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こころを開いた姿はきっとこんな色
こんにちは、すずめです。
「ひとりひとりが自然体で生きる世界」をコンセプトにお話聴く人やってます。
「こころを開く習慣化」を実践してます。
(さらに自分に還る14日間チャレンジ4日目)
自分を開いたらどんなものが出てくるのか、どんなことが起こるのか。
今のところ、何をやったか、よりも、自分の中から出てきたこと(気づき)を書く感じになってます。
人との関わりの中でわかることが今の自分にとって大切なこと。
以前は、人との関わりを横に置いて、気づきを得ていたので。
自分のことは二の次、それでいいように想う。
と想いつつ、
結局のところ、自分のことを二の次にしてやっていることは、自分にとって「やりたいこと」だったり「幸福度の高いこと」だったりしてる気がする。
わからない。
二の次ってなんなんだろうね。
いまは、圧倒的に誰か(具体的な対象)に何かをする、みたいなことに意識が向くようです。
できることや、できる程度、は脇に置いておくとしても、
そのような傾向があることを自覚することで、何か開かれていくことがあるのかもしれない、可能性を見ている。
これは今までになかった捉え方。
そして、好きでやっているのかというと、実のところよくわからない。
でもそれでいいと想ってる。
今はすべて実験。でもたぶん、人生すべて実験。
そういうことをする期間、いまは。
好きとか嫌いとかも、いったいなんなんだろうね。
好きで取り組んでいたとしても、ある段階になると急に嫌んなったりする。
それって「伸びしろ」がわかるタイミングでもあって、
見る目ができるほどには成長してきたという証拠でもあって、
嫌になることも、落ち込むことも、好きと同様、
「統合したいと想う欲求」のあらわれと想っている。
でも冷静にそう想えるようになったのはホント最近のこと。
一般的な好きとか嫌いみたいにシンプルでないなぁ。
何年も前に、アイキャッチみたいな光のイメージの中で、ちっちゃな子どもが地面に絵を描いている場面が、ここのところふいに想い浮かぶ。
このアイキャッチは樹ちゃんに描いていただいたのですが、いつまでも眺めていられる。
わたしの中にいる可能性の塊のちっちゃな子どもが喜んでるのもわかる。
もっと光を感じながら盛大に楽しめばいいと想う。そういうトライ。
軟酥(なんそ)のように、貴くて、内側から温める、わたしにとってとてもいいものだ。
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