまっているんでないかと勝手に想像している。

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