「安楽死を拒否する感情」に真っ向から対立する

安楽死をどうしても
受け入れられない感情


NHKドキュランドへようこそ
生きるこだわり
安楽死を選んだパラ金メダリスト

を見た。

安楽死肯定派の私でさえ、
正解のない問題を永遠に抱える
息苦しさを覚えた。

どんな境遇であれ、
決定権が母親のみに帰属し、
母子以外の第三者には関与・言及不可
(よって実質的な選択権は母親が所有)
な中絶というケースであれ、
「死」には、必ず苦悩や苦痛が伴う。

カタルシスなど微塵もない。

だから、
安楽死に反対する者の気持ちが、
その理屈が、その感情の流れが、
その本能的な嫌悪感と忌避が、
理解できるような気がした。

安楽死の選択肢を受け入れない者が、
徹底的に抗い、絶対的に拒絶するもの、

きっと、それは
生死に関わる決断だ。


彼らは、生死の問題に起因する
ありとあらゆる計り知れない負担を、
可能な限り、全力で避けたいのだ。

安楽死の選択肢を否定する者に、
出生主義者か(反出生主義者か)と
問うことは無意味だ。

安楽死否定派の本音は、
生き物としての本能的な感情にある。

ヒトはいずれ
間違いなく死ぬ運命にある。

その運命をわざわざ故意に前倒し、
その上、更なる苦悩や苦痛を、
何故、自ら望んで味わう必要があるのか、

強烈な苦悩(苦痛)を伴う
安楽死の選択肢があること自体が、
ただただ不快で不安で堪らないのだ。


安楽死の選択肢を放棄する
=思考を放棄する

無限に時間をかけて熟考し、
どんな根拠で、どんな結論を出し、
誰の同意や、どんな賛同を得たとしても、

生死に関わる決断(結論)とは、
不完全な過ちになることはあれど、
完全なる正解になることは、決してない。

だからこそ、
安楽死自体が忌避される。
安楽死の思考さえ拒否される。

生死の決断どころか、
その思考さえ放棄するため、
人は生死を司る神を創った。

宗教の最も合理的で実用的な点は、
神が登場するチート理論をもってして、
あらゆる思想思考を停止させ、
心の安寧をもたらすことにある。

生死に対する問いも答えも、
他人(神)に丸投げするその姿勢は、
理性や知性の対局に在るものだが、
生き物としては、非常に生命力に満ちた
理想この上ない生き方なのだろう。


安楽死の選択肢を否定する
=意志を否定する


自分の意志で生まれたのではないから、
自分の意志で死んではならない。

この理屈で到底納得できないのは、
自分の意志のみを追及する点だ。

ヒトが生まれる時も死ぬ時も、
本人の意志はガン無視される一方、
本人以外の他人の意志は無視されず、
ガッツリ介在している。
(他の存在が介在しない生はあり得ない)

上記の理屈を肯定する場合、

生を他人に望まれ、
死を他人に拒否される、

という理想的な状況だけでなく、

生を他人に拒否され(=中絶)、
死を他人に望まれる(=殺人)、

という理不尽な状況でさえ
受け入れを強要することになる。

上記の理屈を美しく言い換えれば、
貴方は、生かされている」だが、
身も蓋もない言い方をすれば、
生まれる時も死ぬ時も、
貴方の意志は無関係(無意味)
」となる。

現実において、いかに無力だとしても、
個人の意志を無下にする理屈(※)を、
私は決して認めない。


中絶を否定しない(母親の意志を尊重)
=胎児の意志を無下にすることではない。

母親と胎児の意志は、
それぞれ個別に尊重されるべきである。


思考も意志も放棄しない
=安楽死の選択肢を肯定する

誰だって、幸福であれば、
健康で、美しく、豊かな能力を所持し、
世間に受け入れられる環境下にあり、
確固たる自己肯定感を維持できれば、

いつまでも生きていたい、と願う。

だが、
そんな幸福に恵まれるかどうかは
ほぼ100%運次第で、
欠落した幸福の埋め合わせを
社会や他人に期待するのは
(間違いではないが)
あまりにも非現実的過ぎる。

だから、
人は安楽死を選択する権利を求める。

自分の意思や力では
どうにもできないものを拠り所にして
人生を主体的に生きることは不可能だ。

福祉を受けられたとしても、
生活が保証されたとしても、
現状の何か一つでも欠けたら、
(法律が何かしら変更されたら)
明日を生きることさえ脅かされる。

そんなギリギリで不安定極まりない、
始終(命綱なしの)綱渡りな人生こそ、
安楽死肯定派である私は、
可能な限り、全力で避けたいのだ。


希望を放棄しない
=安楽死の選択肢を求める

安楽死の選択肢を排除する者とは、
本能的な苦悩(苦痛)や不快感を避け、
生死の決断を永遠に保留にする者だ。

だが、

他人を、人間を、
その人間の集団である社会を、
もしくは、神(的な何か)を
本人が絶対的に盲信しない限り

諦念と共に「生かされるだけの存在だ」と
人生の主導権を本人が手放さない限り

安楽死の選択肢(を願う意志)を
取り上げることは不可能だろう。


安楽死は、
絶望を経た希望である。

人生の主導権喪失
という絶望を受け入れ、
主体的な人生を奪還する
最後の希望なのだ。

絶望の生か、
希望の死か。

その定義や決断は、
本人に委ねられるべきであろう。



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