「人生にとことん片想い」という状態が貢献
こんにちは、すずめです。
「ひとりひとりが自然体で生きる世界」をコンセプトにお話聴く人やってます。
今捨てるべきは「気遣い」。
昨日のつづきです。
人には「人生の転機」というべきものがときどき訪れます。
そのときにどちらを選ぶかで、これまでの人生の延長線上(旧世界)を生きるか、これまでとはまったく違った人生(新世界)を生きるか、大きく分かれます。
たいていの場合「人生の転機」と言える場面は、大なり小なり「どん底」感にさいなまれてどうにもならないとき、という場合が多いのではないでしょうか。
いわゆるBADな状態です。
さて、先ほど、今捨てるべきは「気遣い」と書きました。
振り返ってみると、小さい頃から人に気を遣ってばかりでした。
「よかれ」の想いで動くお節介役、緊張感のある空気感を和ませる道化役。
そんな風にして長いことバランスをとって生きてきました。
そんな中、BADな状態を味わうフェーズがやってきて、ここのところの体調も絶不調。
でも、そのBADを紐解いてみると、
「BADなのはダメな状態」なんじゃなくて、ただのサインなんですよね。
もう「気遣い」を手放す人生を送っていいんじゃない?
「気遣い」と「貢献」は紙一重。
どちらも自分で選んでやっているから主体的です。
じゃあ何が違うの?
前者は相手の反応に敏感な状態。
なので相手の出かた次第でめちゃくちゃ消耗します。
人は自分の思い通りになんて動くわけないのでね^^
(もし思い通りに動かしたり動かされているとしたら・・それは支配関係)
かたや後者は相手に片想いの状態。
なので相手の出かたは関係ないんですね、つまり消耗しなくて済みます。
片想いの状態ってどこまででも頑張れるじゃないですか♡
「人生にとことん片想い」という状態が貢献。(すずめ解釈)
「自分の人生で出逢う人すべて」にとことん片想い、ってよくないですか?
「人生の転機」で立ち止まったタイミングをBADとみなすことは簡単です。
アイデンティティクライシスになるもんね。
意識(思考、感情)が固定化して、ほかのこと考えられなくなるもんね。
でもそれって絶好の、気づきのとき、というだけ。
それ以外のなにものでもありません。
(「ダメ」ジャッジして切り捨てちゃうとかじゃないので、安心してね)
本当にBADなのは、これまでの人生の延長線上(旧世界)を生き続けること。
先の例で言うと、何事もなかったような平和な振りして、実は人の顔色を見てご機嫌を伺いながら生き続けていくようなもの。
ヤバくないですか。
これをBADと呼ばずしてなんと呼ぶのでしょう(怖いわ)。
なので、BADなのって、実は悪くないんです。
気づけたってことだから。
すずめの場合だったら、きれいめなナチュラリストな体で「自然体」とか言っちゃって、平和ぶってるほうが実はBADだったりするんですよね。
だってね、現実、不自然な現象しか起きてないじゃん。
見て見ぬフリすんなよ、って話です(毒舌)
ということに気づいて、ハッとなってました。
気づけてよかった。
これ気づけないまま人生進んでいったらマジでヤバかったわ。
気づけたら、これまでとはまったく違った人生(新世界)を生きれます。
あなたはBADなとき、どんなことを想ったり考えたりしますか?
それはきっとどれもあなたにとっての正解。
じゃあその先自分はどうしたいんだろう・・
もしわからなかったら一緒に考えてみましょう。
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